【わたしの療育】ココがヘンだぞその励まし方(北村碩子)
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北村 碩子(きたむら ひろこ)
私が特別なニーズのある子どもたちの塾の講師になろうと思ったのは、自分自身の体験や、自分が今までに関わった人たちの影響が大きい。
私自身、支援が必要な子どもだった。が、私が小さいころは今ほど知識も理解もなく、単なる性格や怠惰だと見過ごされてきた。子どものころから「勉強はそこそこできるのに、なぜこんな当たり前のこと(特に、人の話を聴く、先回りして事態を予測する、社会常識的な挨拶や定型文を言うなど)ができないのか」と言われ、「そんなの、私自身が問いたい」と思い続けながら生きてきた。そして、それについて具体的に「できるようになるための専門的な手助け」は受けられないままであった。
「私はこのように苦労してきたのだ」と、周りの人に打ち明けたことがある。すると、時々このような返答が返ってくることがあった。「勉強ができるからいいじゃない。かわりにほかの才能があるからいいじゃない」と。私はそのたび、慰めやいたわりとして受け止め、礼を言いつつも、「何かがずれている」と違和感を感じていた。
しかしながら、私も知らず知らずのうちに、ほかの仲間たちにも同じような声掛けをしていた。私の身近な人たちにも、少なからず同じような経験をした人が存在する。小さいころから周囲の人のコミュニティに馴染めず、先生にも「困った子ども」扱いされ、給食の楽しみだけを頼りに、いじめやからかいに耐えて学校に通っていた人。頑張っているのに、計算能力や書字の力が上がらず、それを学友にからかわれて、結局登校拒否になってしまった友人。感性が繊細で優しいために、先生と反(そ)りが合わなかったことから心身のバランスを崩し、殆ど学校に通えず、読書を楽しみに生きてきた友人。彼らも私も、「根本的な不便さ」は全く解消も理解もされないまま、「その他の何か楽しいこと」に気をそらして、騙し騙し生きてきたと思う。
その違和感の正体は、ある日偶然、アルビノの人の手記を読んだことによって分かった。「私は、視力や見た目が違うことへの差別について苦労してきた。なのに、第三者から『でも、白くてきれいだからいいじゃないか』と言われると、苦労をぜんぶないがしろにされた上、話を逸らされているようで悲しい」と書かれていた。私が感じていたもどかしさはこれなのだと気づいた。
白くて綺麗だからといって、学校で弱視に配慮しない先生に当たり、板書が見えずに成績に響く苦労が消えるわけではない。日焼け止めクリームを禁止されて、全身火傷(やけど)状態になる痛さがなくなるわけでもない。街なかで、突然心ない見た目への罵倒を浴びせられる恐怖がなくなるわけではない。「きれいだからいいじゃない」などという言葉よりも、学校の教員に弱視やメラニン欠乏の知識を持ってほしいだろう。道行く人に、見た目で人を差別しない心構えを持ってほしいだろう。
私たちもそうである。繊細だから、特有のことに対する深い興味があるからこそ楽しめる世界も確かにある。だが、だからと言って、私たちの特性に配慮しない授業形態によって、授業中の騒音に悩まされたり、努力しているのに周りと違う行動を取って叱られたり、多くの子なら気にならない心の機微に振り回されて疲れたり、聞き逃しやうっかりミスが多くて周りから変な目で見られたりという気苦労が減るわけではない。
そのことに気づいた時、私は「誤魔化さない療育」を目指そうと思った。
「〇〇だから××が苦手でもいいじゃない」という言葉はできる限り言いたくないと考えていることについて、またこれから批評を受けることもあるだろう。もちろん、一概に悪いとは言わない。目が不自由な人に、「あなたは見えなくても耳で聞いたり触ったりできるからいいじゃない」と言うのは、必ずしも悪ではないと思う。だが、目が悪いことで文字を読めないのに点字を用意してもらえず、音声付き信号機も点字ブロックもない状況で、健常者に「視覚障がいに必要なツールを用意して」と言っても「特別扱いはできない」と断られ続け、結果自由に外に出ることも満足に学習することもできなかったときに、「文字を使った学習もできないし外出もできないけど、聞こえるし触れるからいいじゃない」と励ませるだろうか。明らかに周囲の環境が整っておらず、健常者側の都合で障がい者に多大な負担を強いている状況で「できること、いいこともあるんだからいいじゃない」はあまりに身勝手だろう。これはたとえば、読字や書字に困難のある子が、ワープロや音声読み上げ機能のあるツールも使わせてもらえないまま学校生活を送り、後から「勉強はできないけどほかのことはできるからいいじゃない」と言われるのと同じことだ。目が見えない、字の読み書きが難しいのはたしかに変えようのないハンデである。だが、彼らは「多数派のやりかた」で学び、生活することを強いられるばかりに、「彼らに合った学び方」を与えられない環境で、「本来なら獲得できる能力.生活の自由」をも奪われてしまうのは、明らかに理不尽な暴力である。そしてそれができないことで生まれる不便さ、周りからできないことを奇妙に思われることの気疲れ、それができないまま成長することの劣等感を知っているから。どう頑張ってもできないのであれば、それを周囲に、自分の言葉で説明し、手助けしてもらえる力をつけられる療育をしたいと思った。
【著者紹介】北村 碩子(きたむら ひろこ)
はじめまして。生まれも育ちもずっと香川です。去年の夏から、障害児通所施設の指導員として活躍させていただいております。性格はよく天然と言われます。発達障がいの当事者として、日々関わらせていただいている利用者様からたくさんのことを学んでいます。
趣味…読書、約束のネバーランド、物書き、犬など。ピアノ弾けますので、お子様のリクエストたまわれます。
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