【当事者が語る就労移行支援】③ 検査入院
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吉田 憲司(ヨシダ ケンジ)
12月初旬に人工呼吸器の調整と生活改善のアドバイスをもらうため
大阪急性期・総合医療センターに受診した。
「来年あたり身体検査をするつもりです。」
と言ったあたりから翌週に検査入院する流れになった。この病院には受傷当時から
お世話になっていて自宅から遠いにも関わず
受診や勉強会やら何かと足を運ぶ機会が多い。受傷当時、1993年福島区にあった旧阪大病院に運ばれ処置を受けた。
移転間近だったため2ヶ月足らずで
長居の旧大阪府立病院(現大阪急性期・総合医療センター)に転院した。当時の頸髄損傷の人工呼吸器利用者にはあまり選択肢はなく、
行き先も決まらないため、
主治医の好意で一年近く入院させてもらった。その主治医が他の病院に移籍されることになり
それに合わせる形で自分の退院の時期も決まった。退院後の生活についてソーシャルワーカーに相談したところ
提示されたのは次のようなものだった。・病院での社会的入院
・施設
・在宅療養上の二つについては精神面での保障はできないとの前置き付きで。
在宅については大阪府下で自宅での人工呼吸器管理の事例がほとんどなく
利用できそうな制度もなかった。どれを選んでもダメならまだ自宅の方がマシということで
在宅療養が始まることになる。病院では散々、呼吸器トラブルを起こしたものの
在宅生活は比較的落ち着き、
紆余曲折はあったが幸いに今に至る。その様な御縁の病院だったし、
一日だけの検査入院であり、
今回は命にかかわる話でもなし。そんな油断もあり注意事項の”持ち込み禁止”と
「身一つで来られても大丈夫ですよ。」
との説明を真に受けて大した準備もないまま、入院してしまった。いざ入院してみると自宅の環境との違いに戸惑う。
当然あると思っていた自動体位交換機能付きエアマットがなかったり、
スマホが持ち込めたことに後になって気が付いたり、
ともっと事前に話を詰めておけばと後悔するも後の祭り。あまりに勝手がわからないので通りかかった看護師を捕まえては体位交換であったり、
注意すべき点を根掘り葉掘り聞いたりした。自宅での介護体制がいかに整えられていたかを痛感させてもらった。
もし意識がなくなり自分で体調など伝えられなくなれば
長くは持たない気がする。夜間の吸引や人工呼吸器のアラーム音が気になるので個室にしたけれどなんてことはない。
病棟のあちらこちらでアラーム音が鳴っている。
特に人工呼吸器を扱う入院病棟らしい。
高齢者で人工呼吸器を付けるようならなかなかに危うい状況だと思う。
今回自分は帰れる目途のたった入院だった。
果たして他の入院患者はどうだったのだろう。
これだけ世話になっておきながらどの口が言うかとお叱りを受けそうだが、
やはり自分にとって病院は治療のためというよりも、
生きるか死ぬかの選別の場所にに他ならない。選べる立場ではないことは承知の上で終の居場所とはどのようなものか。
どうあるべきものだろう。
そんなことを考えさせられる入院だった。
*本記事は、吉田憲司さんのブログ(https://keckeisen.amebaownd.com/posts/51140273)からはつけんラボ向けに転載したものです。
【執筆者紹介】吉田 憲司(ヨシダ ケンジ)
大阪在住 頸髄損傷C4・5受傷 四肢麻痺 人工呼吸器常時使用
大阪頸髄損傷者連絡会所属
1977年生まれ
1993年、高校2年にクラブ活動中に受傷
趣味 読書 自作PC ガジェット好き
四肢麻痺、寝たきりでの ライフスタイルを模索。平成5年から重度障害者としてその時々多くの人の手を借り、知恵を拝借し生きています。
医者の言葉を借りるなら「ALSに準ずるレベル。」の重度障害ですから首から下は全く動かず自力で呼吸もできません。
周りにかけた迷惑は数知れず、受けた恩は量り知れません。
今生での恩返しなどは到底無理ですので帳尻合わせは来世としても、今、できることはできうる範囲でもよいのでやっておこう。
そのようなことを考えながら日々を過ごしています。
とはいえ、食事や排せつなどの日常生活、呼吸のような生命維持まで他人様にお願いしての生活です。
そんな状況で何ができるか。障碍者としての生きていくことの意味、意義といったもの、少しでも納得の答えが得られれば…。
なかなかにキツイ生き方ですがそれほど悪くはなかったといえるようになれれば、そう願っています。吉田憲司さんのブログ⇒https://keckeisen.amebaownd.com/
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