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はつけん書店

自分らしく生きることについて(大山利幸)

  • 大山 利幸(おおやま としゆき)

    小さいころから私はずっと人とは違うものの見かた、考えかたができる人をうらやましく思っていました。人の言葉に左右されず、「自分らしく生きる」姿に憧れを感じていました。それはときに孤独で無口なヒーローであったり、不良と呼ばれる人たちだったり。私は何も分からず、彼らを縛られない自由な生きかたの象徴として憧れたことがありました。
    大学は自然科学系の学部を選びました。配属された研究室で森教授の「常識を疑え」という強烈な考えかたに触れました。その痛烈な教えを胸に大学院では生物学、薬学、医学の垣根を越えて研究生活を送りました。そのとき、毎日の研究の中で凡庸な発想しかできない自分に何度も落胆しました。まれに研究者の発想は常識からは逸脱しているように見えるときがあります。しかし、そこには純然たる理論があります。常識と違った視点からものを見る研究者たちの後ろ姿から、人と違うことに価値があると、なおいっそう考えるようになりました。

    ところで「自分らしさ」を意識する時期はいつになるのでしょう?
    たとえば、イヤイヤ期の2歳ごろかもしれませんし、E. H. エリクソンの発達段階の青年期以降と考える人もいるかもしれません。もしくはC・チャップリンの映画「モダンタイムス」で描かれている管理された社会の中に埋没していく人の尊厳を思い出すときかもしれません。いずれにしても、自分らしさは人との関係の中で意識されるもののようです。自分らしく生きられないことは、ときに葛藤を生じ、良くも悪くもさまざまな適応状態をつくっていきます。

    子どもサポート教室に通ってきてくださる多くの保護者からお話を伺うと、「周りと同じように~ができるようになってほしい」という話を聞きます。少し乱暴な言いかたをすると、子どもが自分らしく思ったとおり生きることより、定型者の社会の中で、集団のルールに沿った行動ができることを求める声が聞かれます。

    そんな保護者の主訴に応(こた)えていくことが支援目標のひとつになることもあると思います。その場合、私たちに求められることは、子どもが定型者の社会や文化へ適応できるように助けていくことになるでしょうか。ここでいう適応とは、定型発達者(以下「定型者」と略す)社会で子どもに決まった考え方や行動様式を身に着けさせること。そして、定型者の社会が決めたルールに従うようにすることとなります。定型者の社会で期待される行動を身につけさせるために、療育に教育的側面が求められる部分なのかと感じています。
    たとえば、SST(ソーシャル・スキル・トレーニング)のワークブックなどを使う支援はどうでしょう。社会の中にすでにある生きかたのモデル(選択肢)中から期待される振る舞いや考え方を選べるように一緒に考えます。しかし、正解は選べるようになっても、生活の中に活かしきれないという話を聞くことがあります。学校で道徳を科目として学ばせて、道徳心を身につけさせる。それに近い感覚を覚えます。
    定型者の社会の習慣に当事者が適応することだけを目指すだけなら、理由の判らない答えを覚えるだけの当事者も、判って欲しいと思い支援する支援者もつらくなる場面が増えていてしまいそうです。

    きらりで子どもたちとかかわっていると、予想以上にできることが増えていくことを感じるときがあります。それは彼らを好きなように行動させ、彼らが自由を手にしたと感じたときのように見えました。彼らは年を重ねるごとにさまざまな経験を通して、周りの人との関わりかたが変化していくようです。
    私の経験では、このようなことは(きらりの)教室に限ったことではありません。今までに関わってきた、学校の枠を越えた自主活動を行う高校生集団や大学の学友会(自治会)活動に励む大学生も、さまざまな経験を通して自由な言論や行動を獲得し、成長(発達)していく姿を見てきました。

    J・ルソーは著書「エミール」の中で「子どもにつけさせてもよいただ一つの習慣とは、どんな習慣にもなじまないことだ」と書いています。子どもサポート教室に通ってくる子どもたちと触れ合っていると、上で述べたように好ましいと思える経験、たとえば療育などは、子どもの発達にとても重要なのではないかと思うようになりました。自然科学では「当たり前を疑え」と教えられます。常識に縛られない自由な精神、それにも通じる真理を求めようとする姿を連想しました。このような考え方は個人的にはとても好きです。
    しかし、その言葉に従って、常識やルールに縛られず生きるだけだとしたら、それは無法者あるいは破天荒な人になってしまいそうです。
    もう少し読んでいくと、「自分の天性に従って生きること」とあります。これは、当事者や支援者にとって、できないことをできるようにすることを目指すのではなく、自分が生まれつき持った天性と現実との間の折り合いをつけながら生きていくような生きかたを目指すことなのかと読めます。当事者にとって発達障がいを個性という天性と考えたとき、何でも出来ることを目指すより、出来ることと出来ないことを明確にし、生きかたの取捨選択をすることで生き抜こうとするほうが賢明なのではないかと言っているようにも思えます。

    生きかたやスタイルの取捨選択を行うことで、ある程度自分らしく生きる力を養える可能性を感じたのは、ボクシングの世界王者F. メイウエザーやアップルの創始者S.ジョブズの方法論を知ったときです。まったく異なる分野の二人ですが、似ているシンプルな方法論を用いていると思います。それはたとえばパレートの法則のような、全体の割合では少なくても強みになる得意な分野に注力し、多くの不得意な分野を縮小していくやりかたです。F. メイウェザーは接近戦を捨て、S. ジョブズは製品を絞りました。普通はどんな状況にも対応できるように多くのスタイルを身につけたり、商品の品揃えを拡大するところです。しかし、常識と逆のパターンで成功を収めた例だといえます。

    ところで、生活の中で私はなかなか断捨離ができません。自分にとって努力して得たことを取捨選択して捨てるのは、得ることと同じくらいの労力と努力が必要だと感じています。自分だけでは自分らしい生活の割り切りができないのですが、ここに自分以外の視点が入ると案外すんなりいくことがあります。決断するのは自分ですが、他者からの助言(支援)は重要だと思う瞬間です。自分らしさを見つけるときも、そこに支援者の存在は必要ではないかと考えます。

    もうひとつ大切なのは、取捨選択した生きかたは、どうしても周囲の理解と協力が必要不可欠です。とくに生活する集団のなかで、発達障がいについての理解が無くてはいけないでしょう。このような取り組みはインクルーシヴ教育発達障がい者支援法などの理解に期待したいと思います。
    このように考えると、当事者が「自分らしく生きる」には支援者と社会資源や発達障がい者支援法などの制度の活用、それにもまして多様な生きかたを受け入れられる寛容な社会が必要ではないかと思うようになりました。

  • 【執筆者紹介】大山利幸(おおやま としゆき)
    新潟県で児童指導員として子どもに関わっています。以前は20年ほど教員や相談室、自主活動などを通じて高校生や大学生と関わっていました。時々、ボクシングを教えたり、色々な作家さんとインスタレーション等を制作することが息抜きです。迷ってばかりの療育について、日々勉強を心掛けて取り組んでいます。

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  • 写真:たけやけいこ
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