【1つの支援-3つの視点】④ 発達障がい者の姿
~藪の中~(大内雅登)
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芥川龍之介の短編小説に『藪の中』というものがあります。とても有名で読んだことがある方も多いことと思います。
平安時代のある藪の中で2人の夫婦が盗賊に襲われ、夫である武士が殺されてしまいます。襲った盗賊は自分が決闘の末に殺したと自白します。襲われた側である妻は、自分が小刀を使って殺したと自白します。後を追うつもりだったけれども死にきれなかったそうです。最後は、殺された夫の自白です。急にオカルトっぽくなりますが、巫女の口を借りた夫の死霊が「妻が落とした小刀で自刃した」と自白をします。三人が三人とも自分が犯人だと言っており、真相が分からないところを味わう物語です。
さて、この文章リレーも藪の中に入ってきたように感じます。
第1回目で、田窪さんと北村さんの文章が発表されました。田窪さんからは、支援の交代がなされなかったことが語られました。気づいてくれるよね、という多数派の思いもその文章からうかがうことができました。しかし、とうとう支援は交代されないままだったという出来事が伝えられました。
一方北村さんからは、当事者としての見通しのつかなさが語られた上で、そもそも「聞いていない」ことが明らかにされました。この「聞いていない」とは聞こうとしていないとか、ふざけているという意味ではないそうです。聞いている最中に別のことが心に浮かんで聞ける状態にないとか、聞いた言葉の意味を理解しようとしているうちに話が進んでしまうとかいう意味だということが語られました。
話を聞いていたんだから分かると思われても、私は聞いていないんです。そういう解説があったわけです。第2回目は私、大内の文章です。
交代を求めたいきさつや、支援中の応答なども示させていただき、「聞いていない」ではつじつまが合わないことに触れさせていただきました。北村さんは「時間ですよね、分かっています」と大内に返してるわけですから、1回目の北村さんの主張は正しいように思えないのです。むしろ、時間だと分かっていてもやめなかった理由を語ってほしいと示させていただきました。さて、第3回目の田窪さんの意見を読んで、私はひっくり返ります。聞こえていないなんて、私(田窪さん)の北村さん理解はできていなかったんだ。そう語られているのです。え~!あれを受け入れるんですかって驚いてしまいました。
私は常々、何かしらの当事者の分かりやすい意図説明は事実ではないという認識を持っています。当事者の言動の理由なんて、基本的には周辺者からすれば意味の分からないものであって然るべきだと考えています。
ネット上の質問で、こんなことが書かれていました。「剣道をしているときって指輪を外しますよね?つきあっている男性から外さないでほしいと言われるんです。」
私も剣道をしていますが、稽古のときには外します。あまりにもめんどくさくなって数年前からずっと外しっぱなしですが。ともかく、あるときまでは稽古のたびに外していました。
さて、この質問者が選んだベストアンサーは「私も外します。握りが変わりますから。道場の先生に外せと言われたというのはどうでしょうか。」というものでした。
『握りが変わる』という表現にどれほどの方が共感してくれるでしょうか。竹刀を握ったとき、一般には右手が上、左手が下にきます。左手の小指が竹刀の端っこにあるわけです。指導者によればさらに竹刀をずらし、小指の半分を竹刀に掛けるように教えることもあります。このほうが打突の反動が小指に強くかからずに、手のひらに伝わり、より冴えのある打突になるからです。要は、小指や薬指の微妙な使いかたで剣道の打突は変わってくるのだと思ってください。
さて、こう説明をしたものの、剣道をされていない人や、していても打突の冴えってなんだろう?という人にはピンとこない説明だということは理解しています。質問者も、そしてベストアンサーを答えた回答者もそこは分かっているのだと思います。そこで、「先生に言われた」という答えを用意するわけです。
一定以上の剣道経験者ではないとしっくりこない当事者の理由を語らずに、相手にとって理解しやすい真実ではない答えを出すわけです。分かってもらうことは最初から諦めて、相手との関係調整に入っているのです。ただ、すべてがうそというわけではないのもミソです。段位や年齢などによって縦割りの構造をもつ剣道界において道場の先生…つまり、筆頭指導者の考えは相当な確率で優先されます。道場の先生に、納得のいかない何かをさせられたり、あるいは禁じられたりした経験があり、その意味では完全なうそではないのでしょう。私ではあの人の言うことに逆らえないんだ、という真実が根底にはあります。北村さんの「聞いていない」という理由は、当事者語りとしてはとても分かりやすいものです。身体的な課題でほかの人には共感されにくいんだ、という構図は、非常に分かりやすく、かつ検証しにくい話です。もちろんうそではなく、きっとそういう苦しみを幾度となく経験されているのでしょうね。しかし、私からすれば分かりやすすぎて「うそだ~」って思ってしまいます。少なくとも、あのときの正解ではないと思います。
むしろ、「最後までやり切ることが私の考える支援における正義であり、時間の約束を守ることと学習をやり切ることなんて同じ天秤になんて乗りません。あ、そうは言うものの特段支援に自信があるわけでもありませんし、時間を守ることが大事だとは知っていますよ。」そんな支離滅裂な話のほうが、整合性がとれていない分、私には真実のように思えます。そういう意味では、私は発達障がいに関する当事者本を読んでも共感できないところがたくさんでてきてしまうひねくれものです。もっとドロドロとした言葉にならない感情でいっぱいだと思うところでも、非常に分かりやすいものに変わっている。そうした出版にあたっての工夫というのは大切ですが、そこに込められた真実の度合いは薄まっているように思うのです。ですから、今回田窪さんが「そうか、あのとき聞いていなかったのか!」とそのまま受け止められることには大きく懸念します。当事者の意見を聞き、それでもそれを否定するというとんでもないことをしているわけですが、北村さんには真意をお汲みいただきたいです。
北村さん。もっと、真に迫った理由にもならない理由はありませんでしたか?
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