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【1つの支援-3つの視点】⑤ こだわりや二次障がいの
もっと奥にあるなにか(北村碩子)

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あらためて大内先生の時系列に沿った説明を読み直させていただくと、私の言動って本当に整合性が取れていないなあという感想しか浮かびません(笑)。剣道のたとえ、とても分かりやすかったです。当事者でないと分からないであろうことを、その事象に精通していないほかの人間に話すとき、いかにもそれらしい理由を真の理由のほかに考えておく。その仕組みについて、私自身、言葉にして言われるまで分かっていなかったなという思いです。そして、逆説的に、「つまり、発達障がい者がはっきり理由を(とくに、関わりの少ない人に対して)言う場合、それはあくまで「多数派に受け入れられやすいかりそめの答えであり、誠にその苦しさに迫ったものではない」というアセスメントにも、目からうろこでした。さて、このご指摘を受け、私はさらに数段掘り下げてみようとなりました。このことで、実際に関わりのある利用者様からも、「マジョリティ受けする表向きの理由」ではなく、「本当の理由」を少しでも聞き出せるようになるといいのですが…。

  • 掘り下げた話に戻りますが、ひとつの統一した事象として考えると矛盾する・あるいは逆にデメリットが生じると分かっているのにできない、というのも、きっと今回のご指摘に通じるものがあるのだと思います。たとえば、私の祖母はとても冷房が嫌いで、それなのに、いつも独り言で「暑い、ふらふらする」ということがあります。「それは熱中症になりかけているから、冷房をつけるよ」と何度家族で注意しても、「だから(?)風が通るように窓を開けて置いて。冷房はつけないで」と言います。


  • そんなに冷房が嫌なら、そして暑くてふらふらになるのが嫌なら、わざわざそのことを家族の前で言わなければいいと思いますし、そんな風になるまでに最低限の冷房をつければいいと思うのです。けれど、その矛盾した状況を延々と作り出してなお、その言動を繰り返したい信念、あるいは無意識化における何かがあるのだと思います。

    では、私の中における「無意識化の何か」について申し上げますと、以前、ほかの発達障がい当事者の方もおっしゃっていましたが、小さいころから「頼られる」よりかは「助けられる・叱責される」という経験のほうが多いのです。たとえば、集団行動では先生の口頭による指示を聞いていないので、そもそも割り当てられた班に入るところからすでに間違えており、別の子にあきれ半分で「北村さん、こっちだよ」と引っ張ってこられる。いざ班活動となっても、なぜか皆で協力してやる輪からあぶれ、何もやることがなく手持無沙汰になる。多分、何をやってもワンテンポ遅れたり忘れものをしたりする私に任せておくと、ちゃんとできない気がするのは当然ですから、ほかの子も私に何か役を振るのが嫌だったのでしょう。そのような経験がいくつかあるため、何か自分の能力に頼られることがあると、と「できるだけやらなければ」「私に役割が与えられるチャンスはなかなかない」と思い、ほかのことや事情は放り出してやってしまうのかもしれない」と思いました。類似した例として、子どものころ、親のネグレクトなどでなかなか食事にありつけなかった人の中には、大人になって、自分で自由においしいごはんを手に入れる環境になっても、「ほかの人に取られるかもしれない」という無意識的な葛藤が働き、早食いの癖が抜けない人もいるそうですが、それと同じようなものでしょうか。多分、自閉症スペクトラムにおけるこだわりや二次障がいというのは、「その症状があることでなりやすい喪失的経験およびなりやすい心理状態」つまり、大内先生のおっしゃるところの「簡易化されていない、言葉にならないドロドロした体験」というものの一部ではないかと思います。また、ほかの会話や情報から、今の情報を結びつけるという部分が苦手、つまり今回の場合は「利用者さんには社会科の教科を教えるのが重要」という情報がなかなか結び付けられず、また田窪先生がどれだけ学科の学習準備をしてくださっていたのかにも思いが及ばなかったのだと思います。


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