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【わたしの療育】わたしの療育(大内雅登)

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  • 大内 雅登(おおうち まさと)

    支援中の子どもの笑顔は、ないよりあったほうがいいけれども、なければならないものではないと考えて支援をしています。

    こんな風に言葉にすると訓練主義のように見られる気もしますが、決してそういうわけでもありません。子どもの価値観に沿った支援ができた!と思えたとき、振り返ってみると必ずしも笑顔あふれる支援とは言えないものが多いんです。例として、ある日の支援の様子をお伝えしてみます。

    近くの中学校に通う制服姿の子がテーブルに着きます。保護者様は学習支援を希望していますが、その子は一見するとやる気を持って通所しているような態度をとっていません。眠そうな様子でこちらの指示を待ちます。学校帰りに来ているので学校の教科書類は一式そろっています。

    「じゃあ、新学期も始まったし数学の大事な公式を覚えるよ」

    私の声かけに「いや」と一言だけ。

    「そうなん?これができないと、次からの単元でめちゃくちゃ困るんやけど」
    「いや」

    取り付く島もない応答ですが、ちゃんと筆箱から筆記用具を取り出して、座る姿勢も正しているんです。口だけ別の脳みそにくっついているんじゃないか、って聞きたくなりますがそこは我慢して数学の解説を始めます。たびたび「いや」と声は上がるものの、時間ぎりぎりまで勉強は続きます。

    結局その子は勉強したいんでしょ、と思われることでしょう。はい、そのとおりなんです。そのとおりですが、別の支援員が学習支援に入ると、20分継続するのが難しいのも事実なんです。1年前別の校舎で学習をしている姿を見ましたが、横並びの支援員に背を向けて一言も話すことなく時が過ぎるのを待っているような生徒でした。私たちの校舎に移ってきてからは、そこまでの態度はありませんが、時間ぎりぎりまでの学習支援は拒絶されるのが常なんです。

    保護者様やほかの支援員が取り組ませられないことに、私が取り組ませることができるのには、当然のことながら秘密があります。ひとつは、支援に意味があると思ってもらうこと。そして、もうひとつはその子の価値観に沿うこと。このふたつだと考えています。もちろん、経験則です。ただ支援を振り返って「今日は上手くいかなかったなぁ」と反省させられるときは、例外なくこのふたつが達成できていないときなのです。

    ひとつめの意味の有無については、紙幅の関係もありますから今回は深く触れません。できないことをさせるのは療育ではありませんが、できるようになることをできるようにするのは療育です。この根本は外してはならないと思っています。だって時間いっぱい勉強やら練習やらしても達成感がなければ意味がないって思っちゃいますから。

    さて、ふたつめの価値観です。先の例で言えば、その子は学習に意味があると考えています。その子の支援プログラムは学習のみです。わざわざ学校帰りに保護者様がその子を拾って事業所に来てくれているんです。親という生き物は鬼ではありませんから、子どもが「絶対にいや」ということをやらせることはありません。嫌がらずに通ってきている事実から、その子が学習に何らかの価値を置いていることが窺えます。そして「いや」という発言からは、同時に学習活動に対して肯定的ではないことも明らかです。つまり、私は学習は大事という価値観と、それでも気が乗らないという気持ちとを受け止め、気持ちが整うまで今日の学習の必要性を訴えようとしていただけなのです。その子が筆記用具を出さなければまた別の話をするだけです。もちろん、そんな理屈はいやだと言う子には気持ちが整うまで中途半端に声をかけることなく待ち続けます。こういう積み重ねが私の支援の軸になっています。聞けば何ということもないでしょう。価値観に沿うと言うのは、支援の基本中の基本と考えますし、同時に究極の目標だとも考えます。できできなくてはいけないけれども、いつまでたってもできたと思うことが難しいものです。

    イギリスの精神医学者にレイン(Ronald David Laing)という方がいました。彼の著書の翻訳『自己と他者』(志岐春彦・笠原嘉 訳)には、学校から出てくる幼い息子を母親が手を広げて出迎える場面に、4パターンあるとして、次のように挙げられています。

    1.彼は母親に駆け寄り、彼女にしっかり抱きつく。彼女は彼を抱き返していう。〈お前はお母ちゃんが好き?〉。そして彼は彼女をもう一度抱きしめる。
    2.彼は学校を駆け出す。お母さんは彼を抱きしめようと腕をひらくが、彼は少し離れて立っている。彼女はいう〈お前はお母さんが好きでないの?〉。彼はいう〈うん〉。〈そう、いいわ、おうちへ帰りましょう〉。
    3.彼は学校を駆け出す。母親は彼を抱きしめようと腕をひらく。が、彼は近寄らない。彼女はいう〈お前はお母さんが好きではないの?〉。彼はいう〈うん〉。彼女は彼に平手打ちを一発くわせていう〈生意気いうんじゃないよ〉。
    4.彼は学校を駆け出す。母親は彼を抱きしめようと腕をひらく。が、彼は少し離れて近寄らない。彼女はいう〈お前はお母さんが好きでないの?〉。彼はいう〈うん〉。彼女はいう〈だけどお母さんはお前がお母さんを好きなんだってこと、わかっているわ〉。そして、彼をしっかり抱きしめる。

    わりと正確に翻訳されているため、彼を男の子、彼女を母親といちいち頭の中で置き換えないといけないので読むのにご苦労された方もいらっしゃるかもしれません。

    さて、価値観に沿うことが難しく究極の目標だと考える理由がこれらの例から透けて見えてきます。1番が一番いい関係なのは議論を待ちません。互いの中に愛情が芽生えているのが見て取れます。さて、対立関係に見える2~4のうち、最も危険な関係はどれでしょうか。私は4だと思うのです。

    4には意思表示した子どもの気持ちを、そうではない気持ちこそが本当のものだとして否定しています。子どもの気持ちは存在していないものとして処理され、母親の解釈どおりの中でのみ子どもはあり続けることが許されるのです。2は母親と子どもは別の存在として受け入れられていますし、3は自分の発言が他者をいらだたせるものだという効力感を得るには十分な出来事です。いや、2も3も今後の展開は気になりますけどもね。

    ところが、4だけは母親と同一、しかも母親の中でしか存在できない子どもの姿があります。効力感も、肯定感も育まれないと想像できます。そこで、ひるがえって考えてみますと、私の支援も「いや」というその子の発言を受け止めてなんかいないのです。たまたま「こうだろうなぁ」という予測が当たって、学習に取り組む構図に持ち込めただけなんです。間違っても「本当は勉強したいの知ってるよ」なんて言おうものなら、私は4の母親と同じです。今までの関係性などから高確率でこうだ、という経験からくる勘が働いているだけなんです。その子に関わった今までの支援員より予測が当たったから、こんな自慢話ができるだけで、もっと勘のいい人と比べられると吹き飛ぶ程度の支援員なのです。

    さて、賭けにも似た予測が当たって価値観に沿うことができたとします。そのとき、子どもはどんな顔をしていると思いますか。冒頭で述べたとおり、笑顔っていうわけでもないんです。

    私たちは普段の生活を普段どおり送っています。朝起きて顔を洗うとき、笑顔ではないんです。価値観に沿った行動をとっているだけですから。この行為に笑顔が出るときは、禁止されていた洗顔を許可されたり、禁止するぞと言われたあとに「嘘だよ」と明かされたりしたときでしょう。つまり、価値観にそった何かをしているときに幸福感を感じることは難しく、それが取り上げられたり脅かされたりしたときに、くっきりと幸福と感じるものなのです。学習をする子、字を書く子、暗記をする子、みんなその行為に没頭し、笑顔はありません。就学前の子も、絵本を読んでもらったり、ブロックをしていたりする間はその行為に入り込んでいます。ふと、学習効果やブロックの組み立てに達成感を覚えたり、絵本の世界に面白味を見つけたりすれば笑顔は出ますけれども。基本的に、支援ではなく、その子の活動が笑顔をもたらしているわけで、そういう意味で笑顔を求める必要はないと考えています。

    今回は私のいびつな支援観を述べさせていただきました。いつの日か単なる予測などではなく、明確に子どもたちの価値観に沿えるような、それでいてその子自身の力で笑えるような支援を常にできるよう努力してまいります。もしこれをお読みの方と事業所でお会いする幸運に恵まれましたら、どうぞご指導のほどお願いいたします。

  • 【執筆者紹介】大内 雅登(おおうち まさと)
    香川県高松市の児童発達支援事業所で働く支援員です。自閉スペクトラム症の当事者でもあります。
    時には支援員のスタンスで、時には当事者のスタンスで皆様にメッセージをお届けしてまいります。趣味は剣道。大きな声が目印です。


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