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【アンフェアを生きる】⑦ それは「迷惑」?

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北村 碩子(きたむら ひろこ)

視覚障がい者がホームから転落して亡くなるという痛ましい事故が、また新聞に載っていた。これで何度目だろうか。

しかし、新聞には、「目が見えないせいで転落したか」と書かれていた。私は、その言葉に猛烈な違和感を覚えた。

  • 数年前、大学の図書館で「怒りの川田さん 」という本を手に取ったことがある。これは、生まれてからずっと全盲者として生きてきた川田隆一さんが、晴眼者中心の世の中に向けて、赤裸々に日ごろ感じている怒りを表明したノンフィクション本だ。

    「駅から転落したことのある視覚障がい者の割合は、なんと4割にものぼるのである。それなのに一向に、駅のホームにドアが設置される事業は進まない」のだと。

    衝撃を受けた。じつに、五人にひとりの割合で視覚障がい者はホームから落ちたことがあるというのである。もし自分の子どもが視覚障がい者なら、相当な確率で、我が子は人生のうち一度は線路に落ちる危険があると考えたらどうだろうか。適切なホームドアや誘導設備さえ整っていれば、そんなとてつもない恐怖は回避できるのに。そんなとき、「視覚障がいだからしかたないね、はい終わり」にされたら、たまったものではないと感じないだろうか?

    そもそも、世の中は何もかも健常者中心に作られているからこそ、そしてそれが至極当たり前だと思われているからこそ、このような事故が何回も繰り返し起きても、「しかたないね」で済ませられてしまうのだと感じる。

    前置きは長くなってしまったが、話が聞き取れなくて困っている、ある女の子の話になる 。

    彼女は、集団行動内での話が聞き取れないことにより、どう行動すればいいのか分からないのみならず、それを「わざとやっている、怠けている」と誤解されることにも悩んでいた。そしてその困難を一生懸命先生に訴えても、なかなか応えてくれないことにも。それでも彼女は、「相手も、何も悪気はないことは分かっている、一生懸命私のためにしてくれているのは分かっている」と庇い(かばい)、「そこまで理解してくれと思うのもおこがましいと思う」という遠慮感が全体から出ていた。

    われわれ大人たちが「その年でそこまで周りのことを慮って(おもんばかって)、先生の事情も思い遣(や)って言えるなんてすごい」と褒め、「どこからそのような素晴らしい精神を学んだのか」と聞くと、「特別誰かに教わったわけではなく、自分で学んだ」のだと言った。

    他者とのあつれきを生まないよう細やかな配慮を身につけ、思いやりの心を持つことは本当に素晴らしく、彼女の心優しさがとても伝わってきた。しかし、彼女の「遠慮」と、今回の視覚障がい者ホーム転落の件が、私にはどうも無関係には思えないのである。

    先ほども触れたが、今の日本社会は、「どんな障がいにも細やかに配慮」しているとは言い難い。バリアだらけだ。そしてそれをしかたないとする風潮もまだまだ根強い。そもそも健常者だって、いきなり原始人が住んでいたような森のど真ん中に置き去りにされたら、生きていけないだろう。だから、ガスや電気を通し、道路を作り、人間らしい便利な暮らしが営めるような「バリアフリー」の恩恵に預かっているのだ。そのような身でありながら、障がいのある人たちに向かって「お前らを迎え入れるために設備を工夫するなんて嫌」「わがまま、ぜい沢」などと言い放つことは、本来許されないことなのである。

    しかし、我慢と遠慮が美徳とされるお国柄なのか、何かと日本のメディアや創作で登場する障がい者は、健常者より低いハードルの幸せで満足し、どんなに不便な日常でも、ひとりでも理解してくれる人がいればそれだけでものすごくありがたいと思うような、異様な寛容性を持たされている。

    そしてそのようなテンプレへの肯定的視線が、現実の障がいを持つ人たちにも向けられている。健常者と同等の権利を求めるだけで、「障がい者様だ、特別扱いだ」と言われ、障がい特性への理解を求めれば「興味ない、無理強いするな」と突っぱねられる。

    私にはこれは非常に危険に思える。だってそれが巡り巡って、最初に述べたような、死亡事故、すなわち人の命が奪われることにつながるからである。「障がい者が設備の不利で亡くなったのは、健常者の世界に出てきた障がい者のある意味自業自得。目が見えないのに、家に引きこもらずに外に出てきて駅に来るなら、転落するのも覚悟の上だろう」そして「しかたない」「われわれ健常者は何も変わる必要がない」となる。「視覚障がい者がこんなに命を落としやすい世の中はおかしい。われわれ健常者中心に作られた世界を変えなければいけない」には、ならないのである。そして、事故は増え続ける。目の前で、聞こえの問題に悩む女の子も、「健常者が大多数を占める学校で、特性を持つ私に配慮や理解が行き届かないのは、ある意味しかたない」と我慢を自分に強いてしまう。「世の中の六人にひとりは何らかのハンデを負っているのだし、そもそも健常者の生徒しか来ない前提の教育施設はおかしい」という発想には、ならない。私自身の苦い経験も重なっていて、いささか曲解している部分もあるだろうが、私もこの「多数派中心の世界ではなく少数派の自分が我慢しなければ」という「日本の常識」に囚われ、苦しい時間を過ごしたものである。

    昨年、日本では重度障がいを持つ議員がふたりも誕生した。とても喜ばしいことである。ところが、ネット上では、醜い批判と差別のコメントが相次いだ。

    「障がいを見世物にして目立とうとしている」という身も蓋もない意見から始まり、「日本の役に立とうとして出てきている人物が、国会議事堂にバリアフリーを求めたり介助者を連れてきたり、話すのに時間がかかるので答弁の延長を求めたりと、逆に人に迷惑をかけたら本末転倒だろう。なぜ健常者の代理人を立てないのか」という暴論まであった。

    本末転倒なのはどちらなのだ。では重度障がいを持つ人は、どこでも安心して介助者の助けを借りる権利も、安全で不便ではない外出をする権利もないということか。重度障がいを持つ議員が、そういった合理的配慮を日本のトップの場で求めることで、日本中でさまざまな種類の障がいを持つ人たちが、「自分たちも住みやすい社会を主張してよいのだ」と思うことは、迷惑どころか役に立っているではないか。これが理解できずにまだ「迷惑」などと言うなら、この批判をした人物が言う「役に立つべき対象」は、障がい者のバリアフリーに何の関心もない健常者だけということで間違いないだろう。悲しいことに、このような批判をまとめたサイトは、この意見を差別的なコメントとせず、「賛否両論」とタイトルをつけている。障がい者が健常者と同じ場所や施設で、制約なく活躍するために名乗り出た人物を批判するコメントが「いろんな意見があるよね」で済ませられてしまう社会では、いつまで経っても視覚障がい者の事故も「目が見えないからしかたない」で済まされ、聴覚過敏で話が理解しづらい生徒の訴えも「健常者のための学校だと分かっていて入学してきたんだから、我慢しなよね」といなされ続けてしまうことだろう。

    そうならないために、私ははつけんラボや教室で、これからも積極的に「それはおかしい」と言っていきたい。そして、特性への配慮を「わがままではないか」と思う人がいたなら、「遠慮しなくていいんだよ。だってそういう空気を作っていくことが、人の命を奪わないことにつながるんだから」と発信し続けていきたい。

    (個人ベーシック閲覧期間:2020年3月8日まで)

  • 【執筆者紹介】北村 碩子(きたむら ひろこ)
    はじめまして。生まれも育ちもずっと香川です。去年の夏から、障害児通所施設の指導員として活躍させていただいております。性格はよく天然と言われます。発達障がいの当事者として、日々関わらせていただいている利用者様からたくさんのことを学んでいます。
    趣味…読書、約束のネバーランド、物書き、犬など。ピアノ弾けますので、お子様のリクエストたまわれます。

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