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【アメリカの発達障がい事情】自閉症サマーキャンプ篇③
「敬意」って何ですか?

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下川 政洋(しもかわ まさひろ)

「敬意」って何でしょうか?こんなことを言うと、大上段に構えたようで何か偉そうですが、繰り返すようですが私は心理臨床の初学者です。なので、教科書的なものを読むことが多いです。そこには必ずと言ってよいほど、「敬意」を持ってクライエントと接しなさいと書いてあります。それでいて「敬意」とは何かとなると、あまりピンと来ることが書いてありません。ほとんどの場合、「敬意」を持たないことによって起こる問題の説明がありますが、「敬意」そのものの説明は、分かったような、分からないような感じです。「敬意って何?」と聞くと「敬意が分らない奴はダメだ」と返されてしまう気がしています。これでは、私のようなものは困ってしまうんです。

  • それでいて、臨床の初学者同士(ベテランの人もそうですが)がお互いを批難するような場面に出会うと、「あなたはクライエントに対して本当の敬意を持っていない」みたいなことが言外に含まれてきます。そして、ほとんどの場合、いや〜な感じの消耗戦が永遠に続きます。私は、こういうのを避けて通りたいと思っています。

    ですので、避けて通るために、以前、「敬意」の定義についての文献にいくつかあたってみました。心理臨床の分野です。でも、なかなか私にピンと来るものがなくて、それでも唯一見つけたのがこの論文です。

    Lysaught, M.T. (2010). Respect: Or, How Respect for Persons Became Respect for Autonomy. Journal of Medicine and Philosophy. 29(6), 665-680.

    (オンラインで公開されています)https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/03605310490883028

    「敬意:人への敬意がどのようにして主体性への敬意になったのか」とでも訳せるでしょうか。生命倫理の論文で、人間の細胞や受精卵(胎児)の観点から書かれた論文です。以下は、この論文の趣旨をまとめたものです。

    まず、「敬意」とは「主体性」と関係があるようです。そして、「主体性」とは、義務のようなものから解放されて思うがままに振る舞うことで、「敬意」とは、その思うがままの行為を価値があるものとして認める態度のことらしいです。「敬意」とは態度のことらしいです。そして、行為としては2つのことをするそうです。守ることと、自由を与えることです。

    それから、この論文によると、この役割を担っているのが子宮だそうです。胎児は子宮に守られると、驚異的な成長を行うそうです。そして、その成長は、あたかも意志を持って身体的な発達が行われているように思えてしまうそうです。ですので、その成長を記述した学術論文を見ると、かならずと言っていいほど、威厳とか尊厳とかの表現が使ってあり、まるで意志を持っているかのような不思議さを伝えているそうです。加えて、胎児の成長が成人の成長と比べて劣っている理由が見つからず、むしろ、胎児の成長は神聖で驚異的であり、恐れ多く何か超越したものであるとも言っています。

    なるほど「威厳・尊厳・神聖・驚異・恐れ多い・何か超越したもの」というキーワードが必要とされるならば、教科書には書き難そうです。言語化できないところに価値がありそうですから、経験したものにしか分からないとするのは、しかたないのかもしれません。
    加えて面白いことが書いてあります。敬意は、それが「ある」ときには気づかないが、「ない」ときに気づく、という特徴を持つそうです。この見え難さを補うために、敬意は治療関係において、意識して治療契約に含まれるべきだとしています。具体的には、ある言いかたをしない(障害と表記せず、障がいと表記するなど)、嘘をつかず、境界をわきまえるなどの例をあげています。

    つまり、この論文のいうところでは、主体的な成長をするためには安全な空間が必要で、敬意とはその安全を確保する壁のようなものと考えられます。極端なことを言うと、敬意とは防御壁のようなものなのかもしれません。

    ここで、自閉症キャンプに話を戻したいと思います。この定義に、キャンパーとインストラクターを当てはめるのはどうなるでしょうか。「キャンパーが主体的な成長をするには安全な空間が必要で、インストラクターはその空間を確保する壁である」となるのかもしれません。さらに、別な言いかたをすれば、インストラクターはキャンパーが育つための子宮である、と言ったら言い過ぎでしょうか。もし、そうであれば、子宮が持つ機能が求められます。まず、安心してぶつかれる柔らかい壁であること。それから、永遠に保護し続けるのではなく、成長をして主体性が力強くなれば、用済みとなって捨てられることです。

    こう考えてくると、自閉症キャンプで用いられるTEACCHの構造の本質が伺えてきます。構造は、ASDの人の自主性を制限するためのものではなく、安全を確保して主体性を育てるための環境と考えることが出来ます。必要に応じて最小限に準備され、必要なくなれば、やがて取り払われるものです。ですので、インストラクターは人間でありながら、TEACCHの言う構造でもあるし、生命倫理から言えば、柔らかい壁であることが期待されるような気がします。

    しかし、現場に入って、実際に壁になるのはなかなか楽ではありません。言うは易しです。ひとつの例を挙げます。ある日、体育館の中でお遊戯のようなことをしていると、突然雷雨が来ました。


  • (驚きですが、アメリカでもゲリラ豪雨が増えているそうです。ご老人とお話をしたところ、昔はこんなことはなかったと、おっしゃっていました。地球温暖化ですね)

    そうすると、子どもたちの何人かは、突然インストラクターの目を盗んで走り出します。そして、雨に打たれてその身体感覚が楽しいらしいのです。で、われわれインストラクターも追いかけて行って、何とか体育館に戻そうとします。ところが、彼等はすばしっこいし、どこまでも駆けっていきます。その上、われわれインストラクターは、キャンパーに対する身体接触を制限されていますから、つかむわけにもいきません。どうするかというと、キャンパーの進行方向に立ち塞がって、身体の壁になります。そうやって、体育館へ誘導するしかないんです。もう、濡れるし、転ぶし、泥べったんになります。

    これは、ほんの一例です。毎日のようにちょっとこちらが気をゆるすと、キャンパーはこちらが意図していない行動をとります。余裕があるときは、まだいいですが、とくにこちらが疲れているときにこういうのをやられると、カチンと来ます。断続的にされるのは、なかなかつらいものです。やがて、自分がキャンパーに挑戦されたと感じるようになります。恐らく、フラストレーションを溜めるダムのようなものがあって、その水位が上昇してくるのでしょう。インストラクターは、一方的にキャンパーに合わせることが求められますが、こう毎日だと(われわれインストラクターは、たかが11週間ですが、親御さんを考えると、想像を絶する思いです)、自分の限界を意識しはじめます。

    こういうときには、精神的支柱が必要になります。壁になるのは苦しいです。インストラクターがキャンパーに敬意を持ち続けることは当然のことかもしれませんが、苦しいことでもあります。ですから、何かしらの考えを持って楽になりたくなります。多くのインストラクターの場合、自分がこの業務を選んだ動機にその答えを求めるようです。これは、断言をして申し上げますが、辛いときは、皆この動機のようなもの、物語のようなもの、信念のようなものを考えています。そうでなければ、やってられません。では、この若いインストラクターたちは、どんな動機でこのキャンプで働くことを選んだのでしょうか?若いインストラクターたちの動機に、関心を持つようになりました。

    しかしながら、ここで稿が尽きてしまいました。彼らの動機については、次号にて書かせていただきます。

  • 【執筆者紹介】下川 政洋(しもかわ まさひろ)

    (発達支援研究所 客員研究員)

    51才です。国際医療福祉大学で主に家族療法を学びました(研修員)。偶然ですが、今年は個人的な事情で、ノースカロライナ州のチャペルヒル市に滞在することが多いです。そして、ここで、自閉症スペクトラムの援助方法であるティーチ・プログラムに出会いました。こちらで感じるのは、発達障がいの人を援助する現場の「空気」が違うということです。「これってなんなんだろう?」と不思議に感じています。言語化がとても難しいです。この辺りの感覚を、攫んで帰りたいと思っています。家族療法もティーチ・プログラムも初学者でございますが、よろしくお願いします。

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