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【わたしの療育】私にとっての療育とは(宮下大輝)

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宮下 大輝(みやした だいき)

「私の療育」というテーマをいただいたとき、私の中で「楽しみだ」という感情が浮かんできた。以前から、私自身の中にある療育という概念について、考えてみたいと思っていたのだ。以下、漠然とし、まとまりはつかない部分もあるが、「私にとっての療育」について考えていることを述べていきたいと思う。

  • 少し前にこんなことがあった。子どもたちへの支援について話している中で、「療育と、教育や保育、養育との違いは?」と、そんな質問をされた。学生時代より、教育学・心理学と学んでくる中で目にすることはあったが、自分の中で漠然と捉えており、それが「何なのか」を考えることはなかった。そんな時、これを聞かれた。私の中に、その質問に対する答えは無かった。無かったということをはっきりと覚えている。概念として、理論として、実践される技法として、はっきりと表現する必要性も感じていなかったのだと思う。おそらく、私の中で療育というもの自体、「個別性」があまりにも強いものだというイメージであったからだ。つまりは、ある子どもとある支援者にとっては、一般に言われる「教育」がその子にとっての「療育」として成立するかもしれないし、そのような形ではその子にとって「教育」としては成立しても、「療育」としては成立しないかもしれない。したがって一概にいうことはできなくて当然だろうと感ずる部分が大きかったのだろう。私は苦し紛れに、療育について「一概にこのようなものだ、とは少なくとも今は言えない。」というように返した。すると対する質問者からは、「療育というものは、治療教育を略した言葉である。すなわち、治療的な枠組みで教育を行うものだ。教育は…云々」という答えが淡々と返ってきたのだった。

     

    私はこの時、あぁ、私とは違うなと感じた。しかし、同時にそれを否定する必要はないし、分かりあうのは難しいのかもしれないということを感じた。この質問者の中では、「療育」という概念が「そういうもの」であり、それをベースに支援を考え、実行されている。そしておそらく、その概念が自身の中で正当化されるに足りる、すなわち担当している子どもとの間にそれを担保する関係性が包含されていると思える事例を担当してきたのだろう。でも、私はそうは思わない。

    先述した「個別性」は、いわば子どものサイドが持つ要素であるように思っている。しかしそこに加えて、治療者・支援者のサイドが持つ個別性という、これまた重要な要素があるように思う。さらに、周りを取り囲む環境に含まれる「治療者・支援者以外の人間」の個別性が加わろう。子どもと支援者の二者間でさえ、多様なものであり、さらにマクロな視点から、子どもに関わるその他の人々との関係を考えれば、その多様性は言うまでもないだろう。端的に言えば、同じ教材を用いたとしても、同じ声掛けだとしても、「同じ支援」を行おうとすること自体が、無謀なことなのだろうと思っている。

    今日あの子が、この課題に取り組む。前にも同じ教材を用いていて、次にもまた、同じ教材を用いているかもしれない。しかしその時、支援者が異なるかもしれない。支援者が同じでも、支援者の声掛けや、子どものモチベーションが異なるのかもしれない。

     

    次に同じ課題に取り組む時は、今日よりも気温が少し暖かくて心地良いかもしれない。今日よりもお家(うち)でお母さんに抱っこしてもらえた時間が長いかもしれない。学校の席替えで好きな子と隣になっているかもしれない。お友だちに一緒に遊ぼうと声掛けできたかもしれない。学校からの帰り道に石が上手に蹴り飛ばせて、そのことに自信を持っているかもしれない。着ているTシャツの模様を、自分で選べたかもしれない。テストで適当に選んだ選択肢がたまたま当たっていたかもしれない。粘土遊びで自分が良いと思える造形にできたかもしれない。部活の練習で思うようなプレーができたかもしれない。

    私はそれぞれの子どもを目の前にして、コミュニケーションを取りながら、パズルを提示しながら、SST(ソーシャルスキルトレーニング)のワークシートに取り組みながら、カードゲームに興じながら、今日の出来事を話してもらいながら、そんな「かもしれない」についてよく考えている気がする。そしてその「かもしれない」を、本人や周りの人間に確かめるように聞いてみると、案外悪くない結果につながっている気がしている。どんな形であれその子の真の姿に迫っていくことにつながり、延いては成長に寄与できるものなのではないか?そんな風に考えている。

     

    一方で、私自身はそのような漠然とした概念として理解していると感じている「療育」だが、子どもたちと接する上で、彼らへの療育に取り組んでいく上で、私自身が大切にしている、いわば準備ともいえる事項がある。それは、殊(こと)に子どもたちの興味・関心、知識・物事への理解へつながるものとして、彼らの文化に親しんでいく体力、すなわち「文化的体力」である。

    子どもの動き、口にした言葉などのいわば情報が何なのかを理解するために、子どもたちの文化に親しんでいることが重要な要素であることは言うまでもないだろう。「ゲームが好き過ぎて対応に困る男の子に対して、ゲームを取り上げるのではなく、そのゲームに興味を持ってあげることが大切」というような言葉はよく目にする気がする。しかし私は、「それが必要」と言われてから用意するのでは遅いように感じるのだ。もちろんすべてをあらかじめ理解した上で子どもに相対することは不可能だが、「なるべく対応できるようにしておく」ことは、この文化に親しむ体力に限らず、子どもたちを理解したいという思いを自分の中で保障するものとなり、自分たちの自信にもつながっていくものになり得るのではないだろうか。そう思っている。アンパンマン、仮面ライダー、プリキュア、妖怪ウォッチに始まり、野球・サッカーなどのスポーツ、テレビのCMやYouTubeなどの文化。そういったものにアンテナを張ることが、自分の中での「療育への自信」につながるような気がしているのだ。自分が好きなこと・物を好きな人のことを、子どもは好きになってくれる。自分の好きなものに興味がある人間と、そうでない人間。どちらとコミュニケーションをとりたいかと聞かれれば、答えを出すのは容易なのでないだろうか。したがって、より多くの、幅広い子どもたちと接する準備として、幅広い文化に親しんでおけるだけの「体力」は、大切になっていくような気がしている。

     

    冒頭でも述べたが、私は「療育」という言葉が、少なくとも今はとてもあいまいな概念であるように感じている。「療育という言葉を突き詰めた療育家」は自分の療育観に絶対的な自信を持っており、そうは言わないかもしれないし、「療育という言葉を突き詰めずとも自分の子どものために全力なお母さん」は、自分のやり方に自信を持てず、「分からない」と言うかもしれない。しかし私は両者いずれも「療育」として成立し得る可能性をはらんでいるのではないかと思っている。私は、療育というものが、まだまだ確立されておらず、そしてこれから確立されていくものである、そう思っている。

  • 【執筆者紹介】宮下 大輝(みやした だいき)
    群馬県の子どもの現場で働く臨床心理士です。子どもたちの育つ「環境」に興味・関心があります。最近の趣味は映画鑑賞です。水が好きで、海や湖にもよく行っています。


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