【親子の関わりのこれまでとこれから】② 検査と幼稚園
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普段は仕事上で発達障がいに関わりがありますが、自分自身や家族に関する発達障がいについてはこれまで発信する場がありませんでした。あくまでも私事で主観的といった面もありますが、この連載では、自分自身が経験した視点からこれまでのことについて発信できればと考えています。
齊藤 博之(さいとう ひろゆき)
前回の続きとしての連載となります。私の中で経験していることを文字に起こすことがいかに難しいかを前回の連載で痛感しております。私が発信する事で同じような悩みを抱えている方が少しでも参考になればと考えております。
娘が3歳になる手前で「3歳検診」がありました。妻とはいろいろな覚悟はしておりましたが、ちょうど、担当した医者がはっきりとものを言うタイプでした。「PDDと知的障がいがある」とのこと。何々かもしれないとオブラートに包んだ物言いだとそのときは助かったのですが、あらためて分かっていた部分をはっきりと言われると苦しい思いでした。当時の私は「成長がほかの子より少し遅れているだけ」としか考えていなかったので、大きなショックではなかったのですが、妻はその場に泣き崩れ、立つこともままならないほどでした。今考えるとその医者も今のうちにはっきりと言っておいて親の耐性を付ける意味でも言っていたのだと考えますが、人それぞれに受け止めかたは違うのでこういうことは少しずつ理解していくほうがいいと考えます。その日から私たち親は焦りを感じながらも娘のために何とかしたい思いが強くなりました。どうして良いのかがわからず、医師から言われるままに発達検査を受ける手はずを取りました。ただし、最短で3ヶ月待ちとの事で、このような時は中々、待てないものです。実費でも受診できるありとあらゆる病院などを調べ1か月後に検査ができるところを見つけました。
すぐに予約をして行きましたが、当然ながら娘は何も分からないところに行くことを拒みます。
また、検査はWISC検査を行いましたが、当時の娘は3歳で1歳にも満たないレベルだったと記憶しており、当然何も理解ができていません。このときは見ていてとても辛く、そして罪悪感に捉われる思いでした。なぜなら娘は嫌々泣きながら意味の分からないことを強要され、最後には暴れるからと部分麻酔を行い、脳波検査まで行ったからです。麻酔の後遺症で数時間は座ることができないほど、眠気が襲っている姿を見ながら私自身は涙が出てきました。そして妻とも話し、「これから娘が望まないことをたくさんしていく。私たちも気を強く持ち、いい方向に進もう」と。ただ妻はなかなか理解をしなかったです。この時期はふたりとも、精神状態は尋常ではなかったので、夫婦喧嘩(ふうふげんか)も増えてきていました。ただし、お互い、子を考える気持ちは一致していたので、何とか乗り切れていたように思えます。
月日は経ちながら娘が幼稚園に入園する時期がやってきました。普通の幼稚園に通園して欲しい親の願いが優先した形のため、当然ながら娘は行っても何もできません。同じ年ごろのお友だちを理解することもなく、自分が動きたいときに動き、絵本を見たいときに見るといった感じで「集団行動」が全くできません。加配の先生がほぼマンツーマンで付いてはいましたが、ほかのお友だちからちょっかいを出されるなど、ある意味「特異な目」で見られていたという事実を、じつは後で知ることになりました。当然、親の欲目から始まった通園です。「何とか通わせたい」その思いしかなく、娘の現実をしっかり見なかったことに後になり後悔とバカさ加減にやり切れない思いを痛感しました。ちなみに知るきっかけは幼稚園の先生にどう成長しているかを詳しく聞きたいと申し出たところ、1学期の終わりに発覚した形です。先方も遠慮して黙っていたこともありましたが、どちらが悪いとかでなく、足元を見れてない親の責任と考え、すぐに児童発達支援センターへ申込を行い、2学期からは週1で通えることになりました。途中からなので当然、空きがあるわけでもなく、やむなく2学期も幼稚園に通園させることになりました。そうしている間に3学期から児童発達支援センターに通えるとの連絡があり、幼稚園を2学期いっぱいで辞めることになりました。
ちょうど、最後の通園日に幼稚園全児童対象のお遊戯会があり、娘は意味も分からず参加しておりました。私も見学に行きましたが、あらためて娘が周りと違う動きをしていることを痛感、主役のお子さんが演技をしている目の前に立ち、踊ったりしている姿を見て自然と涙がこぼれました。勿論(もちろん)、主役のお子さんの両親に平謝りをして、理解を得ましたが、これの後日談として園で配布用のビデオ撮影をしていて園児皆さんに配布するという永遠に残るものとなりました。余談ですが娘はこの映像を現在でも気に入って観ており、親だけが複雑な表情をしております。
このころが転機となり、自分の中で変化が出始めました。「どんな状況でも自分の子どもに変わりはなく、かわいい子」という意識も強くなった頃でもあります。
次回は児童発達支援センターの事や外出時の対応について記載させていただきます。
(個人ベーシック閲覧期間:2019年10月10日まで)
【執筆者紹介】齊藤博之(さいとうひろゆき)
埼玉県、愛知県などで12年間老人介護(主に認知症)や障がい者との関わりを経て発達障がいの仕事に就いております。趣味は興味のある物の収集(現在はジーパンや靴)、性格は我慢強いが場合によっては短気な一面もあります。自分の子との関わりや今までの経験を踏まえた内容を連載していきます。
仕事で関わることと、家族の中で関わることでは、受け止め方が全く異なってくる、という内容が印象に残りました。そこで自分の身内で起こると、事の重大さを感じるというのには共感しました。私は現在大学生なのですが、2つ下の弟が広汎性発達障がいです。弟の病名がわかったのは一昨年のことで、その時は驚きましたし、どう接すればよいのか分からず戸惑いました。今も時々弟の行動や考えが理解できず、受け入れられない時があります。
しかし、筆者が「どんな状況でも自分の子どもに変わりはなく、かわいい子」と言っていたように、弟がどんな状況でも私の弟であることに変わりはなく、その意識を持って、どんな弟でもまるっと受け入れられる私になっていきたいと思いました。ありがとうございました。