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はつけん書店

【特集記事を読んで】「自分らしく生きる」
エッセイで思う「くらし」―天井のシミ、仙台四郎、稀勢の里を通じて―

引地 達也(ひきち たつや)

私が持っている「自分」はひとつのはずなのですが、社会に出るといくつかの自分がいることに気づきます。ひとりの市民である自分、支援者の自分、研究者の自分-。それは立場や役割、に置き換えられるかもしれませんが、社会の中の自分、関係する他者が認めている自分でもあります。

  • この多様な自分という存在を認めた上で、「自分らしく生きる」のテーマで反応した自分は支援者としての自分で、「自分らしく」に躓いた(つまづいた)人たちとの関わり合いの数々が思い出されてきました。私が支援者として、支援が必要な人と関わる方針は、その人の思い描く「自分」に近づくことです。この「自分」に近づけたとき、お互いの信頼関係をベースによりよい支援が可能になると考えています。

    たとえば、引きこもりがちな双極性障がいで精神障害者手帳2級の50代の独身男性とは、男性の六畳一間のアパートで語り合いながら一緒に夜を過ごし、彼が一日中起きられず、布団の中から天井のシミを見つめ続ける日々を、その「シミ」を一緒に見ながら、彼に語ってもらうことは私にとっても素敵な体験です。その人の苦しい体験を他者である私が確認することで、初めて布団の中で苦しむ自分を認めてくれたのだという安心感も芽生えます。現にこの男性は自分を初めて認めてくれた「初めての体験」だと語ってくれました。

    その苦しい自分があって、なりたい自分がいることが他者と共有されたとき、初めて「自分らしく」が鮮明に浮かび上がってくるのではないか、と考えています。これが支援の基本だと私自身は考えていますが、このことは、支援する方々がそれぞれの現場でそれぞれの感覚の中で、最適な行為を模索するものなので、普遍化したものではないかもしれません。

    ただ、今回のテーマである「自分らしく生きる」に寄せられたエッセイなどを見ていると、ハードな社会の中でぼやけてしまう自分をどのように「らしく」するにせよ、大変なことなのは確実です。

    櫻庭愛子さんの「『自分らしく生きる』―自分を好きになる―」は、その私の関わりを肯定してくれるようで、とても励みになりました。

    「私にはできないことがあります。ほかにもいっぱいあります。しかし、このような私を好いてくれ、大事にしてくれる人がたくさんいます。できないことはありますが、反対にできること、得意なことも同じくらいあります。私は学校に行けなくなったときに周りの人が支えてくれたことを今もとても感謝しています。周りがありのままの私を認めてくれたことが「自己肯定感」を育ててくれました」。

    自分のできないこと、を周囲が認めることが、感謝と自己肯定感を生む、という方程式は普遍的な法則のように思えます。この「周囲」という括りを大きくすると、「社会」や「国家」になり、まずは大小も兼ねる社会にその寛容性を求めることが一般的に「社会モデル」思考になるのですが、社会は生産性や経済性、領域やヒエラルキーなどさまざまな概念が入り交じり、素直に寛容になってくれないから困りものです。

    エッセイではとくに子どもの支援現場で働いている方々が子どもへの柔らかな愛情と視点があることを感じつつ、「自分らしく」への反応は、どれも一般社会での精神障がい者などマイノリティが疎外されてしまう素因であるような気がしてなりません。

    大山利幸さんの「自分らしく生きることについて」では、J・ルソーの「エミール」を引用し「子どもにつけさせてもよいただひとつの習慣とは、どんな習慣にもなじまないことだ」を示し、自分の支援現場に通ってくる子どもたちとの触れ合いの中で「好ましいと思える経験、たとえば療育などは、子どもの発達にとても重要」だと思うのと同時に同書の「「自分の天性に従って生きること」を「当事者や支援者にとって、できないことをできるようにすることを目指すのではなく、自分が生まれつき持った天性と現実との間の折り合いをつけながら生きていくような生きかたを目指すことなのかと読めます」とし「当事者にとって発達障がいを個性という天性と考えたとき、何でもできることを目指すより、できることと出来ないことを明確にし、生きかたの取捨選択をすることで生き抜こうとするほうが賢明なのではないかと言っているようにも思えます」と書きました。

    「天性に従い」、生きかたの取捨選択をして「自分らしく」が出来れば、それはやはり幸せなことだと思いますが、その理想な社会モデル実現には、媒介者が必要なのでしょう。高本聖吾さんは「自分らしく生きていくとは?」で、ある発達障がい児B君の例を示してくれました。

    「B児にとっては、ほかのデイでの「暴れん坊ぶり」も「自分らしく生きている表現」ともとれます。ではなぜ両極に分かれたかを考えると、周りの大人(支援員)が話をきいて「彼らしさ」を受け入れているかが重要なポイントかもしれません。もしかするとほかのデイでは、「悪さをする児童」という先入観で見られていたことが、B児にとってつらさになっていた可能性もあるかもしれません。私はB児の「らしさ」を知るために、彼の好きなアニメやゲームもプライベートで視聴しました。その結果、B児が家族や学校の友人、過去にしてきたことを、今でも多く話してくれています」

    私の就労移行支援事業所でも「ほかの就労移行支援事業所でトラブルを起こすから」という理由で、みずからが移籍してきたり、相談事業所や自治体から移籍させられたりするケースはありますが、私の事業所に移り、ある程度はトラブルが抑制されたり、まったく無かったりするのは、このB児と同様に、その人に合った社会をその中で形成した(形成しようとした)からでしょう。子どもも大人もその「らしさ」を受け入れるのか、勝手なイメージでその人を判断して、「らしさ」から離れたイメージを固定化するかで、その人の居心地は変わってきます。そこにイメージされたその人は「自分らしく」ないので、居心地が悪いのは当然でしょう。

    この居心地の悪さを感知する、または障がいのある方が「自分らしく」いるために、必要なのは、適切なコミュニケーション行為であり、最適化された言葉なのだと岩尾紘彰さんは指摘しています。「翻訳家は水場を用意して待つ」で「ぼく自身はこのようにして、幽(かそけ)き言動の意を汲んで、詳(つまび)らかにしていくことが、定型発達と発達障がいのあいだにある溝を埋めていく手段だと思っています。それぞれの意図や気持ちや背景を、言葉にして説明できれば、相互理解の材料が用意できると思うからです」はとても支援者には有効な言葉なのだと思います。

    この「自分らしく」に立ちはだかる社会の障壁を考えると、少し立ち眩みがしそうな徒労感を覚える人もいるかもしれませんが、まずはありのままを受け入れるだけ、と考えれば気が楽なのだと思います。そして、きっと自分らしさを自然に認め合えたときに、その幸せな相互関係は、人生に豊かな時間をもたらすはず、なのです。と、断言的に示すのは、私の故郷、仙台で有名な「福の神」仙台四郎の話です。私の故郷の近所のおばさんの話とともに、仙台四郎の物語を紹介します。

    私の実家は仙台市営地下鉄南北線の仙台駅から南に2駅目の愛宕橋駅すぐそばで、40年前となる私の幼いころは市電の停留所があり、通りには瀬戸物屋、本屋、子どもの乗り物屋、漬物屋、こんにゃく屋、お茶屋や竹細工屋が並び、ちょっとした賑わいがありました。

    次々と商店街が店をたたんでいく中で最後まで頑張っていたのが、おばさん1人で切り盛りしていたお菓子屋で、それは実家から通りに出る間口にあったから、そこは私の日常的な場所でした。木造の建屋が印象的でしたが、お店には屋号も看板もないので、近所ではおばさんの名前からその店を「Hさん」と呼びました。店内は博物館に展示されるほどの年代物の木製のショウケースに毎朝仕入られるアンパンやジャムパンが並び、私のお気に入りは20円の白あんと黒あんの二種類のあげまんじゅうと色とりどりの1個5円のあめでした。

    そんなカラフルな商品の中央に鎮座していたのはモノクロの「仙台四郎」の肖像写真でした。子どものころの私はお店に行くたびに、その微笑みかける和服を身にまとった坊主頭のおじさんをちらりと見て、なぜか凝視することができず、それが何者かが分からずのままにいたのですが、ものを知るようになって、仙台の「人神」「福の神」だと分かるのは随分と後のことでした。仙台四郎の本名は芳賀四郎といいます。江戸末期から明治期に仙台市内を徘徊していた知的障がい者とされ、いつもにこにこしていて仙台の商店を訪れ、店先にほうきが立てかけてあれば勝手にそうじをし、その店は繁盛するなど、彼が立ち寄る店には福がもたらされるという噂から「人神化」が始まりました。

    仙台では大正時代からブームとなりましたが、メディア時代に入ってのブームは1986年で、近年になってからは地域の活性化とメディア効果もあり、肖像写真に限らず、人形や小物などの関連商品も販売され、仙台四郎グッズは仙台土産としての地位を築くようになりました。初売りや七夕祭り、ジャズフェスや光のページェントなど、年中行事が多い仙台ですが、仙台四郎は季節に限定されない安定したキャラクターで、仙台の街を歩けば、店先のオブジェやポスター、多種多様なグッズなどかならず仙台四郎に出会うことになります。この仙台四郎のグッズは、先ほどの微笑む肖像画がモデルになっていますから、すべて「微笑んでいる」ので、雰囲気を柔らかくするし、温かい気持ちにさせてくれます。それを誰かに届けたくもなってきますから、やはり今も「福の神」として、ますます効果は大きく、現実的に福をもたらしてくれているのです。

    そして、この話は障がい者と社会や地域の付き合いかたの手本として語られることも少なくありません。いつもにこにこしている天真爛漫の障がい者を受け入れるか、排除するかで、商売が繁盛する、しないの話とは、障がい者に対しての姿勢が問われている、と解釈できるでしょう。とくに一般消費者を相手にする商店では、どんな人も分け隔てなく接することが、社会におけるその店の価値を高めるものですから、人へ接する心持ちそのものが商売という結果に結びつくという話となります。

    それはひと言でいえば「仙台四郎」が生きている「自分らしさ」を認めるか、認めないかの違いです。

    これは現在の障がい者雇用をめぐる企業や、障がい者に対する社会の需要の問題に結びつきますし、社会モデル形成の参考になりそうです。障がい者雇用を生産性の論理に組み入れようとしてうまくいかない企業や、障がい者関連の施設の開設に反対する地域コミュニティが存在する日本社会の中で、仙台四郎のほほえみは「自分らしさ」とは何かを語りかけてくれるような気がしてならないのです。

    その後、愛宕橋通りの「Hさん」には、高校を卒業し実家を離れた後も、帰省のたびに顔を出し、しばらくとりとめもない世間話をするのが常でした。そのおばさんは私が社会人になったころから認知症となり、商売をやめましたが、自分の体の分だけは店のシャッターを開け、ひたすらにこにことした笑顔で通りの人を眺めていました。私が年に一度帰省すると、にこにことあいさつし「元気だった?」「元気だよ」と言葉を交わしますが、私が誰なのかはだんだんと分からなくなっていたかもしれません。

    しかし一点の曇りのない笑顔は絶やしませんでした。それは誰に対しても同じで、地下鉄駅が近いことからマンションも増える中で、そのおばさんを知らない転勤族にも遠隔地からの学生にも笑顔であいさつをしますから、彼ら彼女らも自然とあいさつを交わすようになりました。

    それは、私なりの解釈で、おばさんは仙台四郎になったのだと気付きました。通勤や帰宅中に出会うその笑顔に温かな力をもらった人はいるはずだ、と勝手に思ってしまうのです。おばさんは没し、お菓子屋は最近になって取り壊されましたが、今も私の中で「福の神」の笑顔は消えないままでいるのは、屈託のないその「おばさんらしさ」がよい思い出として刻み込まれているからでしょう。

    だから「自分らしさ」を純粋に生きた人は人を幸せにする力も持っているのだと思います。

    これは昨夜の話です。深夜に私の携帯電話に私の支援施設を卒業し1年以上経過した統合失調症の40代の男性から1年ぶりに電話がありました。案の定、就職活動がうまくいかず、「生きていてもしょうがいない」という「気持ちの危機」を知らせる電話でした。そこで私に電話をかけたのは、人生を思い返して「自分の家に来て、一緒に大好きな大相撲と稀勢の里を見てくれたことを思い出した」からだそうです。私は本当にうれしかったので、思い出してくれて「ありがとう」と何度も言いました。あの私が行った部屋でひとり苦しんでいるのを想像すると私も心が張り裂けそうになりながら、現在の先方の辛さに聞き入りました。

    そこには「彼=自分らしくありたい」と、その彼という自分らしさを受け入れられない社会、が認識として存在していました。これは推察ですが、自分らしさを否定されたときに、稀勢の里の大ファンであることを自分の部屋で共有した私の存在を思い出してくれたのでしょう。

    やはり、「自分らしさ」は社会と分断されてはいけないのだと思います。その社会がただひとりの他者であっても、どこかで本当のその人らしさ=自分らしさを共有する場が必要です。

    松熊亮さんは「『自分らしく生きる』というメッセージにこめる願い」に、一般化された子どもへのワークを引き合いに「あの夢や目標ありきのワークは、すでに目標を持っている生徒や、なんとなくでもやりたいかなと思えるものを持っている生徒には、調べることでそこに向かう手段やそれをするということの現実に近づかせるきっかけになりますから、間違いなくいいものだと私は思っています」としながらも「そういった価値観の波に乗り切れなかった子ども」に注目し「個性を大事にしていたはずが、本人の現実をないがしろにしている、こういうことがじつは気づかないうちに起こっているのではないか」と問題提起しています。

    私が示す共有が高圧的なマジョリティとの同化とはまったく異質なものであることは明白だと思いつつ、松熊さんが指摘する「本人の現実をないがしろ」にする危険は私にも誰にでもあるのでしょう。「自分らしく生きる」には、強烈なほどの「個別性」をつねに考えなければいけないかもしれません。ただ、強烈な、などと書くと、やはりつねに「やさしくありたい」と考える私には少し馴染まないので、自分らしく生きる、とは「自分のくらし」をすることだと考え、本稿のまとめにしたいと思います。

    ストレスのない「自分くらし」です。そう「自分らしく」の言葉の並び替えです。

    その自分くらしの日々ができる社会に向けて、私も自分らしく、自分くらしの中で、すべての人の自分くらしが出来ないか、自分らしく夢想する毎日です。

  • 【執筆者紹介】引地 達也(ひきち たつや)

    (一般財団法人福祉教育支援協会専務理事・上席研究員/シャローム大学校学長/
    発達支援研究所 客員研究員

    専門領域:メディアコミュニケーション、障がい者コミュニティ
    主な研究内容:ケアとメディアの融合化と社会実践、障がい者の学びの場の創出、など
    その他の社会的活動:サイキュレ編集委員、ニュース屋台村編集委員、ケアメディア編集長、ケアメディア推進プロジェクト代表、気仙沼線普及委員会、あすぷろ実行委員会理事
    (「引地 達也」執筆記事一覧)


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