【特集記事を読んで】「自分らしさ」はなくても、僕は僕だから
麻生 武(あさお たけし)
「自分らしく生きる」ということば、私にはしっくりきません。それは「自分らしくなく生きる」ということを日頃ほとんどまったく感じていないからかもしれません。仮に今の日本が、八十年前のようにどこかの国と戦争をしていて、私は徴兵され、敵の捕虜を殺せと命令され、私の心が弱くて命令に背けず敵兵を殺してしまったとします。もし、そうなれば、その嫌悪すべき弱さが、私の「自分らしさ」に違いありません。私の立ち振る舞いや言動が、不甲斐(ふがい)なく卑怯(ひきょう)で勇気のないものだしても、またそれがいかに残念であっても、事実であればそれが私の「自分らしさ」です。それ以外の私はどこにもいません。そのように考えると「自分らしくなく生きる」ということは、不可能なことのように思えてきます。
自分は「自分らしく生きていない」と思ってしまう人は、おそらく、自分の理想とする生きかたあって、それをイメージして「今の自分は、自分らしくない」と考えているのでしょう。けれども、そのように考えて「自分らしく生きよう」とするのは、地に足をつけない夢みるロマンチストすぎるのではないでしょうか。「理想の自分」など、どうやっても手の届かない北極星のようなものです。高い目標をもつことは決して悪いことではありません。しかし、それに手が届くものと勘違いしてはいけません。理想と現実を同一視して、今の自分は「(理想の)自分らしく」ないと思い悩むのは、「本当の自分」探しという、現代が生み出した奇妙な病にかかることにほかなりません。
けれども、じつは、もうひとつ別の形の、人が「自分は“自分らしく生きていない”と思ってしまう」危険性があるのです。それは障がいをもっている人たちの周辺で生じがちなことです。おそらく、この『自分らしさを生きる』というコーナーで問題になっているのは、こちらのほうだと思います。自分で自分は「(理想の)自分らしくない」と思うのがロマンチストの自分探しの病であるとすれば、こちらで問題になるのは「あなたは“自分(あなた)らしくない”」という理想や目標を押しつけてくる他者の存在です。
本当の「あなた」はもっとできるはずだ。もっと頑張れるはずだ。もっと分かるはずだ。でも、これは一般の親が子どもにいつも押しつけがちな認識です。「這(は)えば、立て、立てば、歩め」の親心です。障がいをもつ子どもたちにとっても、そのような親心は大切で必要なことです。難しいのはそのさじ加減です。幼い子どもにとって「歩けないこと」「しゃべれないこと」「うまくものがつかめないこと」「字が読めないこと」「ハサミがつかえないこと」「〇〇ができないこと」を、自分らしさととらえることは不可能なことです。それは明日の自分には可能になるかもしれない世界だからです。周囲の人たちは、そのように期待します。「あなには、きっとできるはず」と暖かいエールをつねにかけてくれるのが養育者や先生たちです。そのような周囲の人たちの目から見れば、今の子どもの姿は仮の姿です。「今のあなたはあなたらしくない、まだ本当のあなたではない、本当の自分を目指して頑張りなさい」という周囲の声援は、声援者の思いに反して、逆に子どもを傷ける可能性があるのです。子どもは、期待されている自分の姿がイメージできるようになると、それと同時に、自分は「(期待される)自分らしく生きていない」と思ってしまう危険性が生まれてくるのです。
障がいをもつ子どもたちの大きなハンディは、健常の子どもたち以上に、周囲の人たちが期待するように振る舞えないことです。そして、彼らは、周囲の人たちに期待されるように振る舞えるようになることを、つねに教育や療育や訓練という形で押しつけられています。それは、今ここにある姿を、教育や訓練という名において否定されていることにほかなりません。「自分らしく生きる」ということを意識するということは、そのような自分を締め付けてきたように感じる教育や訓練に対して「ノー」と言えるようになること、あるいは逆に、今の自分を肯定した上で、自分の意志で「教育や訓練」を選択できるようになることを意味しているように思います。そのとき「自分らしさ」とは、本当の自分探しのロマンティストの夢想するような「自分らしさ」ではなく、「○○ができない」といったハンディを自分の特性のひとつとしてもつような「自分らしさ」です。「自分らしく生きる」というのは、他者(親や世間)の期待から自由になり、ありのままを生きることを意味しているように思います。
私は、このエッセイの冒頭に、「“自分らしく生きる”ということば、私にはしっくりきません」と書きました。それは当然かも知れません。私は現在70歳です。とっくに他者(親や世間)の期待から自由に生きているからです(ありがたいことにもはや周囲から積極的に期待されるような存在ではなくなっています)。だが、健常の若い人たちにとって、他者(親や世間)の期待から自由にありのままに生きることはそう簡単なことではないかも知れません。だから「自分らしく生きたい」とロマンティストになるのでしょう。しかし、生まれたときから他者(親や先生)からの(普通に育ってくれとの)大きな期待を背負わされて育ってきた障がいをもつ子ども(人)たちにとって、他者(親や先生)の期待から自由にありのままに生きることは恐ろしく大変なことでもあり、大きな課題でもあるように思います。そう考えると、自閉症の小学校三年生のS君が「僕は僕だから」「僕はゆっくりだから」「僕は僕のままでいいんだよ」とお母さんに言えたというのは本当にすごいことのように思います。
きっと、小学校三年生のS君がそのように言えたのは、本当は、S君のお母さんが「S君はS君のままで素敵だよ」というメッセージを密かに発し続けておられたからではないかなと思います。そうだとしても、もちろんS君がすごいことには変わりがありません。今から、約三十五年ほど前、私は就学前の自閉症のT君と週一の割合で一年間プレイセラピーで一緒に遊んだことがあります。そのとき、T君からたくさんのことを学ばせてもらいました。その内容を「T君らしさの世界」(注)というタイトルでまとめました。自分で「自分らしさ」を感じるというのは、本当は難しいことです。他人が私のことを「麻生らしい」と言うことがあったとしても、私が私のことを「麻生らしい」というのは変なのです。人の個性は自分で認めるものではなく、他者が認めるものだと思います。本当に、T君は「T君らしかった」のです。今でもTの姿が蘇(よみがえ)ります。きっとS君も「S君らしかった」のだと思います。どんな人であれ、周囲の人々が、「その人らしい」とそれぞれの視点からポジティブに受けとめてくれることが、とりもなおさず、その人が「自分らしく」生きていくことを可能にするのだと思います。とは言え、「自分らしさ」なんて自分には分からないことです。本当のことを言えば、「自分らしさ」なんてどうでもよいのです。だって「僕は僕だから」です。
(注)麻生武・木村真佐子(1985). T君らしさの世界 -ある就学前自閉症児のごっこ遊び・言語・自我・象徴能力の分析- 京都国際社会福祉センター紀要「発達・療育研究」, Vol.1, 25-79.
【執筆者紹介】麻生 武(あさお たけし)
(奈良女子大学理系女性教育開発共同機構・特任教授/奈良女子大学・名誉教授/
発達支援研究所 客員研究員)専門領域:発達心理学
主な研究内容:自己とコミュニケーションの発達
所属学会と役職(過去の主な役職を含む):日本発達心理学会理事長 など
学位:大阪市立大学文学研究科・博士(文学)
代表的な著作・論文:
『ファンタジーと現実』(金子書房)
『発達と教育の心理学』(培風館)
『「見る」と「書く」との出会い』(新曜社) ほか
(「麻生 武」執筆記事一覧)
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