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翻訳家は水場を用意して待つ(岩尾 紘彰)

  • 岩尾 紘彰(いわお ひろあき)

    20歳以上の発達障害者に毎日新聞が実施したアンケートで、回答した4割超がうつ病を発症していることが明らかになりました(2019年3月末、毎日新聞)。専門家は「障害の特性が理解されないことで、いじめや虐待の被害に遭い、生きにくさが増している」と指摘しています。どうすれば、発達障害を持つ子どもや大人の生きづらさを減らし、自分らしく生きられるようになるのでしょうか。いやそもそも、発達障害があってもなくても、私たちは自分らしく生きられているでしょうか。このあたりのことについて考えながら、筆を進めてみたいと思います。(なお、「障害物競走の障害物は乗り越え・くぐり抜けるためにある」というチャレンジングでスリリングなニュアンスに結び付けて、「害」の字をひらがなや旧字体にはせずに「障害」と表記します。)

    ぼくたちはもともと特別なオンリーワンです。だから、人と競ったりせずにそのまま、それぞれの人生を謳歌していれば、人はみな自分らしく生きていることになると思います。だけど、なかなかそうはなっていないし、そう出来ない。どうして「みんなと一緒」を目指したり、あるいは逆に、一番になりたがるのでしょうか。

    それは、ぼくたちがお花ではなく人間だからで、人間というのは少なからず他人の顔色や反応を気にするものだからだとぼくは思います。その一方で、周りが「あの人はあの人らしい生きかたをしている」と認めてくれていても、自分自身が納得していなければ、それは自分らしく生きられていないことになると思います。このように考えてみますと、その生きかたに自分も納得していて、その生きかたを周りも認めてくれていれば、その人は自分が自分らしく生きていると胸を張れる気が致します。

    では、冒頭の問題に立ち返って、「発達障害ゆえに自分らしく生きられない」その「発達障害ゆえに」という部分はどうすれば解決できるのか、さらに考えてみたいと思います。

    ぼくが発達障害の子どもたちに魅力を感じるようになったのは、一対一の学習支援をしていた20代後半のころです。定型発達の子も、診断のついていないグレーゾーンの子も、診断のついている発達障害の子も、担当させてもらいました。5年ほど、子どもたちと向き合い接する中でぼくが感じたのは、グレーゾーンや発達障害の子どもたちの“むき出しの個性”の面白さでした。自分がパッとしないことに苦しんでいたぼくは、“そのようにしか生きられない”子どもたちに憧れ、尊敬するようになりました。ぼくにとって、子どもたちのワガママやかんしゃくや聞かん坊は、光でした。親や先生にはっきり「NO」と言えること・示せること、自分の取り組みたいもの・ことがはっきりしていることは、“どうしようもなくあふれ出る自分らしさ”だと思ったのです。

    とはいえ、家族やクラスメイト、職場の同僚など、その人の近くに居れば居るほど、その人の言動の理解不能さや合わせてくれなさ、分かり合えなさに、苦しみ悩むことは増えると思います。そして、周囲の人を困らせてしまっていることに当人自身も困っているのが現状のようです。

    発達障害の子どもや大人が持つ魅力と困り感のあいだにある溝を埋められれば、「発達障害ゆえに」の部分を解決できるかもしれません。そのためには翻訳家のように、幽(かそけ)き言動の意を汲んで、詳(つまび)らかにしてくれる理解者が必要だとぼくは思っています。

    発達障害のことをぼくは「ある部分の能力の発達が非常にゆっくりしている障害」だと思っています。たとえば、「じっと席に座っているのが苦手な人」は「じっと席に座っているために必要な能力の成長が非常にゆっくりしている人」という認識です。「じっと席に座っているために必要な能力」はさらに分解してみますと、「ほかにやりたいことを思いついても、それをガマンする能力」とか「座っているときの姿勢を持続させる筋力」とか「場の状況に合わせた適切な振る舞いを理解する力」などいろいろな能力に分けられます。

    こうした「部品」から取っ掛かりをつかめれば、その子がすぐに席を立ってしまう理由が分かってくるかもしれません。たとえば、その子は、この場では座っていなくちゃいけないと分かっているし、イスに座った状態で姿勢をキープできるんだけれども、思いついた「やりたいこと」をどうしてもまだ優先してしまうんだ、だから、じっと席に座っていられないんだというイメージが浮かび上がってくるかもしれません。もしこの見立てが合っていれば、その子は「やりたいことをガマンする能力の発達が非常にゆっくりしている障害」を持っていることになります。もちろん、こうした事情や理由はその子・その人・その状況によって千差万別ですし、発達によっても現れかたは変化しますから、一筋縄ではいきません。知識と経験とカンをフル活用して注意深く見る必要があります。

    ぼく自身はこのようにして、幽(かそけ)き言動の意を汲んで、詳(つまび)らかにしていくことが、定型発達と発達障害のあいだにある溝を埋めていく手段だと思っています。それぞれの意図や気持ちや背景を、言葉にして説明できれば、相互理解の材料が用意できると思うからです。その先の、どこまで工夫し合うか、どこまで配慮し合うかは、当人どうしのあいだで決めることだろうと思います。「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」ということわざがあります。自分らしく生きるためには、お互いがお互いを認め合おうとすることがまずは必要なのだと思います。

  • 【執筆者紹介】岩尾紘彰(いわおひろあき)
    東京都の港区にある児童発達支援・放課後等デイサービスの事業所で働いている児童指導員です。
    発達障がいやグレーゾーンの子どもたちに魅力と希望を感じて、かれこれ8年、そうした子どもたちとかかわる仕事を続けています。
    お互いに違いを楽しみ合い、生かし合える関係を築いていけたらステキだなと思っています。


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