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【お気楽と迷惑の間】③ 私が振り返る当事者と周りの人たち【高校時代】

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  • 大内 雅登(おおうち まさと) 高校時代は部活に明け暮れました。強豪校と比べると、そんなに練習していないと言われそうですが、私にとって高校生活の中心にどっしりと据えられたもの、それが剣道部でした。剣道...
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  1. やまもと やまもと

    自閉系の方は人に共感できないのではなく、また人に配慮できないのでもなく、その仕組みに定型発達者との間にズレがあるのだ、という視点から私は発達障がいの問題を考え続けているのですが、大内さんの、「私」をベースにし、かつ、「私にとっての価値」に基づく判断から、やがて大内さんの価値に「利他」という視点が組み込まれ、広がっていくというこの展開は、本当に示唆に富んでいると感じます。

    小学校の時の「ほかの子の宿題を自分のとして提出していた」話など、それだけ見れば「人の苦しみを考えない、利己主義の塊」みたいに理解されて、どう考えても肯定できないとも思えますが、でもそこで終わるわけではないし、そこから出発しながら他者との関係の中で「利己」を「利他」につなげていくわけですよね。そういえばリタリコというのも「利他&利己」の意味だと聞いて面白かったですが、利己から出発しようと利他から出発しようと、その先に似たような人間関係が作られる可能性がある、ということも本当に面白いです。

    この話は近代社会の成立過程の中で、アダムスミスが自己の個人的な利益(利己)の追求が市場の原理(神の手)を通じて全体の利益を生む、といった議論の成立にもつながっていくのだろうと思います。とはいえ、大内さんの話は「利己」に出発しながら「神の手」で勝手に調整されるのではない、「利他」の世界を実現する展開になっているところが多分大きな違いです。

    現代社会はこの市場主義の弊害が深化していっているプロセスで、改めて「利他」をどうとらえなおしたらいいのかが世界的な課題なのだろうと思いますが、その問題を考えるうえでも、なにか重要なヒントが隠されているのではないかと感じます。

  2. 515 大内雅登 515 大内雅登

    二律背反というのが大好きでして。たとえば、今勤めている事業所は全国展開していて「大きい」けれど、現場のひとつひとつの対応は決め細やかさが求められて「小さい」……など。
    この「利己」を突き詰めれば「利他」も大好きな事象です。

    定型であれ、発達リスク持ちであれ、人が獲得しなければならないものは「正しい態度」ではなく、「何が正しい態度だとその文化圏では認められているか」という知識です。なんとなくその知識が習慣の中で見えてくるか、知識を知識として手に入れるか、その得意な方法に違いはあるのでしょうが。
    仮に、認められている範囲を逸脱する、つまりその規範めいたものに反する態度をとるときには周囲の同意を得る説明責任能力も必要です。
    利己と利他が共存するとき……それはこうした規範理解が、学校で教わる道徳や世渡りの知恵的なSSTを超えたところに押し上げられたときだと考えます。
    もしよろしければ、大内の考えるSSTについて寄稿させてください。

  3. labo labo

    SSTの話も楽しみにしています。

    大内さんが二律背反と言われたことの意味をまだしっかり捕まえられていませんが、とりあえず利己と利他を互いに両立し得ない関係ということで二律背反と理解して、その事で私がずっと興味を持っていることは、とりあえず利己が最初に際立って見えてきているとして、そこでは利他がまだなかったと考えてもいいのか、それとも図と地の関係のように、意識の背後に沈んでいるだけで、元々のその要素があったのかということです。

    少し言い方を変えると最初に「利己」という「私」が強調されているときに、実はその「私」それ自体の中に「他者」が含まれているといったことはないのかとも言えるかもしれません。

    多分感覚的にはそれは二律背反なので「ない」と感じられるのかなあと想像はするのですが、定型的には自と他はどうしても切り離せないものと感じやすいですし、理屈からいっても自が意味を持つのは「他ではないもの」といった形で他を取り込んでしか意味を確定できないという問題もあって、それとの絡みでもずっと考え続けているところです。

  4. 515 大内雅登 515 大内雅登

    誰かのために何かをするのは結局自分のためだったり、逆に自分のためのことが誰かの役に立ったり。
    俯瞰して見ると、利己や利他はくっきりと線を引けるものではないことは議論を待たないでしょう。
    そう分かっている私が、利己と利他を分けてしまうのは、なるほど特性かもしれません。滅私奉公レベルで初めて「利他」だと素直に思えますね。

    支援をしていて、こういう考え方ってしんどいだろうなぁと思うことのひとつに「絶対に守れる保証がないから約束しない」という過剰な反応があります。ルールや約束に絶対の信服を置く利用者の姿と、字義に過剰な縛りを設ける私の姿はとてもよく似ているように思いました。

    脱線を続けますが、日本人の自他の分けなさ(変な日本語)は感覚的な定型向きなんだろうと真剣に考えたことがあります。
    「どこから来たの?僕」とか「聞いとんか、ワレ!」など1人称の2人称化が顕著な例で、自分と他人のレールが同一で区別がないんですよね。
    レールと表させてもらったのは、山手線のような円形を自と他が乗っかっているイメージです。御茶ノ水駅と水道橋駅は隣同士ですが、内と外の見方を変えれば遠いとも言えます。部活では仲良く話してもいいけど、教室では距離とろうね、的な間合いの変化も含めてレールに例えるようにしています。
    ともあれ、この自と他を同じ価値観で動いていると疑わない同一レールみたいなイメージが、当事者から見た定型ですね。そして、そのレールに乗れている人からすれば利己も利他も線なんかないよなぁ、ということに非常に納得がいきます。
    ありゃ。ひがんでないのに、ひがんでいるみたいな終わり方。笑

  5. じんべい じんべい

    大内先生の記事をおもしろく拝読しています。
    読んでいると、わたし自身のことを振り返る機会にもなりますし、また「あの時のあの人の行動は、もしかすると大内先生が書いておられるような思いがあったのかもしれない」と考えるきっかけを頂けます。