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【お気楽と迷惑の間】③ 私が振り返る当事者と周りの人たち【高校時代】

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大内 雅登(おおうち まさと)

高校時代は部活に明け暮れました。強豪校と比べると、そんなに練習していないと言われそうですが、私にとって高校生活の中心にどっしりと据えられたもの、それが剣道部でした。剣道を通じて、自分の居場所を見つけ、多くのことを学びました。高校は、中学校よりも充実していて、楽しい場でした。

  • 剣道部の顧問であり、監督は生活における心構えを、「向上のための選択」という形で伝えられる方でした。たとえば、新入部員の歓迎会と銘打って行われたバーベキューでのことです。部員数は30人弱。用意されたお肉は15kg超。多すぎるでしょう?お腹がいっぱいになり、お肉にも飽きてきて食べるのをやめている私に監督は声をかけます。

     「大内、もっと食べろよ!」
     「いや、お腹がいっぱいです」

    ほかの部員は一生懸命(というのもおかしいですが)食べています。歓迎されている側が主役だという私の認識には、用意してくれた人への感謝はありません。食べている人は、食べることができる人という認識です。そして、私はもう食べられない人なのです。

    「お前には、『伸びしろ』がないよ」

    わけの分からない叱責が飛んできました。監督は続けます。

    「もうダメだからいい、と諦める奴は最後の努力ができん!」

    お肉を食べるのが努力ですって。今振り返れば吹き出しそうな理屈ですが、私には効果的でした。お肉を買ってきた俺に失礼だろう!とでも怒られていたら納得できなかったと思います。無理やり食べさせるのも失礼だ、という対立が生まれますから。しかし、そこでかけられた言葉は「その態度はお前の成長に歯止めをかけている」というものです。人の気持ちが分からない、人の気持ちに価値が置けない私にとって非常に胸に落ちる理屈だったのです。

    入部して、しばらくすると高校総体の県予選が近づいてきました。先輩たちは頭を丸め、早朝練習にも励んでいました。「自主的に参加してもいいぞ」という監督の言葉に従って、2年生の先輩が、次いで新入部員が朝から稽古をし始めました。髪も切らず、朝練にも参加していないのは、部で私だけとなりました。

    参加してもいいというのは、参加しなくてはならないという意味ではないから、いかなくてもいい。そう考えました。それでも練習をしている部員に何となく気が引けて、登校後、剣道場を避けて教室に向かう日が続きました。そんなある日、本当にたまたまかは怪しいのですが、私が休み時間に廊下を歩いていると、2年生の先輩が監督と話しているのを聞きました。その先輩は朝練こそ参加していますが、髪を切っていません。

    「お前、髪を切って来いよ」

    監督がそう話しているのが聞こえます。

    「まず2年生が切らないと、大内が切らなくてはいけないと気づけんやろ。どっちでもいいことに積極的に参加する大切さを言葉で教えても伝わらん奴もおる。態度で示して、言葉が要るんや」

    後輩指導の仕かたを先輩に話していました。私がいるのに話しているとしたら、当てつけとも思えますが、そんなことは私にとって問題ではありませんでした。積極的に参加する大切さ、とは何かを考えなくてはならなくなったのです。このやり取りで、人の育てかたや、部員としてのありかたに目覚めるわけではありません。発達リスクのある私は、その文の単語に焦点が当たりました。結果、私は部に入ったという積極性を示した自分はそれでいい、という結論に至ります。朝練には行かずじまいでした。

    それでも髪は切りました。そこは積極的に何もしていないと思えましたから。髪を切った私を見て、監督は「おお、髪切ったか。髪を切っても剣道は強くならん。けど、剣道のために髪も切れん奴は強くなれん」と声をかけました。精神論ですが、これも胸に落ちるんです。どうして胸に落ちたかというと、タイミングなんですよね。髪をしぶしぶ切った私に、その行為は意味があるものだと言ってくれたのです。まんまと監督の話術にはまっているだけですが、やっと切ったかとか、朝練も来いよとか当てこすられないのも助かりました。

    練習が終わると、顧問の防具を片づけます。片づけをしている私たちに顧問が「ありがとう」と声をかけます。そして、「こういう面倒くさいことをしていないと、面倒くさいことをしてくれている人に感謝がしにくいからな。大変やけども、頑張ってやれよ」こういう教えは、今の私の療育の根底に根付いています。感謝していない子に「ありがとう」を言わせるよりも、「ありがとう」を言われる経験を通して感謝の気持ちを感じられるようにしたい、そう考えて支援をしています。決して言葉が先ではないんですね。

    総体が終わり、国体選手の先輩を残して多くの3年生が引退したある日、監督に呼ばれました。「上段に興味はないか」というお話でした。剣道の構えは、相手に竹刀を向けている中段の構えが主流です。監督は竹刀を頭の上に掲げる上段の構えを薦めたのです。背が高いほうが向いていると言われる構えですが、さして高身長でもない私に適当だと思われたようです。変わったことが好きなのもあって、私は一も二もなくその提案に乗りました。提案したものの、上段の選手を育てたことがないという監督は、あれこれ試行錯誤をしてみせてくれました。

    四国総体の観戦に行けるよう、会場のある愛媛県に住む先輩に連絡を取って宿泊先としてくださいました。国体にも連れて行ってくださいました。小手の打ちかたが分からないと言えば、徳島県に住む上段の名手の先生に会わせてくださいました。私は、この監督の気持ちに応えなければならないんではないかと思うようになっていったのです。

    朝早く、剣道場に行き、ジャージに着替え、坂道をダッシュしました。その後、時間が許す限り、打ち込み台に向かい続けました。昼休みは、ずっと打ち込み台を打ち続けました。卒業後、監督からは「だれよりも打ち込み台を打っていた」と言われて、知っておられたことに驚きました。放課後、部活をし、日によっては帰りに通っていたスポ少で稽古をすることもありました。学習後、庭で素振りもしました。

    ひとつのことに没頭できる特性が毎日の打ち込み台へと私を向かわせます。実力の向上とともに、中学時代には感じられなかった部活動における自己効力感が育っていきました。試合では大将に選ばれ、ときにはチームのために代表戦にも出ました。監督のためにしていた努力は、選手のための努力となり、選手になれない部員のための努力へと拡大していきました。

    大将戦で負けると怒られました。次の試合につながらない、と言われました。チームの勝敗に関わらず、大将は勝たなければならない。こういう思想は私を強くしていきました。ADHDの障がいを持つ人に、ご褒美を用意すると、定型発達の人と異なる反応が見られることが沖縄科学技術大学院大学(OIST)の古川先生によって明らかにされています。「これを頑張ったら○○あげるからね」といった声かけで定型発達者が頑張るのに対し、ADHDの人はすぐにご褒美が手に入らないなら、いいやとなる傾向が高いのです(注1)。古川先生の発表以前から、遅延のある報酬に対する効果の低さと、頻繁な報酬の提供がやる気を持続させることは明らかでした。それに対し、近年京都大学大学院の前原先生によって「利他的動機づけ」の作動記憶における改善が示されました(注2)。他者の感謝や笑顔と言った社会的報酬が絡んだほうが集中できると考えていただければ、そう間違っていないと思います。

    つまり、私は、私が頑張ることで部に関わる人たちを幸せにできると思うことで、より努力がしやすかったということになります。

    また、剣道部員が面をつけるときに使う手ぬぐいには「不厭」と書かれていました。これは「ふえん」もしくは、レ点をつけて「いとわず」と読みます。孔子の言葉をまとめた『論語』に「学而不厭(がくじふえん)」という言葉があり、そこから来ています。ゲームのパッケージから学習を拡げた私は、この手ぬぐいから『論語』の世界に入っていきます。一般的に道徳の基盤とされる儒学ですが、私は次の話に大いに感銘を受けました。

    楚の国の葉の地の長官が孔子に語った。「私の村に正直者の直躬(ちょっきゅう)というものがいる。あるとき、その男の父親が羊を盗んで訴えられたら馬鹿正直にそれを隠さず証言した」と。それに対して孔子は、「私の村の正直者は、それとは違う。たとえ悪事ではあっても、父親は子のために隠し、子は父親のために隠す。そうした、人間本来の自然の情感を偽らないことが本当の正直者だ」と言った。(子路第十三)

    悪いことをしても親のためには肯定しろ、と理解したわけではありません。こんな不道徳な考えかたでも、議論においては胸を張って話せ、と受け止めたのです。内容によっては、もちろん道徳の教本として受け止め、内容によっては議論の姿勢として受け止める。孔子を批判するというよりは、長年伝わってきている孔子の言葉の意味を探っていくというかたちでしょうか。この姿勢の形成は、監督の言葉を単なる精神論で受け取らないことにつながりました。字義どおりに受け止めるアスペルガーの特性に、多面的に捉えようとする療育が部活や『論語』によってなされたと理解しています。

    ちなみに協調運動が苦手とされる私は、歩いているだけでいろいろなことを言われます。中学生のときに「足が悪いよな」と先生に言われたこともありますし、先日は職場で「先生、足が痛いんですか」と同僚に聞かれました。歩くことすらぎこちないんです。竹刀を使って、決まったところを打つなんて苦手中の苦手なんです。ですから、高校時代に小手打ちができるようにはなりませんでした。せっかく教えてもらいに徳島まで連れて行っていただいたのに、残念なことです。全国も行けず、国体の強化合宿にも呼ばれたのは1度きり。かけた時間と成果が釣り合った感じはありませんでした。それでも、無駄とまで思えないのは、「努力をしてない奴は、何でも「ちょっとやったらできる」と考える。頑張った奴だけが、できることの難しさやできている人への敬意をもてる」という監督の言葉があるからでしょう。

    ちゃんと特性は部活動において表に出ているのですが、責められず、教えられ、感じさせてもらえ、私は社会性を身につけていきます。行動としては同じでも考えかたは違うことが多いのですが、結果的に人を思いやり、場の空気を読んでいるかのように振舞えるように、少しずつなっていくのでした。

    注1:Furukawa, E., Bado, P., Tripp, G., Mattos, P., Wickens, J. R., Bramati, I. E., … Moll, J. (2014). Abnormal striatal BOLD responses to reward anticipation and reward delivery in ADHD. PloS One, 9(2), e89129. https://doi.org/10.1371/journal.pone.0089129
    注2:前原由喜夫・梅田聡(2013). 利他的動機づけはADHD傾向が高い人の作動記憶を改善する 日本教育心理学会第55回総会発表論文集, 412.

    (個人ベーシック閲覧期間:2019年10月1日まで)

  • 【執筆者紹介】大内 雅登(おおうち まさと)
    香川県高松市の児童発達支援事業所で働く支援員です。自閉スペクトラム症の当事者でもあります。
    時には支援員のスタンスで、時には当事者のスタンスで皆様にメッセージをお届けしてまいります。趣味は剣道。大きな声が目印です。
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  1. やまもと やまもと

    自閉系の方は人に共感できないのではなく、また人に配慮できないのでもなく、その仕組みに定型発達者との間にズレがあるのだ、という視点から私は発達障がいの問題を考え続けているのですが、大内さんの、「私」をベースにし、かつ、「私にとっての価値」に基づく判断から、やがて大内さんの価値に「利他」という視点が組み込まれ、広がっていくというこの展開は、本当に示唆に富んでいると感じます。

    小学校の時の「ほかの子の宿題を自分のとして提出していた」話など、それだけ見れば「人の苦しみを考えない、利己主義の塊」みたいに理解されて、どう考えても肯定できないとも思えますが、でもそこで終わるわけではないし、そこから出発しながら他者との関係の中で「利己」を「利他」につなげていくわけですよね。そういえばリタリコというのも「利他&利己」の意味だと聞いて面白かったですが、利己から出発しようと利他から出発しようと、その先に似たような人間関係が作られる可能性がある、ということも本当に面白いです。

    この話は近代社会の成立過程の中で、アダムスミスが自己の個人的な利益(利己)の追求が市場の原理(神の手)を通じて全体の利益を生む、といった議論の成立にもつながっていくのだろうと思います。とはいえ、大内さんの話は「利己」に出発しながら「神の手」で勝手に調整されるのではない、「利他」の世界を実現する展開になっているところが多分大きな違いです。

    現代社会はこの市場主義の弊害が深化していっているプロセスで、改めて「利他」をどうとらえなおしたらいいのかが世界的な課題なのだろうと思いますが、その問題を考えるうえでも、なにか重要なヒントが隠されているのではないかと感じます。

    1. 515 大内雅登 515 大内雅登

      二律背反というのが大好きでして。たとえば、今勤めている事業所は全国展開していて「大きい」けれど、現場のひとつひとつの対応は決め細やかさが求められて「小さい」……など。
      この「利己」を突き詰めれば「利他」も大好きな事象です。

      定型であれ、発達リスク持ちであれ、人が獲得しなければならないものは「正しい態度」ではなく、「何が正しい態度だとその文化圏では認められているか」という知識です。なんとなくその知識が習慣の中で見えてくるか、知識を知識として手に入れるか、その得意な方法に違いはあるのでしょうが。
      仮に、認められている範囲を逸脱する、つまりその規範めいたものに反する態度をとるときには周囲の同意を得る説明責任能力も必要です。
      利己と利他が共存するとき……それはこうした規範理解が、学校で教わる道徳や世渡りの知恵的なSSTを超えたところに押し上げられたときだと考えます。
      もしよろしければ、大内の考えるSSTについて寄稿させてください。

      1. labo labo

        SSTの話も楽しみにしています。

        大内さんが二律背反と言われたことの意味をまだしっかり捕まえられていませんが、とりあえず利己と利他を互いに両立し得ない関係ということで二律背反と理解して、その事で私がずっと興味を持っていることは、とりあえず利己が最初に際立って見えてきているとして、そこでは利他がまだなかったと考えてもいいのか、それとも図と地の関係のように、意識の背後に沈んでいるだけで、元々のその要素があったのかということです。

        少し言い方を変えると最初に「利己」という「私」が強調されているときに、実はその「私」それ自体の中に「他者」が含まれているといったことはないのかとも言えるかもしれません。

        多分感覚的にはそれは二律背反なので「ない」と感じられるのかなあと想像はするのですが、定型的には自と他はどうしても切り離せないものと感じやすいですし、理屈からいっても自が意味を持つのは「他ではないもの」といった形で他を取り込んでしか意味を確定できないという問題もあって、それとの絡みでもずっと考え続けているところです。

        1. 515 大内雅登 515 大内雅登

          誰かのために何かをするのは結局自分のためだったり、逆に自分のためのことが誰かの役に立ったり。
          俯瞰して見ると、利己や利他はくっきりと線を引けるものではないことは議論を待たないでしょう。
          そう分かっている私が、利己と利他を分けてしまうのは、なるほど特性かもしれません。滅私奉公レベルで初めて「利他」だと素直に思えますね。

          支援をしていて、こういう考え方ってしんどいだろうなぁと思うことのひとつに「絶対に守れる保証がないから約束しない」という過剰な反応があります。ルールや約束に絶対の信服を置く利用者の姿と、字義に過剰な縛りを設ける私の姿はとてもよく似ているように思いました。

          脱線を続けますが、日本人の自他の分けなさ(変な日本語)は感覚的な定型向きなんだろうと真剣に考えたことがあります。
          「どこから来たの?僕」とか「聞いとんか、ワレ!」など1人称の2人称化が顕著な例で、自分と他人のレールが同一で区別がないんですよね。
          レールと表させてもらったのは、山手線のような円形を自と他が乗っかっているイメージです。御茶ノ水駅と水道橋駅は隣同士ですが、内と外の見方を変えれば遠いとも言えます。部活では仲良く話してもいいけど、教室では距離とろうね、的な間合いの変化も含めてレールに例えるようにしています。
          ともあれ、この自と他を同じ価値観で動いていると疑わない同一レールみたいなイメージが、当事者から見た定型ですね。そして、そのレールに乗れている人からすれば利己も利他も線なんかないよなぁ、ということに非常に納得がいきます。
          ありゃ。ひがんでないのに、ひがんでいるみたいな終わり方。笑

  2. じんべい じんべい

    大内先生の記事をおもしろく拝読しています。
    読んでいると、わたし自身のことを振り返る機会にもなりますし、また「あの時のあの人の行動は、もしかすると大内先生が書いておられるような思いがあったのかもしれない」と考えるきっかけを頂けます。

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