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【お気楽と迷惑の間】② 私が振り返る当事者と周りの人たち【中学時代】

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大内 雅登(おおうち まさと)

中学校に進学した私は、タイトルにあるとおり、お気楽に学校生活を謳歌(おうか)します。それなりに苦労をした気がしますが、苦労と言うよりは努力として受け止められていたのでしょう。中学校は、小学校よりも楽しい場でした。

  • 前回触れましたが、私は宿題をきちんとやりませんでした。隣の席の子の宿題を出すようなまねはあれっきりでしたが、宿題をしていくことにはなりませんでした。やらずに行くと、放課後に残されて、そこでできるまで帰してもらえないのです。結局、1日遅れで宿題が仕上がるわけですから、私にとって家でやる意味は見出せませんでした。5年生くらいになると、友だちにも「家でやるか、放課後に教室でやるかの違いしかないやん」と豪語していました。

    さて、入学して初めてのテスト期間のことです。放課後、自宅でのんびりしている私に電話がかかってきました。国語のA先生からです。

    「大内くん、国語のワークが出てないんやけど」

    ハスキーな声が特徴の女性の先生です。怒っているという感じはしませんが、学校の先生と電話で話すことが初めての私にとって、それは非常に脅威に感じたひと言でした。

    「あ、今部屋を見たら、机にありました」

    さらっと嘘をつきます。何しろ6年間宿題をしなかったのですから、宿題がらみで嘘をつくのはお手のものです。これで、先生からは「明日持ってきなさい」という言葉が返ってきて、それで電話もおしまいになるはずです。

    ところが、その先生は

    「じゃあ、今から持ってきて」

    とさらりと言ってのけました。嫌とは言えません。宿題については嘘の名人ですが、呼び出しに対して何かの嘘をついたことはありません。私は、急いでワークに取り組みました。幸いなことに、提出範囲は狭く、たいした時間もかけずに宿題は仕上がり、歩いて学校に着いたときには、先生の電話からまだ1時間も経っていませんでした。

    職員室を見渡し、ちらと先生が見えました。近くまで行き、お声をかけますが、何と言っていいのか分かりません。もじもじしていると、その先生の隣に座ってらっしゃった、大柄(おおがら)な女性のB先生が私に声をかけてくださいました。B先生は、隣の先生がAというお名前であることを教えてくださり、「A先生、遅れてすみませんでした」と言うようにアドバイスをくださいました。そして、アドバイスの後に「放課後でも、学校に来るときには制服で来なさい」とも付け足されました。私は、私服のままワークを持ってきていたのです。はい、とB先生に返したのち、A先生に向き直り、教わったとおりにお声をかけました。全てを聞いてらっしゃったはずなのに、初めて声をかけられたような反応を見せ、ワークを受け取りました。パラパラとワークを眺め、「次からは、出さずに帰らないようにしなさい。忘れたら、忘れたと言いなさい」と目を見ておっしゃいました。

    私は、療育の場で教わるようなことをしていただいたのでしょう。提出物を出さないことを強く叱られもしていません。B先生は、声のかけ方を知らない私に方法を伝え、A先生は、その指導の間待ち続け、成功体験を積ませてくださったのです。服装に頓着しないところにも、提出物に対する報告などについてもご指導くださいました。もちろん、いい加減にやったことがばれないかヒヤヒヤしていた私が感謝を感じることはありませんでした。

    どうも中学校の先生は甘くないぞ、と思った私は、そのテスト期間中、きちんと勉強をしました。英語や数学は満点でしたが、理社国の3教科はそれぞれ1、2問間違えてしまいました。理科はタンポポの花のスケッチをする問題、社会は朝鮮半島の北緯38度線を選択する問題、国語は漢字の問題をふたつ間違えました。算数のテストで満点など取ったことがなかった私ですが、数学の満点に喜ぶことはありませんでした。今までテスト勉強をしなかったのですが、今回はやったのです。やったらできるのは当たり前と思いました。むしろ、ソウルの位置から国境線は選べたはずなのに間違えてしまったことを大きく悔やみました。

    悪くない順位を見て、両親も勉強させれば地域トップ校に進学できるかもしれないと考えたのでしょうか、毎日19時半からは部屋で勉強をするように言いつけられました。やることなんか浮かびませんから、とりあえず宿題をする姿勢が身につきます。それでも、長期休暇に出される大量な宿題は面倒がってやったり、やらなかったりでした。ただ、A先生や、B先生の宿題を私が忘れることは卒業まで一度たりともありませんでした。

    部活動は剣道部に入りました。小学時代から続けていましたが、ちっとも強くもうまくもなかった私の練習態度はひどいものでした。ときには練習中にケンカを始めたり、ときにはトレーニング中に鬼ごっこを始めたり。遊びに賛同する不真面目部員が多かったのも一因でしょうが、とにかく遊んでばかりいました。遊んでいるとはいえ、放課後毎日時間を奪われることに変わりはありません。前回触れましたゲーム『ドラゴンクエスト』をやる暇がないのが悩みどころでした。毎日の学習時間は、宿題こそすれ、時間いっぱい攻略本を読んで過ごしました。テスト期間となり、部活動が休止となれば、放課後はゲームの時間となります。何度もクリアするので、ハラハラすることも達成感もありません。こうプレイすれば、こうなる。その決まりきったシナリオをなぞるだけです。クラスメイトに「おんなじゲームばっかりやって楽しいん?」と聞かれたこともありましたが、そのゲームに関わることが日常生活を生きることと同義だったのではないかと思うほどでした。

    あるとき、ゲームの外箱を見ていると『ドラゴンクエストⅡ(ツー)の世界はきっとあなたを魅了することでしょう。』という一文が非常に気になり始めました。「魅了」は「みりょう」と読むんだろうなぁ、魅力の魅は分かるけど、了解とか完了とかの了ってなんだろう。そんなことを考えだしたのです。この感覚は私を形作る根本になりました。当時はインターネットで調べるのではなく、辞典や事典を引くことが中心となります。漢字だから字典も引きます。外箱はもちろん、説明書や攻略本に至るまで気になる言葉を調べ続けました。

    先ほど定期テストの間違えた箇所について触れましたが、どうも紙情報に関する記憶力は悪くないようでしたので、その作業は血肉となっていきます。きっと場にそぐわない言葉づかいなどが問題になる生徒だったと思いますが、語彙力が伸びていきましたので「難しい言葉を知っている子」として受け容れられていきます。

    中1生も終わりに差し掛かった1月。ドラゴンクエストの最新作、『ドラゴンクエストⅣ(フォー)』が発売になります。それまでの3作と違い、発売日に手に入れ、寸暇(すんか)を惜しんでプレイしました。町の人たちと会話をしたら、その会話を寸分たがわず書きとめました。キャラクターのレベルが上がれば、やはりその数値を書きとめ、表にしたりグラフにしたりしました。

    当然学校の成績は下がっていきます。しかし授業が分からないということはありません。読めば分かる。読んでも分からないところは調べれば分かる。成功体験を積んでいますので、自分に自信が持てていました。

    キャラクターの数値をグラフ化する際には、中学内容の数学では式に表せないことに気づき、高校内容を調べるようになります。すると教科書内容を扱うだけの数学の授業が退屈になります。数値で問われた問題を全部文字に置き換えて、公式を作るのに夢中になったこともあります。


  • よく分からない方(かた)で、数学に興味がある方(かた)向けに例を出すと、2乗に比例する関数が作る放物線と異なる2点で交わる直線のy切片は、放物線の比例定数をa、2点の交点のx座標をそれぞれp、qとしたとき-apqで表される……といった具合です。これは別に複雑な思考も手順も要らないことですが、学習塾に就職したあと非常に役立ちました。

  • 理屈っぽくて原理原則を教えるのも好きだし、そこに理解が及ばない子にも単純化された公式で問題が解けるように接することができるのですから。調べて納得することと、単純化して一般化する力が養われていったのです。

    また、これは見かたによれば悪いことかもしれませんが、授業を抜け出すようにもなりました。悪い友だちと一緒に体育館裏やプールで遊ぶようになりました。読めば分かることを、わざわざ聞く意味が見出せなかったわけですから、プールサイドで教科書をひとりで読んでいるという真面目だか不真面目だか分からないサボりかたをしていました。ときには悪友がタバコを吸うこともありましたが、一緒になって喫煙することもありませんでした。今思うと、学びたいときに学べ、話したいときに話せる環境がほしかったのだと思います。

    当然のことながら、授業中ウロウロしていると、学校の先生に見つかることもあります。先生を見て逃げ出す悪友と違って、私は堂々と先生と話をします。「どこ行くんや?」と問われれば、行き先が決まっていれば答えるし、決まってなければ「さあ、どうしましょう?」と答えます。「トイレ」と答えれば許してくれる先生も多かった気がします。悪びれる様子のない私よりも、逃げ出した子達の対応の方が優先だったのでしょう。

    中3になると、そういう抜け出しやら、部活動での遊びやらもなくなりました。担任がA先生になったことと、部活動の顧問が変わり熱心なご指導をいただけるようになったことが原因です。家庭学習こそ不真面目でしたが、学校生活は真面目になりました。定期テストの成績は上がりませんでしたが、模擬試験の結果は地域トップ校を狙える位置をつねに保てていました。

    不器用で、よくガラスを割る子でしたが、強く注意も受けませんでした。乱暴者で、よく友だちを叩いたり蹴ったりしましたが、大きなトラブルにはなりませんでした。中3のとき、相撲をとって、相手の肋骨にヒビを入れましたが、親にも内緒にしたままでいます。どう考えても、クラスの鼻つまみ者ですが、分からない問題があれば教え、頼み事をすれば引き受けるものですから、居場所はありました。

    中3の夏休み前、剣道部員のひとりがバスケットボール部員全員を怒らせました。原因はここでは割愛しますが、明らかに剣道部員のその子が悪いと思われました。昼休み、仲の良いメンバーとドッジボールをしていたら、その子が大勢の男子生徒に負われてコートに入ってきました。彼は私の背に隠れて、「大内くん、助けて」と言ったのです。名指しで助けを求められれば断れません。20名ほどの男子生徒に私が囲まれることとなりました。実際に私を殴ったのはそのうちのひとりだけでしたので、袋叩きにあうといった事態まではいきませんでした。ただ、何となくですが、クラスでの立ち位置が変わったのは事実です。

    サボってばかりいた何を考えているのか分からない奴が、授業をちゃんと受け出し、部活にも精を出し、どうやら人情にも厚い。その上、真面目な子とも不真面目な子とも楽しそうに話ができる。面白い話ができるわけではないので、人気者とは違いますが一目置かれるようになってきました。

    何かひとつに取り組むと没頭する特性から、学ぶ姿勢のようなものが手に入りました。ひとつところでじっとできない特性も、その学びかたを持てたために、「授業が退屈」という優秀な言いわけで責められずにすみました。想像力の欠如から、何でも安請け合いするので、好かれはしないが、嫌われない。自己肯定感が育つ環境に身を置けていたのだと思います。

    加えて、『枕草子』に魅入られたのも私の人生において大きな意味を持ちました。中2の国語の教科書で扱われたのですが、そのときは興味を持てませんでした。近所に住む後輩のお母さんに頼まれて、その子の勉強を見ていたときに、なんて魅力的な文章だろうと感激したのです。「春はあけぼの。夏は夜。秋は夕暮れ。冬はつとめて。」暗唱が苦手なその子に、季節の頭をまずは覚えよう、と薦めたときに、四季を並べると五七調だということに気づいたのです。季節という1年を1日に重ねて語る文章の面白さにも気づきました。もっと読みたいと思い、本屋に買いに行きました。読めば読むほど、清少納言の世界に引き込まれ、言語化の楽しさを学びました。日記をつけ始め、その日の出来事や随想を書き綴りました。内省が得意になっていくので、自分を分かってもらうための話が得意になっていきます。大人になって1年ほど地方新聞の随筆投稿をしていました。4回入選しています。先の数学の公式同様、このころの姿勢はのちのち活かされることとなります。

    大学卒業後、多くの書籍を処分しましたが、『枕草子』は何種類も購入していました。訳をする人が変われば、見かたが微妙に変わるのです。高校の古典の先生が「『枕草子』って授業がやりにくいんやわ。読めば終わりで、それ以上に深められない」とおっしゃったのを聞いて、私からは二度とその先生と話さなくなりました。私にとって、この機微が分からない感受性の貧しい人とは相容れないという思いが強くありました。アスペルガーは人の気持ちが分からないと多くの書で目にしますが、私は『枕草子』を通じて、感受性を磨いていきました。人の気持ちは分かりませんが、どういうのを気まずいと言うのか、どういうのを可愛いと言うのか獲得していきました。類聚(るいじゅう)的章段と呼ばれる書きかた(春はあけぼのがいい、とか、きれいな毛抜きは見た目だけだとか)が具体例の羅列なのも性に合っていたのでしょう。

    かくして、先生・『ドラゴンクエスト』・『枕草子』などからサポートを受け、充実したまま中学生活を終えることとなりました。

    (個人ベーシック閲覧期間:2019年9月1日まで)

  • 【執筆者紹介】大内 雅登(おおうち まさと)
    香川県高松市の児童発達支援事業所で働く支援員です。自閉スペクトラム症の当事者でもあります。
    時には支援員のスタンスで、時には当事者のスタンスで皆様にメッセージをお届けしてまいります。趣味は剣道。大きな声が目印です。
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コメント欄

  1. じんべい じんべい

    驚きました。枕草子にはそうした機微が書いてあったのですね。
    体育館裏で教科書を読むところは、X JAPANのYOSHIKIさんが集会で英単語長をめくっていたエピソードを思い出しました。

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