【アンフェアを生きる】④ マイノリティと嘘
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北村 碩子(きたむら ひろこ)
人はなぜ嘘をつくのか。
とある発達障がいを抱える知り合いから、「私はよく嘘をついてしまう。それも息を吐くように自然に、何度も。私はあまり親に大事にされなかったので、その影響だろうか」と。しかし、私もその体験談を読むにつれ「分かる!」と共感する部分が多くなっていった。発達障がいというものは、外側から見えない障がいである。東大のロケットプロジェクト(発達障がいなどで、学校生活には馴染めないが、異才を発揮する子どもたちを集めて才能を伸ばすプロジェクト)に所属する脳性麻痺(まひ)の生徒は、こう言った。「僕は見たら明らかに障がい者と分かるから皆が親切にしてくれるけど、できることまでできないと思われてしまう。けど○くん(発達障がいの生徒)はその逆。どちらも辛いことには変わりない」と。まさにこれが、「何度も嘘をついてしまう」ことにつながっていると思う。
かく言う私も、子どものころは何度も嘘をついた。大半は、できないことをごまかしたり隠したりするための嘘だった。よくついた嘘は、話を聞いているという嘘だ。私は今でも、薬を飲んでいないと人の話が聴けない。自分の好きな話題を一対一で話すのはまあできるが、複数人で、自分の詳しくない分野の話をするとなると、いくら一生懸命聞いていても、一個覚えれば先ほど言った一言を忘れてしまい、「え、結局何が言いたいの?」となってしまう。また、抽象的なものごとや、話の流れから飛ばした主語の推測ができない特性も持ち合わせているために、とんちんかんな解釈をしてしまうことも多い。だから、周りが「えっ?」という反応をしたときに「しまった」となり、「あぁーそうだね、ちょっと言い間違えちゃった、私じゃなくて○ちゃんの解釈が合ってるね」という風に、それはそれは自然に勘違いを誤魔化し、話を逸らし、うまいこと何を話していたのかもう一度言ってもらう方向に進めてもらう能力が身につくのである。
毎日が脳トレと謎解き状態だ。面白そう、なんて思われる方もいらっしゃるかもしれないが、毎回毎回、毎日だとたまったものではない。嘘をつくこと自体も苦しいし、だんだんと「こいつは人の話が聞けていない」ということが露呈していくことも辛い。先ほども言ったとおり、この特性は見た目から分からない。だから、会う人会う人、初対面の人にまで、「私はこういう特性ですので話がうまく聞けなくて〜」などと言うのも躊躇(ためら)われる。よって、やっぱり「できているふり」の嘘はうまくなっていく…。
ちなみに、個人的に、この「嘘をつくのがうまくなる」のは、発達障がいに限らず、ほかのマイノリティに属する人、それも見た目で分からない人に共通するような気がする。たとえば、相貌失認症という病気がある。これは脳の特定分野が生まれつきうまく機能しないために、人の顔の区別がつかない病気である。重度になると、写真に写る自分の顔でさえも分からない場合があるそうだ。テレビ番組でその病気の人の生活をドキュメント風にまとめていた。幼いころから、母親の顔の区別すら付かず、それが当たり前だと思っていたある女性。思春期になり、自分は周りの人と違うことに気づくと、必死で顔の区別をつけようとする。だが当然できない。そこで、バレないように必死で、顔の区別が付いているかのように振る舞うための嘘を重ねていく。会社で同僚を呼ぶときには、その同僚の名前を遠くから呼び、皆が名前の人のほうを向いたのを確認して、その人に近づいていく。同じ人に何度も「はじめまして」と言ってしまったら、「あら、疲れてるのかしら、うっかりしてたわ」と誤魔化す。人との待ち合わせでは、相手より早めに着いて、探してもらう側になる。
ほかには、聴覚障がいの女性。音は聞き取れるが、はっきり声の音韻が聞き取れるほどではない。しかしその微妙な聞きづらさを、健聴者は理解してくれない。そこで、話に相槌(あいづち)をうたないと、「聞こえるくせに、何で頷(うなづ)かないの?」と言われる。だから、楽しそうなお喋り(おしゃべり)にひとり取り残されていても、泣く泣くまったく分からない会話の内容に相槌を打ち、聞こえているふりの嘘をつく。また、ある同性愛者の男性は、周りに同性愛であることがバレた瞬間からつまはじきにされることを恐れ、どんな女性が好きかなどの、「偽りの異性愛者の自分のプロフィール」を入念に作っているという。ほかにも、在日コリアンであることを隠すために、なぜ成人しても選挙に行かないのかの言いわけを考える人…数えていけばきりがない。そして彼らに共通しているのは、嘘をつき続け、自分を偽る(いつわる)ことに疲れ果てているということだ。
発達障がいと嘘は、ときどきセットで検索されたり語られたりする。たしかに、衝動性が強い場合、自分を正当化するために、深く考える前に咄嗟(とっさ)に嘘をついてしまうということもあるだろう。しかしその背景には、「定型社会に合わせなければ叱られる」という恐れが多大に影響しているのである。それを、発達障がいはじめとした多くのマイノリティに、「何で嘘をつくんだ」と責め立てるのはやはり理不尽だと思う。そう言って責める前に、嘘をつかざるをえない空気を作っていないか、マイノリティに属する人々が嘘をつかずにありのままで生活しても支障がないよう、さまざまな障がいを広く理解しておくことが必要ではないか。
【執筆者紹介】北村 碩子(きたむら ひろこ)
はじめまして。生まれも育ちもずっと香川です。去年の夏から、障害児通所施設の指導員として活躍させていただいております。性格はよく天然と言われます。発達障がいの当事者として、日々関わらせていただいている利用者様からたくさんのことを学んでいます。
趣味…読書、約束のネバーランド、物書き、犬など。ピアノ弾けますので、お子様のリクエストたまわれます。
(「北村 碩子」執筆記事一覧)
「嘘をつくことはいけないことだ」という言葉を、小さい頃よく親や先生から言われていたことを思い出しました。確かに嘘は相手を傷つけますし、本人もあまりいい気持ちがしません。しかし、つかざるを得ない嘘はありますし、それが相手のためならば悪いことではないと思います。ただ、本人が悪いわけではないのに「嘘をついた」という結果だけをみて非難してしまうというのは本当に本人にとってつらいことだと感じました。そのようなものの見方は嘘だけに限らず、ほかのことにも当てはまると思います。そして、私たちはそれを知らずにやってしまいがちです。ですので、なぜこの人はこのような行動をとったのか、なぜこんな結果になってしまったのかと自分の視点で判断する前に立ち止まって考えることが必要だと、この記事を通して学びました。