【わたしの療育】「つもり」と「なんで」(石田麻奈)
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(石田 麻奈)
私が高校生のころ、「受験勉強しろしろって親がうるさい。ほんましんどい。少し休んだだけやで。〇〇はそんなこと言われへんのんやろ。いいなー。」と何気なく友だちに言われたことがありました。
そのころの私の家は、何だかドタバタとしており心地よさは感じられませんでした。口うるさくは注意されませんが、受験を許してもらえるかも分からなくて、自分の時間をとることも少ない状況でした。隣の家の明かりがうらやましく感じることも多くありました。
そんなころだったため、勉強ができる環境があることやそれを応援してくれる環境があること、それに批判ができ不満を持てるなんて贅沢(ぜいたく)な環境じゃないか、ととらえてしまいました。そして、それを悔しいと思い、苛立ちを感じたことがあります。仲がよかったから、余計に…なのかもしれません。今では当時の状況も理解でき、家族や友だちに感謝しています。
いろんなことが分かっていなかった私ですが、そのときに、環境により同じように悔しさや悲しさを感じている人はきっとたくさんいると感じました。そして、私のような子どもや発言力が弱い立場にある人に耳を傾けたり、理解してくれる人がいたらなぁと思うと同時に、そんな大人になりたいなと思ったことがあります。それらのことが、福祉に興味を持った原因のひとつでもあります。
療育をさせてもらうことになってしばらくしたころ、年中の男の子の担当をさせてもらうことになりました。彼にはじめて会ったとき、部屋をぐるぐると走り回り、目に入った気になるものを次々に手にとっていました。私は彼の世界に存在しているのかもよく分かりませんでした。準備をしていた課題には、ひととおり目にしてくれるものの、興味がもてるものではなかったようでした。何とか一緒に遊ぼうと試みましたが、難しく、その日の支援は終わってしまいました。
何なら興味を持ってくれるだろう…と、本児と一緒の時間を過ごすことを目標に彼の好きな乗りものの課題を考えたり、風船の恐竜をつくってみたり、海の部屋をつくってみたりと、思いつくままにいろいろと試してみる日々が続きました。落ち込む日のほうが多かったのですが、彼が用意したものに興味を示し、取り組んでみようと挑んでくれる姿を見たときは、うれしさとなぜかほっとしたのを覚えています。そして、少しずつ一緒に取り組む時間を持ちはじめました。
そのころ、私はかごに支援具を入れて用意していたのですが、かごの中のものが目に入るとそれが気になり次々に手に取ってみたり、使ってみようとする行動が見られました。自分なりの使いかたをする場面も見られ、少し危険性を感じました。どうすればいいのだろうと悩み、考えました。そして、ショルダーバッグにひとつずつ課題を入れて外からは見えないようにし、支援の際にかばんをいくつも肩に下げスタートしました。課題に取り組むときにひとつずつ取り出していきます。かごのときは、先の課題が気になり、今より先、先となることが多かったのですが、かばんのときは、今取り組んでいる課題に安心して取り組んでもらえるようになっていきました。少しずつ、こちらが提示する課題に落ちついて取り組んでくれる時間が増えていきました。そうして、人にも興味を持ってくれるようになり、私の名前も覚えてくれました。その当時の私は、支援のたびに悩みながら、その子のことを考えて取り組んだつもりでした。
当時は「つもり」だと考えたこともなかったし、そう思ったら考え直していたと思います。しかし、今振り返ってみると、それは本児のことを考えた「つもり」であり、きちんと本児のことを考えていたのかと思うと疑問に思います。どちらかというと、自分の要求に寄せてもらい、私は本児を理解しようと働きかけたり、寄り添っていなかったのではないかと感じるところがあるからです。ほっとしたのも、そのようなところからの感情だったのかもしれません。
その少し前に、同僚と研修を行う機会がありました。事例検討を行っていく中で、「今はその段階ではないのではないか」や「その子はどうしてその行動をとったの?」と、よく「何で?」が話題にあがることがありました。私は、そのことにしっかりと答えることができず、何を知ろうとしているのだろう、その行動や理由から何が分かるのだろう、と変に深く考えてしまい、しばらくよく理解できずにいました。きっと、その同僚はその子の背景や行動の理由、原因にも目を向けることを伝えてくれ、その子の理解や特性の理解に繋(つな)げてくれようとしたのだと考えます。しかし、その当時は、「何で」が本児理解に繋がっていくことにすぐに気がつくことができませんでした。研修を重ねていく中で、ふと気がつきました。「あ、たとえばドラマで登場人物の気持ちが分かりやすいのは、「何で」が分かりやすく描かれているからかなのかな、と感じたからです。現実で、今、私は「何で」のヒントを見ようとも知ろうとしていなかったのに、本児のことを考えた気でいたんじゃないかと感じました。
それを考えたとき、私が昔抱いていた、誰かの声に耳を傾けたり、理解したいと思っていた姿とは反対の行動をとってしまっていることに気づきました。嫌な気持ちになるような言葉や行動はしたくない気持ちは持っていましたが、きっと、やりかたや方法ばかりに意識が向き、自分の意識していないところで本児の困り感を無視していました。
年中の男の子に対する支援を考えるとき、自分目線で考えることが多く、本児の目線で考えることは少なかったのです。それでも、彼は私に喜びや達成感を与えてくれました。また、理解をすることについて、考えさせてくれ、気づきを手伝ってくれました。
今、彼の支援を考えるなら、当時見逃していたかもしれないサインや、考えていなかった「何で」に目を向けると考えます。
今後もそれを大事に取り組んでいきたいと思います。また、保護者の方のことも知っていけるよう、努めていきます。
(個人ベーシック閲覧期間:2019年10月20日まで)
【執筆者紹介】石田 麻奈(いしだ まな)
香川の児童発達支援事業所で働く児童発達管理責任者です。
介護の現場で働いた後、ご縁があり、児童発達支援・放課後等デイサービスの世界に入りました。
支援員・児童発達支援管理者の経験から学んだこと、感じたことも書いていきたいと思っています。
相手の視点に立って考える、という言葉が学校の道徳の授業や大人が子どもに対して注意するときによく言われますが、それがどれほど難しいのかを感じました。子どもにそのように言う大人自身、できていない部分があるのかもしれません。相手のために考えるといっても、やはり自分の育ってきた環境や経験と照らし合わせて考えがちですし、なかなか相手をまるごと理解することは時間がかかります。もしかしたらわからずに終わることもあるかもしれません。
ですが、少しでも、前回よりは相手を理解しようとする努力は必要ですし、それが相手との関係を深めていくと思います。その相手を理解するときに「なんで」を突き詰めていくという発想を今回記事から教わり、なるほど!と思いました。そこでどうしても自分の経験だけではわからない部分も他の人に聞いたり、そのこと関わる中で発見することができます。これは療育だけでなく、家族、友人、学校、仕事仲間でもいえる内容だと思います。私も相手に関心を持って、その人への「なんで」を大切にしていきたいです。