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【お気楽と迷惑の間】① 私が振り返る当事者と周りの人たち【小学時代】

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  • 大内 雅登(おおうち まさと)

    アスペルガー症候群は、自閉症スペクトラム障がいという範囲にまとめられています。スペクトラムとは連続体という意味です。そもそもアスペルガーの行動特性に加えて、言語の発達などに障がいなどがある状態を自閉症と呼んでいましたが、イギリスの精神科医ウイング(Lorna Wing)が「境界が曖昧なので連続体にしましょう」と提唱したのです。つまり、アスペルガー障がいは現在では自閉症スペクトラムと呼ぶのが適当なのですが、ここでは一般的に通用するアスペルガーと呼び、その当事者としての体験を綴っていきたいと思います。まあ、アスペルガーだけではなくADHDの特性もしっかりもっている混合型ですし、どこからが特性で、どこまでが性格なのか、そしてその区分さえも必要かどうか分からない形で『私』が出来上がっていますから、単におっさんの思い出話になるのではないかとも心配しています。

    さて、保育所に預けられているときにたくさん周りの幼児や保育士に迷惑をかけてきたようです。「ようです」というのは「寝ている子の手を引っ張って脱臼させて、私は謝りに行ったんやで」といった母親の話を聞いても、そうだっけ?と思うだけで記憶がないんです。謝りに行った人がそう言うんだから、そうなんでしょう。こういうことは年齢が上がってもなくなりませんでした。小学校6年生のときに、1年生との交流でドッジボールをすることになりました。ボールをキャッチした私は、下級生にぶつけてはならないと思い外野へパスをします。したはずですし、外野のクラスメイトがキャッチしたはずです。私が運動音痴であったことを差し引いても、そのプレイに問題はなかったと思いますが、ゲームは中断され、クラスメイトの女の子に「小さい子相手にかわいそうやん!」と責められることとなりました。見れば、1年生がひとりしゃがんで泣いているんです。私が投げたボールに当たったそうですが、心当たりなどありません。とりあえず、1年生のために怒っているその姿を不思議な気持ちで見ていました。ここでいう「不思議」は当たっていないはずなのに、ではなく、自分に当たったわけでもないのに怒っている女の子自身に向けられた感情です。反省などしていません。私は外野へボールを投げたはずなので。

    そういった心当たりのないことが多い中でも、小学校時代にはいくつかの思い出が残っています。まず、入学式の翌日の下校時、私は迷子になりました。私の方向音痴は筋金入りで、今でも気を抜くと仕事先から家に帰るのを間違えます。間違えたな、と気づいても分かる道まで引き返すことはありません。きっとこの先で曲がれば復帰出来ると心から信じていて、結果、どうしようもなくなるのです。この年になれば、迷子はたいした問題ではありませんが、その当時の私にとっては大事件です。覚えている限りで、初めての迷子体験です。全然名前も知らない下校中の同級生に声をかけ、隣の子の家の場所を聞きました。

    「○○くんの家って知ってる?」

    迷子を隠した私の声かけ作戦は功を奏し、見事に情報を得られました。ところが、私の記憶の問題か、その子の記憶や伝達の問題か、やっぱり知らない道に出るんです。私は諦めて、これまた全然名前も知らない人の家の玄関を開けました。ここでは正直に迷子であることを伝え、学校に連絡をしてもらいました。別に学校に連絡をしてほしいとは言っていません。ぐじゅぐじゅに泣いている私を迷子と認識してくれた、その方の機転です。かくして、私の元には母親と担任の先生が駆けつける形で解決されました。母親たちを待っている間「人の家の玄関をいきなり開けちゃダメだよ」というようなアドバイスをその家の人に受けました。なるほど、そうだよなぁと感心したので、それ以降他人のドアをいきなり開けることはありませんでした。

    この駆けつけて来てくれた先生は、1年生のときだけではなく2年生のときも担任をしてくださいました。フルネームを覚えている、私にとっては珍しい存在の方ですが、私との相性は最悪だったように思います。この先生とのやり取りで、思いが通じた!というものは、これっぽっちもありません。そもそも私がズルい奴だったので、先生からの評価が悪いのは非常に納得出来るんです。私は、宿題をしていくのが面倒でよく隣の子のプリントを机から抜き出し、名前を変えて提出していました。哀れな隣の子は、毎回のように宿題忘れの烙印を押されます。そして、毎回のように机の中やランドセルの中を引っ掻き回すのですが、その度に「もうええよ。いつもそうやって探すフリをして」と怒られていました。その子にしては探して当然なのですが、先生には猿芝居に見えたのでしょう。そういうやり取りにも心を痛めることなく、私は平気な顔で座っていました。その悪事も暴かれる日が来ます。家族紹介をする宿題で、私は隣の子の家族写真が貼り付けてあるプリントの名前を書き直して提出します。さすがにバレました。今までのもそうしていたのか聞かれたので、「はい」と答えました。1年分まとめて怒られたような気がしますが、先生のまばたきを数えていたので、内容は覚えていません。写真をはがしておくべきだったとは反省した記憶があります。

    ある日、先生が前日に行った研究授業の話をしてくださったのです。『大きなかぶ』の授業で、他校の先生が作ったおじいさんやら、おばあさんのイラストを磁石で黒板につけて説明をしていたそうです。

    「……そのとき、おばあさんの絵が黒板から落ちちゃったのよ。そしたら教室にいたひとりの子が何て言ったと思う?」

    私は質問だと思いましたし、答えも簡単に浮かびました。

    「あ!ババアが死んだ!」
    「大内くん!そんなことを言っちゃいけません」

    即答に即答が重なります。

    「それじゃあ、昨日の子とおんなじです」

    私の「あ!」がいけなかったのか、今の話を聞いて私自身の感想としておばあさんの絵が落ちたことを死んだと表現したように受け止められたのです。きっと日ごろからこういう不謹慎なことを言う子だったのでしょう……というわけではありません。私の記憶と他人の記憶が違うのは日常茶飯事です。今の私の判断としては「『あ!』なんて間投詞をつけなきゃよかったなぁ」とか「『はい!』と手を上げて『ババアが死んだと言ったんだと思います』と丁寧に言えばよかったなぁ」とか、そういう落とし込み方をしますが、実際のところ私が滅茶苦茶口汚く罵った可能性もあります。犬のしつけは、悪いことをしたそのときに。そんな言葉を聞いたことがありますが、直後でさえこの有様ですから、基本的に他人の叱責は私にとってプラスに働きませんでした。その後、授業が進もうとも、担任が変わろうとも、私の学校生活は変わりません。たとえば算数の時間のことです。2×3と3×2は同じと聞いても、納得出来ませんでした。あんまりにも分からないと繰り返すので、黒板のところへ引っ張り出されて九九を暗唱させられました。

    「にさんが?」

    先生が問います。

    「6」

    九九は覚えてしまっていましたから簡単です。

    「さんにが?」
    「6」
    「一緒やろ?」

    先生は諭(さと)すように聞いてきます。

    「違います」

    かける数とかけられる数が変われば、積の単位が変わるじゃないかとなぜ言えなかったのか。

    また別の時間では、四角形を描けと言われて、(ブーメランを思い出していただけると分かりやすいかもしれません)「くの字」の図形を描いたら、

    「みんな、見て見て!大内くんがこんなの描きました。これは四角形とは?」

    先生が私が描いた図を高く掲げて聞くと、まるで練習でもしていたかのようにクラスメイトたちの声がそろいます。

    「言えませ~ん」

    くぼんだ角度の外角を負の数で表したときに、外角の和が360度になるので四角形だとなぜ言えなかったのか。

    お分かりいただけますか。私にとって叱責はきちんと根深く上の学年まで持ち越され、私の言い分が正しかったと証明するための反論を考え続けさせたのです。私にとって理不尽なことを言う人を「間違っている人」として認識することで心の安定をはかっていたのかもしれません。単に他責の人間で、何でもかんでも人が悪い、そう捉えるタイプだったとも言えます。

    3年生で『サーカスのライオン』という物語を習いました。サーカスで曲芸をする老獅子の「じんざ」が毎日のように会いにくる少年を火事場から救い出し、その命を落とす話です。苗字すらも思い出せない当時の担任の先生が「この物語でおもしろかったところはどこですか?」とおっしゃったのです。ライオンが命を落とすのです。どこにも「面白い」ところなんかありません。いや、ありました。私は勢いよく手を上げ、指名されたときに誇らしそうに「『じんざ』がしゃべるのが面白かったです」と発表しました。先生からは「動物がしゃべる絵本も読んだことがないのか」「こんな感動する話を読んで、そんなふざけ方をするのか」と、チャイムが鳴るまで叱責が続きました。耐えられなくなった私は顔を上げることも出来ず、うつむいて涙を流しました。途中から涙が床に落ちるのを利用して、字を書いてやろうと躍起になっていたので、先生の話は覚えていません。それでも悔しかったので、このことに対する反論は山のように胸に秘めています。

    6年生のとき、私はドラゴンクエストというテレビゲームに夢中になります。そのゲームの中で町の人から情報を得て先に進むことを学びました。ゲームが進むことで、友だちと会話が弾み、ゲームと現実でコミュニケーションの力が上がってきました。思い込みも多分にあるのでしょうが、30年ほど経った今でも、「その」ゲームをいまだに続けています。続編もやりましたが、基本的には「それ」がいいんです。このゲーム好きのせいで、余計なことをしてしまいました。放課後、ゲームに登場するモンスターの話で盛り上がり、すでに下校していた隣の子の机に修正ペンで絵を描いたのです。紙がないから、机に描いた。ペンでは見えにくいから修正ペンを使った。ただそれだけで、他にたくらみなどありません。しかし、翌朝登校したその子にとっては驚きです。だった自分の机に大きくモンスターが消せないもので描かれていたのですから。当然朝の会で担任の先生がこの事件を取り上げます。3年生のときとは担任が変わっています。その先生は、放課後残っていた全員を立たせ、ひとりひとりに質問を始めたのです。私は、自分の番が来るのを待たずに、そのやり取りを止め、「自分がやった」と名乗り出ました。先生は私に体育の時間ひとりで机の落書きを消すように指示し、それっきりこの件には触れませんでした。卒業間近、クラスのみんなの前で「名乗り出たことが嬉しかった」と評価されたことをしっかりと覚えています。1年生のときには悪いことをしたのを認めて怒られましたが、6年生のときには褒められたのです。この体験はその後の私を大きく支えました。

    アスペルガーの特性として細かいニュアンスが分からなかったり、話のポイントが違いすぎたりして先生方が苦労した小学生時代を取り上げました。分かってもらえないことに悲しみはあったのでしょうが、私としては6年生時の担任の先生の受け止めで学校嫌いにもなりませんでしたし、そもそもの説教に効果がなかったこともあって自由気ままに中学校生活を送ることとなります。

    それはまた機会がありましたら。

  • 【執筆者紹介】大内 雅登(おおうち まさと)
    香川県高松市の児童発達支援事業所で働く支援員です。自閉スペクトラム症の当事者でもあります。
    時には支援員のスタンスで、時には当事者のスタンスで皆様にメッセージをお届けしてまいります。趣味は剣道。大きな声が目印です。


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コメント欄

  1. まー まー

    悪いことをしたと名乗り出たときに、それを叱るのか、褒めるのかで受け手の気持ちが大きく異なることから、やはり周りの人・環境が人の成長や考え方に大きく影響するのを感じました。その人の持っているものを変えようとするのではなく、それとどのように関わっていくかかという考え方が6年生の担任の先生にはあったのだと思います。端から見ればクラスの問題児ですが、もう一方でユニークな考えをする子だとも言えます。私としては悪いとわかっていてやる子より、悪いとわからずにやってしまう子の方がまだかわいいように感じました。次回の記事、楽しみにしています。

    1. 515 大内雅登 515 大内雅登

      コメントありがとうございました!
      今思えば本当に優しい先生でした。文章にある通り、怒られ罰も受けましたが、全てを受け入れてくださったように思います。
      私の人生は多くの先生方との出会いで成り立っています。今後の文章にもお目通しくださいませ。

  2. 113 三重 四日市校 113 三重 四日市校

    不謹慎ながら、”面白い”というのが第一印象の記事でした。こうも、考えや思いが違うものなのかと。常々、人は違いがあって面白い、が私の信条ではありますが、自分が担任の先生だったら、クラスメイトだったら、どうするかなーと想像しながら場面を考えました。また、療育の担当のお子さんだったらどうするかな、とも。
    大人の考え、大人の事情、大人の身動きのとれなさ、を叱る形で伝えていては、大内少年の心を動かすことはできなかったと思います。6年生の時の先生は、「名乗り出た」行動そのものを褒めた。これが心に響いたのではと思います。
    成長と共に問題の質が変わっていきますが、読者の皆様と共に大内少年が青年になっていく様子を見届けたいと思います。

    1. 515 大内雅登 515 大内雅登

      コメントありがとうございました!
      クラスメイトならめちゃめちゃ迷惑だったと思いますよ。今後の文章のために話題を絞っていますが、こんなものじゃありませんから!笑
      今後とも笑ってやってくださいませ!

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