【お気楽と迷惑の間】④ 私が振り返る当事者と周りの人たち【大学時代前編】
この記事を読むには6分ほどのお時間がかかります
大内 雅登(おおうち まさと)
高校では理系クラスに在籍をしていましたが、教育学部の国語専攻へ進学しました。高3のあるときクラスメイトが国語の学習法について聞いてくれたのですが、何と答えればいいのか困った私は、国語科のあるベテランの先生に尋ねてみました。するとその先生は「国語は誰が教えても一緒なのよね。その子にセンスがないとダメだから」と答えたのです。そんなわけあるか~と思った私は数学の先生になりたかったにも関わらず、国語科に進路変更したのです。無計画のせいか純粋に学力不足か、ともあれ私は一浪の後、地方の国立大学へ進学をしました。
その大学の二次試験の小論文は「日本の文化は外国人に理解できるか」というテーマでした。理解できる、もしくはできないのどちらかの立場で論じろというのです。そんなの日本のどの文化なのかにも、相手がどんな外国人なのかにもよるに決まっています。小論が苦手ではなかった私にとって、論の展開はどちらの立場でも可能なのですが、なんだか設問に腹が立ってきました。これが最高学府である大学の出す問題なのか、と。
浪人させてもらっているくせに、落ちてもいいやという気持ちに支配された私はAくんとBさんと先生の三人の架空の対話形式で文章を組み立て、こんな二律背反は成り立たない。こんな議論に意味はないという結論で提出をしました。どこでどう間違えたのか六名枠の中に入り、合格をしてしまった私は「なんて程度の低い大学なんだろう」という思いを持ちながら学生生活をスタートさせます。
ひとり暮らしをはじめた初日、私はスーパーファミコンというゲーム機を買いました。時代はプレイステーションやセガサターンというゲーム機が市場を占拠していましたが、私がプレイをしたいのは小学校のときから「ドラゴンクエスト」だけなのです。そのリメイク版や新作が出される時代遅れのゲーム機を何よりも家に置きたかったのです。
初めて買ったゲームソフトは「ドラゴンクエストⅠ・Ⅱ」。とりあえず「ドラゴンクエストⅠ」を6時間ほどプレイし続けて、これ以上主人公が強くならない状態でクリアをし、それから就寝しました。
親が「ゲームは土日だけ」とか「お風呂入れ」とか「ご飯食べろ」と私の行動をマネジメントしていたわけです。突然その支えがなくなった私の行動は暴走をし始めます。
大学は休みがちになっていきます。だってゲームが忙しいですから。午前10時だったか、時代劇の再放送があるのもマズかったです。「大岡越前」で大岡裁きを見ては涙する日々を送りました。料理は苦手ではありませんが、めんどくさくて下宿の目の前にあるお好み焼き屋に通いました。近くにコンビニができてからはコンビニ弁当で朝食もすませるようになりました。さらに、授業を休むのですから時間をもてあまします。本屋へ通うようになり、毎日何かしらの本を買い、寝転がって弁当を食べながら読むようになりました。私の体が丸いのは、このころからです。
部屋はゴミであふれかえり、洗濯物は干しっぱなしとなります。ゴミの分別もできなくて、たまにゴミ出しをすると、大家さんからルール違反で注意を受けました。カーテンを開けるのが嫌で、毎日締め切った部屋で蛍光灯をつけてすごします。季節を問わず冷房をガンガンに利かせ、寒いと毛布にくるまりました。お金の使いかたも無計画で、ガス代や新聞代が払えず、居留守を多く使っていました。
ADHDは行動の障がいとも呼ばれます。子どもだと宿題が間に合わないという形で出ていた先延ばしが、出席や支払いなどの形で大学生の私に見られるようになりました。今日はいいや、と思うのがつねになり、教室の入り口まで来たのに回れ右をすることも増えました。家に帰ってドラゴンクエストまたは大岡越前、そしてごろ寝の食事。生活が一気に破綻しました。
小学時代に見られていた悪癖が一気に加速度的に開花したのです。
さて、私には誇るべきものがありました。剣道です。高校時代に熱心に取り組み、剣道を通じて多くのことを学びました。大学では入学式を終えたその足で入部をしました。手続きを終えたとき、ひとつ上の女子部員が「楽しく剣道やりましょうね」と声をかけてくれました。私は「楽しくやって勝てるのか」と心の中で毒づきました。
授業は休んでも、部活は休みません。入部してすぐの部内戦では優勝を果たしました。先輩が課題で苦しんでいるときには、求められていないのに課題に対して助言めいたことを行いました。そのうち、先輩方から課題を手伝うように声をかけられるようになり、文武両道、それぞれで天狗になったのです。
体育科の部員を差し置いてキャプテンになりました。回りくどく、分かりにくいミーティングに部員は疲れ、練習メニューの意図を汲むように強要されることに耐えかねた部員の中には辞めるものも出てきました。
ASDの特性である社会的コミュニケーションの障がいが災いし、大内主導の部なんて嫌だと蜂起をします。わずか1か月で私は号令をかけることを女子キャプテンに委ねることとなりました。
支援を受け続けておかなければ大変なことになる。今の私には容易に想像できることですが、そのときにはわけが分からないことが続けて起きたことになります。勉強がまあまあ得意で、熱心に剣道に打ち込んできた大内雅登は、授業に出られず、剣道部に受け入れてもらえない存在になったのです。
紙幅の関係で今回は、ここまでです。次回、どうやってこれらの問題を克服したのか…いや、克服させてもらったのか触れてみたいと思います。(個人ベーシック閲覧期間:2019年12月15日まで)
【執筆者紹介】大内 雅登(おおうち まさと)
香川県高松市の児童発達支援事業所で働く支援員です。自閉スペクトラム症の当事者でもあります。
時には支援員のスタンスで、時には当事者のスタンスで皆様にメッセージをお届けしてまいります。趣味は剣道。大きな声が目印です。
(「大内 雅登」執筆記事一覧)
密かに、連載を心待ちにしておりました。
なぜならば、高校時代までは、大内さんに自分が主体の困り感を感じなかったのです。
多くの発達障害の方々が、大学生ころからうまくいかなくなるのと同様に、大内さんも大学生から自分が主体の困り感や挫折に近いようなエピソードが現れたんですね。
自分で自分のスケジュールを組み立てられず、自由時間をどのように過ごすのかというプランが立てられない。
ご本人は立てているつもりなのですが、外側から見ると、非常にアンバランスでそれはうまくいかないよね・・・といったものが多いです。
高校までは半ば強制的に学校というものに行きますし、時間割も決まっていますので比較的うまくいくのだと感じています。
>勉強がまあまあ得意で、熱心に剣道に打ち込んできた大内雅登は、授業に出られず、剣道部に受け入れてもらえない存在になったのです。
ここが、ここが、こここそが、発達リスクのある方々のまさにリスクになりえる部分です。
どのような道を通られていらっしゃったのか・・・。
次回の連載を、また心待ちにする日々です。
コメントありがとうございます!
強制的に強いられてきた仕組みに矯正されていたのを知ったのがこの頃ですね。
まあ他責の傾向が強いので、自分を受け入れられない面々が未熟だと思っていたので傷ついたことはないのですが。
発達支援ではない支えを見つけた次回以降のエピソードにご期待くださいませ。
いや、順番を間違えていますね。まずはこんな駄文を心待ちにしてくださって、ありがとうございます。ご期待に添えるよう、しっかりと思い出してみますね。
主人公は同じ大内さんなのに、周りの環境によって受け入れられたり、受け入れられなくなったりするのですね。
当たり前と言えば当たり前のことなのですが、小学校時代、中学校時代、高校時代、そしてこの大学の時期と読み進めてきて、大内さんの、周囲の方々との関係がずいぶん変わるものだなと感じました。
すぐに次の記事を読みます!