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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2023.12.27

身体から生み出されることば:熊谷さんの講演と逆SST

いよいよ年も押し詰まってきました。
師走でいつもよりさらにお忙しくされている方も多いかと思います。

そんな暮れの25日に、NECネッツエスアイ㈱とシチロカの共催でクリスマス・ダイバーシティーセミナーが開かれ、
https://note.com/shichirocasd/n/nadb8e9c6d9d3

前半に熊谷晋一朗さんが講演をされ、後半は私たちが逆SSTの実演をやりました。
障がい者の就労支援に長く携わってこられたシチロカの廣田さんが逆SSTを体験されてから、多くの人に体験してほしいと考えられたところから話が始まり、NECネッツエスアイの社会貢献部署の方を巻き込んで廣田さんが大ファンだった熊谷さんにも声をかけて企画された、これからの就労支援を考える取り組みの一つです。

私も「リハビリの夜」を読んで以来の熊谷さんのファンで、國分功一郎さんとの共著「<責任>の生成」には論文「説明・解釈から調整・共生へ――対話的相互理解実践にむけた自閉症をめぐる現象学・当事者視点の理論的検討」の議論でも随分ヒントをいただきましたし、最近は先端研の研究プロジェクトにも声をかけていただいて協力させてもらったりしていて、zoomでも時々お話をしていたのですが、今回初めてじっくり生でお話を聞くことができました。

後でお話をしたら、講演の内容はもう繰り返しずっと話してきたことで何も見なくても話せるくらい、と笑って言われていましたが、その迫力は圧巻で、なにかひとことこちらでご紹介せずにはおれない気持ちになりました。(もちろん機会を見つけてぜひ直接お話を聞かれることを強くお勧めします)

その迫力はどこから来ているかというと、脳性麻痺の身体を持って、周囲から与えられる「訓練」や「支援」との軋轢の中で必死で新しい共生の在り方を求めて生きてこられた自らの体験をじっくりと言葉にされてきたことからと感じます。
言葉が宙に浮いていないんです。身体と、身体を通してつながる他者との関係から決して離れずにそのリアルな感覚から言葉が生み出されている。

会場には私が授業を持っている「みんなの大学校」の受講生の一人が来られていて、精神障がい者として、厳しい状況の中を頑張って生きてこられた方ですが、その方が熊谷さんの話でたくさんのキーワードをもらえたと喜んでました。自分がいままで考えようとしていたことを言葉にしてもらえたというわけです。

つい先日、熊谷さんや綾屋さんの議論を、「社会モデルの不十分な理解」に基づくもので、社会モデルと言いながら、身体にこだわり、そもそも身体が社会的に存在していることをとらえていない、といった批判の論考を読んだところなのですが、熊谷さんの話のどこを見たらそういう批判が成り立つのか、とても不思議でした。

熊谷さんの話は、繰り返しになりますが、自分の身体を通して、物理的環境や他者との関係の問題を突き詰め、そこに社会を見るわけです。まさに社会的なものとして身体の話をずっとされているのですから。

……と、抽象的に書いてもなかなかお伝え出来ないところで申し訳ないですが、具体的な話はちょっと書ききれないのですみません。
印象的だったお話のひとつだけを紹介します。

会場からの質問に応答する中で、ご自分の障がいの在り方を隠しようもないものとして語られていました。
車いすに乗られている状態ももちろんそうですし、最近も障がい者用のトイレがみつからずに月に一度はやはり失禁してしまうということも講演で言われていました。そういう自分の姿を隠しようもなく周囲にさらけ出していくほかはないわけです。そこからすべてが始まる。

そのことを言われたのは、発達障がいなど「見えない障がい」との対比でのことでした。発達障がいが周囲の人との関係でもたらす困難は、身体障がいと違って直接に視覚的に与えられるものではなく、コミュニケーションの積み重ねの中に現れてくるものです。

そうすると、発達障がい当事者としては、それを「隠す」という選択肢が生まれることになります。その特性を持っているということをカミングアウトするかどうかということは就労現場などでも非常にナイーブな問題としてよく出てくることで、そこで当事者はすごく悩まれるわけです。「隠せる」がゆえにむしろ自分が自分であることを人と共有できなくなる。

私たちは発達障がいの問題をディスコミュニケーションの問題のひとつとして捉えていますが、それは単に「相手と理解がずれて困難が生まれる」ということにとどまらず、ズレた理解の中で何とか生きなければならない状況に置かれることで「自分をどう見せるか」、言い換えると他者の視線の中で自己をどう位置付けるべきなのかという、異なる質の葛藤がそこに生じるといえます。

大内雅登さんはそのあたりに関して自閉的な生き方の中で作られる「自己物語」が重要な意味を持つのだということを言われます。

この章の最後にご紹介するのは「自己物語の確立」です。私は常々、この自己物語を、定型発達の人たちから見ると独特な自己物語を確立するところに自閉的な人たちの共通項があるように感じています。(「自閉症を語りなおす」p.61)

 最近私たちが議論していることの一つは、そういう自己物語を支える「規範」の在り方が異質な感覚に取り囲まれて生きざるを得ない自閉の人にとっては定型のそれと違いを持たざるを得ないということでもあります。

この問題は実は冤罪やあるいは犯罪の理解という問題にも深くかかわることになり、実践的にも極めて重要ですので、どのようにそのような「定型とズレた規範」が形成されていくのかという問題を形成論的に考える作業を始めようとしているところです。

先日も大内さんが自閉の子と語り合っている場面と、お母さんが子どもと話している場面を写した動画を大内さんを含めて筑波や早稲田の研究者の皆さんと比較しながら議論しましたが、そのコミュニケーションの構造の違いはかなり明確でした。大内さんがどうして自閉の子とうまくコミュニケートできるのか、その秘密の一端がこれから明らかになるように思えます。

 

関連して、熊谷さんが、自らの身体の在り方、その身体の他者への「さらされ方」を深く考えるとき、それとの対比で見えてくる「見えない障がい」の「身体」の在り方が抱える困難という問題にも光が当たるようになると思います。

今年の日本教育心理学会のシンポで熊谷さんにお話しいただいた時にはどちらかというと当事者研究が持つ、研究上の位置づけといった俯瞰した面にお話の焦点があてられていましたが、今回のお話を聞いて、熊谷さんの身体に深く根差した話こそをあのシンポでうまく議論できたらもっと素晴らしかったと私の企画の不十分さを強く思いました。

もうひとつの企画の逆SSTも、会場で体験して「目からうろこで、衝撃を受けた」という自治体の福祉関係者の方もいらしたとのことで、私たちの切り開こうとしている地平が着実に広がり始めたことを感じます。

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