2025.01.16
「マイルール」と「自己物語」②期待(普通)がずれる
①では,人はいろいろ約束事,ルールを作ったり,常識を身に着けたりしてコミュニケーションをしながら生きている,という話をしました。そしてそれは幼児のころから「大人に仲介してもらって他の子とやりとりする仕方を身に着けていく」形で育っていき,それがEMSという形になっていくと考えられるわけです。
そうすると,そのルールとか「常識」が「身につかない」障がい児は,「EMS」がうまく育たないのだという考え方が出てきます。そしてEMSという言葉は使わなくても,このような障がい理解がこれまでは主流だったと言えます。(下の図は①で「規範的媒介項」とか「普通」と表示したところを「期待」で表現しています。「規範」も「普通」も他の人から期待されるものだからです。ルールと言ってもかまいません)
けれどもこの考え方だと「正しいやりかたは一つで,それは定型発達者が作るEMS」なんだ,という理解になっていきます。だから障がい児を定型のEMSに合わせさせるような訓練をするのが「支援」なんだという考え方です。でもそういう理解が今世界中で大きく変わりつつあるのですね。
たとえばTEACCH(ティーチ)という自閉スペクトラム症の子どもや大人への支援の仕方があります。これはノースカロライナ大学の医学部で研究・開発されてきて,自閉のお子さんへの支援の仕方として有名になったものですが,「構造化」というやり方もここから生まれたものになります。
その基本的な発想は,自閉の人はうまれながらに自然と定型発達者とは違うものの見方や感じ方などをするので,それに合わせて自閉の人に理解しやすいような,また活動しやすいような環境を作っていこう,ということです。障がい者が社会に一方的に合わせさせられるのではなくて,社会も障がい者に合わせてつくりかえられていかなければならないと考えるわけです。
たとえば今では視覚障がい者のために道路や駅のホームなどに黄色い点字誘導ブロックを設置するのは当たり前のようになってきました。「見えない」ので,「足の裏でわかる」「杖でわかる」という触覚を使って歩きやすくしているわけですね。TEACCHの「構造化」も同じことです。
去年から合理的配慮が全ての事業所や団体に義務化されましたが,この考え方も「障がい者が社会に合わせる」という一方的な関係ではなく,社会もちゃんと障がい者に合わせた仕組みを作らなければならないという考え方です。
こういう流れは今では世界的にだんだんと主流になり始めてきているわけですが,そこに共通しているのは「障がい者は健常者・定型発達者とは違う世界(感じ方や考え方などの特性)を持っていて,それを否定せずにそれを足場に支援を考えなければならない」という考え方になります。
お互いに違う世界をもって生きているわけで(たとえば視覚障がい者なら「視覚」ではなく,他の感覚がすごく発達して世の中を生きています。生まれながら腕のない人は足を使って家事ができたり。),そういう「違う生き方」を認め合って生きていきましょうということになるわけですから,それは「多様性」を前提にした「共生」の模索ということになります。
ただ,身体障がいの場合,その違いは「目に見える」ことが多いですし,知的障がいでも,重たい場合には少しやりとりしてみれば違いにはすぐに気づけます。それに比べると自閉についてはなかなか気づきにくいところが大きいのですが,それでも最近は当事者の方からいろいろ説明されることも増えてきたりして,「感覚」や「利用する情報」などについてはかなり違いが研究されてきたりもしています。TEACCHもそういう知見を利用したりするわけですね。
でもその先にもうひとつ本当は大変に重要な違いがあると私たちは考えるのですが,ここについての理解はまだ本当に「これから」明らかにし,また社会の中で共有されて行かなければならないことだと思っています。そしてそれが「ルール」の身につけ方についての違いなのです。
それが「ルールが理解できない(身につかない)」という考え方ではなく,「ルールについての考え方や目の付け所」がお互いにズレているんだという見方です。だからお互いに相手の振る舞いが理解しにくくて,コミュニケーションに混乱が起こります。この視点から自閉系の人と定型系の人の葛藤状態をEMSの図で表すとこんな風になります。
つまり,自閉的な人は,「ルール」というものがわからないのではなくて,何がどうしてルールになるのか,そのルールの意味は何なのか,それをどう使ったらいいのか,ということについて,定型の人と「違う見方をしている」というふうに考えられるのだということです。EMSの言葉で言えば,お互いがコミュニケーションの中で共有しようとしている規範的媒介項がズレてしまっていて,しかもそれにどちらも気づいていない状態ということになります。
たとえて言ってみれば一人はサッカーのルールでゲームをしようとしていて,相手はラグビーのルールでゲームをしようとしているようなものです。それでうまくゲーム(コミュニケーション)が成立するはずがありません。
ちょうど今,そういう視点から自閉=定型間に生じる葛藤について理解するための論文をある学術誌に投稿中で,正式に審査を通ったらまたご紹介したいと思っていますが,「マイルール」とか「ルールを勝手に自分が勝てるように変えてしまう」といったことは,この視点から見ると,単純に「ルールが理解できない」とか「自分勝手だ」「自己コントロールができないわがままさだ」といった理解とは違う世界が見えてくることになります。
次回はそれを「自己物語」という概念を使って説明してみたいと思います。
- 「マイルール」と「自己物語」⑥理解できない世界を,模索しながら生きる
- 「マイルール」と「自己物語」⑤主観的な物語が自己肯定感を生むこと
- 「マイルール」と「自己物語」④対話モデルでお互いの物語をつなぐ
- 「マイルール」と「自己物語」③子どもの視点から事態を理解しなおす
- 「マイルール」と「自己物語」②期待(普通)がずれる
- 「マイルール」と「自己物語」①ルールを身に着けるということ
- 間違いではなく,視点が違うだけ
- 今年が皆さんにとって良い年でありますように
- 母子分離と不安 ③
- 母子分離と依存 ②
- 母子分離と依存 ①
- 支援者こそが障がい者との対話に学ぶ
- 「笑顔が出てくること」がなぜ支援で大事なのか?
- ディスコミュニケーション論と逆SSTで変わる自閉理解
- 冤罪と当事者視点とディスコミュニケーション
- 当事者視点からの理解の波:質的心理学会
- 自閉的生き方と「ことば」2
- 自閉的生き方と「ことば」1
- 自分を「客観的に見られない」理由
- 「なんでこんなことで切れるの?」
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