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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2021.12.17

「自分も相手も同じ人間」という理解が生まれるとき

客員研究員をしてくださっている麻生武さんが,ミネルヴァ書房から「兄と弟の3歳:仲間の世界へ」を出版されました。

麻生さんは自分のお二人のお子さんについて,見たものはすべて記録しておこうというくらいの勢いで驚くほどたくさんの日誌記録を奥さんと一緒に書き続け,その記録を元に子どもの発達を分析し続けてこられています。

最初の本格的な分析は0歳から1歳までのもので,こちらは新曜社から「身振りからことばへ-赤ちゃんに見るわたしたちの起源」という名著として出されています。

この本が出たときは私は奈良女子大学で同じ心理学教室に勤めていたのですが,みんなで書評の研究会をやりました。その時出席した人の中には,やはり客員研究員をしてくださっている浜田寿美男さんや,子どもがやりとりのなかで間主観的な発達をしていく過程を追求していた鯨岡峻さんといった超豪華メンバーが出席されたのですが,終了後の飲み会の場で,順番にだったか感想を言い合ったときに,私はこんな話をしたことを覚えています。

その本で描かれたU君(麻生さんの長男)についてのほんとに丁寧な事例を読み進めるうちに,ふとU君が私(山本)を見つめているような,そんな錯覚が生じた,という話です。記録された事例を通して,U君というひとりの赤ちゃんが,リアルにこの私に向き合っている「人」として浮かび上がってきた。とても不思議な体験でもありましたし,麻生さんのその記述の力にも驚きもしました。

その後,2歳のU君たちについては,先に少しご紹介したように,「〈私〉の誕生 生後2年目の奇跡Ⅰ:自分を指差す,自分の名を言う」「〈私〉の誕生 生後2年目の奇跡II:社会に踏み出すペルソナとしての自己」という二巻本として東大出版会から出されています。そして今回の3歳児の本と言う事になります。

私はその時期の子どもは保育園である程度観察を行いましたが,保育園での場合は1歳代でいろいろでき始めてほかの子どもたちと激しくぶつかり合うようになった子どもたちが,やがて保育士さんたちがその葛藤を仲介する姿を取り入れて,2歳代で自分たちでお互いの葛藤を調整するようになる。そんな過程が見えてきました。

その中で友達同士で遊ぶ集団的な遊びが活発化する中で,「私たち」という概念が子どもの中に育っていきます。そして3歳になるころには「私たち」と「あの子たち」の葛藤がはっきりとしてきて,その調整も課題になる。麻生さんが今回分析されているのはそんな3歳の時期に入ったU君たちの姿です。(ただし園に通っているのではなく,家庭での観察が中心です)

 

さて,1歳代から2歳代にかけて,友達同士の葛藤をなんとか調整しながら一緒に遊び始める子どもたちですが,U君の場合は園の子どもたちに比べると同年代の子どもたちと一緒に遊ぶ機会は少なく,お父さん(麻生さん)お母さんと遊ぶ時間が多かったようです。

そうやって大人にサポートされながら人とのやりとりの仕方を学んできたU君に,3歳になって危機が訪れます。弟のY君が生まれて家族に加わったというできごとです。それまで自分が独占できたお父さんやお母さんがY君に奪われる。もちろんすべてではないのですが,ある意味それまで「王様」の位置にいられた自分の地位が奪われるのですから,U君にとっては驚天動地の大変動(笑)。

なんとか自分の地位を守ろうと,お父さんお母さんの気を引こうと必死になったり,Y君に関わることをけん制したり,時々はY君自身に意地悪したりもします。とにかくこの危機をどう乗り越えたらいいのか,U君にとっては人生初と言っていいほどの危機を体験してもがくのです。

ひとつにはU君はなんとかお父さんやお母さんと駆け引きをして,自分の地位を守ろうとします。こういうさまざまな駆け引きは「敵対する他の子」との葛藤がシビアになる園で観察をしていると2歳代でだんだん出始めるものですが,U君はその力をここで急速に発達させているようです。そういう「取引の力」を身に着けるという課題があります。

そしてもう一つ,今の自分のその危うい新しい状態を,なんとか自分自身で理解して納得しようと努力を始めます。その姿の一つをご紹介してみましょう。

U君が3歳2か月19日の時に記録された事例です(P.50-)。お昼時,弟のY君がお腹を空かせて泣き始めると,お父さんが膝の上に座らせてあげ,そうするとY君はすぐに泣き止みます。その時U君がこんなことを言うのです。「Uちゃん,ちっちゃいときこうやって座ってたの?」

この言葉はU君の発明というわけではなく,多分麻生さんたちがU君を納得させようと,U君が小さい時には今のY君と同じように,お父さんたちが世話をしてあげていたんだよ,ということを繰り返して伝えられていたのでしょう。だからY君にも同じことをしてあげないといけないんだよ,と納得してもらおうとしていることになります。そのおとうさんたちの言葉を自分で繰り返すことで,U君は自分なりにこれはどういうことなのかを理解しようとしているのでしょう。

その3日後のことです。Y君をお母さんが抱っこするところを見て,U君は自分も抱っこしてほしいとせがみます。それでお母さんがY君を下に下して代わりにU君を少し抱っこしてあげてからまた下すと,U君はもっと抱っこしてとせがみ続け,お母さんに拒否されるのですが,そこでこんなことを言うんです。

「Y君と同じくらい抱っこしてー,もっと長いことしていたじゃないの」

麻生さんは「Uが,自分と弟とを平等に扱えと訴えたのはこれが初めてのことです」と書きます。

これはすごいことだなあと思いました。どういうことかというと,これ以前はU君にとってY君はお父さんお母さんを奪う敵であり,排除の対象として見られていました。一方で可愛がってあげなければならない対象としての理解もあり,たとえばこの一ヶ月くらい前には,Y君が泣いている時,お母さんに抱っこしてあげてと求めたりする姿も見られています。

つまり,Y君は敵であるか(この場合は自分が相手に勝る=上位に立ってY君を排除する必要があります),味方として世話の対象であるか(この場合は配慮を「与える」という形でやはり上位の立ち位置にあろうとしています),といった「上下関係でのやりとり」の形になっています。それがここでそのどちらでもない,「自分と同じ対等な人間」として見ようとし始めていると考えられるからです。

そういう「同じ人間」として「同じ権利を持つ」ものとしてお母さんに「抱っこ」を要求する。お母さんの力の下で,Y君と上下の関係ではなく,横の関係をそこで作ろうとするのですね。そうやって自分を納得させようとする。

そしてその少し前,お父さんとお風呂に入っている時,U君はこんなことを尋ねています。「お父さんはいつもUちゃんのことかわいがってくれてるの?」そしてお風呂上がりの体を拭きとるお母さんには「お母さんは,いつもいつも,Uちゃんを育ててるの?」と尋ねています。このお母さんの言葉もお母さんがUちゃんに時々言い聞かせていることだったようです。

今Y君のことをかわいがり,育ててあげているように,お父さんもお母さんも自分のことをかわいがり,育ててくれている。そのことを麻生さんたちに言葉で確かめて,それで「U君もY君も同じなんだ」ということを納得しようとしているのだと思えます。

この展開は私にはちょっと感動的なものがありました。U君がY君を受け入れることができたのは,お父さんお母さんがY君と同じように自分を受け入れてくれていること,自分が愛されていることを繰り返し確かめることによってだったからです。人から大事にされたとき,人は人を大事にすることができる。そんな人間の心の動きがこんなエピソードにも現れているような気がします。

 

人間ととても近いチンパンジーなどの大型類人猿を見ても,群れの中の関係では順位制といった縦の関係が重要になっていて,ボノボでようやくそれが崩れ始めて,狩猟採集民の平等的な関係を基調にしたつながりに展開していくと考えられるのですが,お互いの葛藤の調整に「縦の上下関係」ではなく,「横の平等な関係」を成り立たせるのはとても難しいことのようです。特に自分にとって大事な何かの資源(食物でもいいですし,親からの愛情でもいいですが)の奪い合いが絡んでくる場合にはそこがシビアになります。

ところがそこを乗り越えて,「相手も私と同じような人間で,私と同じように相手も権利を持っている」という理解をするようになるのが人間の心理的な仕組みの決定的に重要な部分で,仲間意識とか,協働的な関係,交換という行動,議論,といった人間的な社会的力は,そういう「対等な関係」,お互いを認め合う関係を抜きには決して成り立ちません。

そのとても人間的な関係の取り方を,お父さんやお母さんに支えられながら,この時U君が必死で模索し始めている。すごいなあと思います。

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