発達支援交流サイト はつけんラボ

                 お問合せ   会員登録

はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

    ブログ総目次(リンク)はこちらからご覧いただけます。

2022.07.28

自閉的発想と定型的発想をつなぐ:言語学からのヒント

当事者視点を大事に,というのが研究所が追及するスタンスですが,そのためには当然当事者自身の見方,感じ方に接近する必要があります。でも特に自閉系の方たちの場合,定型とはあまりに大きく異なる感じ方や表現をされることが多く,いったいどうやったら理解できるのか,そもそも理解は可能なのかということが大きな壁になります。

実際,私にはそれが本当にむつかしく,なぞと思えた自閉系の方の振る舞いをなんとか理解できた気になるまで数年かかることがあります。私の場合「理解できた気になる」という基準は,私なりの理解を言葉にして,それで当事者の人に尋ねてみて,「そうだ」と言ってもらえた場合で,これは当事者の視点の外部から「こういう特徴がある」と判断し,非当事者間で合意する手法とは根本的に異なる手法です。あくまで当事者の視点から見て納得できないと「理解」とは呼ばないからです。

このあたりの理解の方法に関する考え方は,対話的異文化理解の研究の中で整理してきたものです。さらにそれは理論的にはずっとやってきたコミュニケーションの基礎構造に関する発達心理学的な研究から導き出してきたEMS(拡張された媒介構造)という概念をベースに組み立てられています(新曜社刊「文化とは何か,どこにあるのか:対立と共生をめぐる心理学」第Ⅱ部で少しわかり易く説明しています)。

どのようにしてそういう理解に進むのかについては,どうも次のようなステップを踏むようです。

まず最初は全く意味が分からない。というか,しばしば非常に腹立たしい思いを引き起こされたりします。「なんでそんな言い方をするのか」「なんでそんな態度を示すのか」といった感覚が自動的に起こってしまいます。自閉的な子どもがよく言葉遣いが相手の気持ちを考えていないなどと怒られ,修正されたりしていますが,ああいう感じです。

そういう振る舞いが繰り返されると,相手が故意にこちらを非難したり攻撃したりしているのではないかと思い,自分が相手に対して何かものすごく悪いことをしたのかと考えてみるのですが,どうにも思いつかなくて悩むことが起こります。

その次に起こるのは,こちらが非難や攻撃と受け止めてしまうその振る舞いについて,どうしてそうなのかを尋ねても,相手の人が全くその意図はないと逆に驚かれるようなことが繰り返されることです。そうするとまたこちらが混乱します。少なくとも自分の持っている「常識的」な感覚からすれば,それは激しい非難や攻撃以外には解釈のしようがないものに感じられるからです。

相手が本当は非難や攻撃の気持ちを持っているのに,それをごまかしているのか,それとも本当にその人の言う通りなのか,ここがわからずにある種「疑いつつ考える」状態が長く続いた後,よく分からないままだけれども,どうも本当に相手の人はそう感じているのだ,と考えざるを得なくなる時期が来ます。

それを認めざるを得ない状況になってきた後,じゃあそれはどういうことなんだろうか,とその人の考え方を模索する時期が続きます。場合によっては改めてその人たちに説明してもらったりもします。

その内,なんとなくその人たちの説明が頭に残り始め「こうこうこうだからこうなる」みたいな,スカスカの形ばかりの「理解」ができるようになりますが,それはあくまで「頭の理解」で,感覚的,感情的にはぜんぜんぴんと来ないといった時期がまた長く続きます。「数学の公式を丸暗記するけど意味がぜんぜんわかっていない」といった,あの感じです。

その次のステップでは,自分の体験で似たようなことが起こることがないか,ということを探っていくことで,「ああ,もしかしてああいうときのあの感じなんだろうか」と思いつくことが出てきて,ちょっとわかり始めた気持ちになります。その時の「ああいうとき」というのは具体的な場面としてはかなり違うのですが,抽象化して考えると一緒かもしれないと思ったりするわけです。

そうやって想像を膨らませて(というか深めて)いって,だんだんと「もしそうならそうふるまうのも無理はないかな」くらいに思えるようになります。このレベルに来ると,当事者の方に「こういうことでしょうか」と尋ねたときに「そうです」と同意してもらえることが多くなる気がします。場合によってはちょっと驚かれ,「山本さんもアスペルガーですか?」と聞かれることもありました。多分普段は定型には理解されないと感じられているのでしょう。

ただ,この段階になっても,もし自分がそういう状態になったらおなじように振る舞うか,と言われると,やはりそうはなりません。ある程度気持ちの上でも納得し始めても,体はそこには着いていかないのです。これは乗り越えられない差としてそのままずっと続くような気がします。

 

以上は私の個人的な体験からの理解ですが,ただ,このような展開は単に個人的な体験のレベルを超えた一般性を持っている可能性を感じます。それはなぜかというと,異文化理解でもやはり同じようなステップを踏むと思えるからです。

 

さて,いつもながら前置きの説明が長くなりましたが,タイトルに書いた部分はこの先になります。この話が最近興味をもって(Youtubeで)見ている言語学の研究の話につながって思えたという話です。もしそうなら,言語学で用いられている方法を参考にしながら,定型が自閉系を,自閉系が定型を理解し,両者をつないで「人間のコミュニケーションの異なるパターンの共通の基礎」を見出されるかもしれないと考え始めています。

わたしは言語学をちゃんと学んだことはないので,Youtube動画で語られていることのレベルでの話ですが,このところyoutube動画も「素人的ないい加減な議論」とは程遠い,本格的な優れた議論がたくさん見られるようになってきていると感じます。しかも旧来の「専門家」以外の層からそういう非常に深く鋭い議論がたくさん出てきているように感じられるのです。

その一つが比較的若い精神科医の方が展開している日本語の起源に関する最新の研究を踏まえた大変刺激的な議論です。minerva scientiaという名前でチャンネルを持っている方ですが,ちょっと天才的という感じがする方で,若くして古今東西のかなり多くの言語を学び,分析し,そこから次々に新しい見方を呈示されていて,そのお話を聞く限りは(批判されている議論についての原典は当たっていないので,あくまでその範囲ですが),旧来の見方の多くが完全に色あせて見えてきます。

具体的にはご興味があればチャンネルを尋ねていただくこととして,ひとつだけ,「日本語の南方起源説と日韓語族説どちらが正しそうか?という問題」について,彼の議論のポイントを説明した動画「ずんだもんと学ぶタイ語と日本語の起源」をご紹介しておきます。

そこではタイ語の形成過程を論じて,それと日本語の形成に関する欧米の最近の研究を参照しながら,日本語との関係,そして中国古典に描かれた倭,古事記・日本書紀に描かれた伝説などをつないでいきます。そうするとしばしば「孤立語」(出自がわからない独自の言語)として考えられてきた日本語のおおもとになる言語(日琉語族およびそのおおもとと考えられる日韓語族)が,おそらくオーストロネシア語族との関係で形成されたタイ語の祖語と中国南部辺りで接触し,その語彙を取り込みながら変化し,それが北上してやがて朝鮮半島を経て日本に流入し,アイヌ語の祖語などを上書きする(もともと話されていた言語を置き換える形で流通することのようです。たとえば現在は日琉語族に属する琉球語や八丈語などは日本語に上書きされてきています)形で変化しつつ日本列島に広がっていったという話になります。

 

 

 

 

日本語の起源についての話も面白いのですが,そもそも文字もない時代の言語がどういうもので,どのあたりにそれがあったのかということがどうしてわかるのか,ちょっと不思議ですよね。でも適当に言っているのではなく,さまざまな言語を比較することの積み重ねの中でそれが見えてくるようです。

たとえば現代の共通日本語は明治維新後に作られたものですが,今も各地に「方言」と言われるものが生きています。たとえば私は青森の生まれで乳児期はそこで過ごしましたし,親戚の家にもその後もしばしば行きましたから,津軽弁は耳なじみがあります。ある程度はわかりますし,真似事のような津軽弁も少しは話せますが,本格的なものは全く理解できません。外国語を聞いているようなものです。

この「方言」については昔は「近畿地方で話されていた標準語が田舎の方に行って変化したもの」といった,柳田国夫以来の方言周圏論が根強く信じられてきましたが,現代の言語学ではこれはもうオワコンで,むしろあるおおもとになる「祖語」から多様な日本語が各地で派生していったのだと考えられるようになってきているようです。そうすると,まず孤立語と考えられていた日本語は実は「いろんな親戚関係にある言語のグループだ」という理解になります。このグループを「語族」と言います。今は日本語と琉球語を合わせて「日琉語族」と呼ばれるようになってきているようで,これはアイヌ語とは別系統になります。

どうやってそういう言語間の関係を決めていくのかと言うと,その方法はもともとヨーロッパの言語を分析する中で作られてきたものでした。その一つをあげると,そこでは二つの言語のほぼ同一の意味を持つ単語を比較し,両者の形(発音)にどういう違いがあるか,その違い方の法則性のようなものを見つけていきます。そこに法則性が見られれば,同一の祖先の言葉からある法則に従って枝分かれするようにそれぞれの発音の仕方が作られていったのだと考えられることになり,そこで「共通の祖先の言葉」が再現されることになります。

現在ヨーロッパの様々な言葉のかなりの部分はヨーロッパからインドまでを含む「印欧語族」という親戚関係にあって,それが共通の祖先となる言語(祖語)を持っていると考えられているわけですが,上のような分析の方法の地道な積み重ねでそれが分かってきたようです。すごい話だと思います。

 

さて,この話を上に書いた私が自閉的な人の考え方を理解するプロセスにあてはめて考えていきましょう。つまり「ある共通の何か」があって,それがやがて何かの理由で法則性をもって変化して,それぞれが別々の言語になる。そうやって異なる言語として安定して発展した後は,もともと同じ祖先をもつ言語同士でも,会話が通じなくなる,という話です。言語学はその変化のルートを逆にたどることで「祖語」にたどり着くわけです。

そうすると同じ事を私は自閉系の人の視点を理解するうえでやっていることになります。表面的にはまったく異なり,理解不能に思える二つのコミュニケーションスタイル(仮に定型語と自閉語と呼んでおきましょう)ですが,突き詰めていくと実はその全く異なる形の共通の基盤,おおもとの形が見えてきて,そのおおもとの形に戻って私が自閉系の人に「こういうことですか」と聞くと,そこでは納得されるということです。

つまりそこで私は定型語と自閉語の「祖語」の一部にたどり着いたと考えることができます。まだ個別の単語のレベルでの分析にすぎませんが。

ということは,そういう分析を続けていくことで,表面的には違うけれども,その基盤に「人間として」共有されているコミュニケーションの基本の形が見えてくる可能性があります。そしてそこを足場にすれば,お互いに理解できる範囲が少しずつ広がっていくと期待できるわけです。

 

今,みんなの大学校で担当している「障がい者支援論」という授業では,精神障がいや発達障がいの特性を持つ,支援の対象となっている当事者の方と,障がい者の就労支援をやっている方の双方が参加してくれて,地道に対話を積み重ねていますが,そこで両者の話を聞いていても,だんだんとその両者に共通する基盤が見えてくる感じがあります。ほんとに部分的ではありますが。

言語学のそういう分析との違いは,上のような形での言語学的分析は「形」の類似と変化を見ているのに対し,私が模索しているのは「意味」部分になります。「この行動の意味は○○だよね」と解釈される,その○○の部分です。その○○の解釈の仕方を深めていくことで,一見「○○」と「××」と全く対立する解釈に見えていたものが,両者の基盤になる「△△」という解釈にたどり着けることがある,という話です。同様の過程が対話的異文化理解実践でも可能な場合があったりしたので,これは夢物語ではなさそうだと感じています。

現在,発達障がい当事者の方が,自分の経験や自分にとっての自然な感じ方,考え方,そこから見たときの定型的な見方の批判的な検討について書いてくださったものをコミュニケーションに関わるいろんな専門分野の研究者の方たちに読んでもらってそこから何を考えるかを論じてもらい,それを本にする作業を進めているのですが,ちょっと楽しみです。

RSS

コメント欄

 投稿はありません