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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2022.11.18

事例研修で最近思うこと:改めて 当事者視点に迫る

私の場合,事例研修などで年間数十件程度の事例を議論する機会があるのですが,当事者の方たちとの比較的突っ込んだ対話などを積み重ね,「当事者視点を踏まえた支援」という考え方を深めていく中で,だんだんと自分自身の事例理解の姿勢が変わってきたことを感じます。

何が変わってきたのかと思うのですが,一番単純に言えば,検討される事例の対象者(発達障がい児・者や精神障がい者など)の「気持ち」に迫ろうとする姿勢がとても強くなったということかと思います。

たとえば以前なら自閉の特性の一つと考えられる「他者の気持ちがうまく理解できない」みたいな問題については,「複数視点の調整理解のしくみに定型発達者との違いが存在する」みたいな形で分析的に理解しようとする姿勢が強かったのですが,いまはそういうのはあんまりどうでもよくて,「この人,このとき,どんな気持ちになってるんだろうな。この人の目には周囲の状況はどんなふうに見えて,どんなふうに感じ取られているんだろう」ということが気になるんです。

こういう「相手の立場に立って考える」ということは,通常の人間関係では大事なこととしてよく言われることだろうと思います。特に日本社会は多分歴史的にそういう姿勢がすごく強調されてきた文化を作ってきていて,自分の考えに注目するより,まず相手の気持ちを忖度しようとする姿勢が非常に強いことは,他の文化と比較してみるとよくわかることです。

だから,「障がい児・者」についても同じことがごく自然に強調されて不思議はないはずなのですが,現状においてはそうはならない。お題目としては「子どもに寄り添う」みたいな言葉はよく出てきますが,しかし実際には「特性」を見出して,その特性をどうコントロールできるか,といった視点からの検討になりやすいと感じます。

なぜそうなるかというと,「寄り添おうとしても,なんでそんな振る舞いをするのかよく分からない」=「子どもの立場に立って考えられない」=「共感しにくい」といったことがネックになっているのだろうと思います。だから障がい児・者の視点から考えることを断念して,よく分からないけど「こういう特性だ」ということを「頭で理解」して,外側からコントロールするよりなくなる。

こんなふうに「よく分からない相手」に対して,「共感的にかかわる」ことをやめて,ある意味で「機械的に形式的にコントロールしようとする」という姿勢に切り替わることは,特に不思議なことではなく,人間関係の中で普通に見いだされることです。気心が知れない人との間では「礼儀」が特に重視されますが,それも「形式的なやり取りの形」によって関係を調整する仕組みです。そうすれば相手の気持ちを理解することはそれほど重要ではなくなる。

ルールというのも形式的なコントロールの手段です。お互いの気持ちを理解し合って調整するのではなく,とにかく決まり事で機械的・形式的に関係を調整処理するわけですね。法もそうです。お互いの気持ちを大事にしあって「情」で調整をしようとする関係に比べると,法によって関係を調整するのは文字通り「情け無用の非情な世界」として感じられることもよくあります。

つまり,相手の気持ちを理解しあって,情によって関係を調整し,維持しようとする形が作れないとき,「相手の気持ちの理解」ではなく,コントロール可能な形で機械的・形式的に理解しようとするという手法に切り替わる。

さまざまな文化が入り混じって葛藤が繰り返されているような社会では,「ルール」で状況をコントロールしようとする姿勢が強くなるということは,たとえばアメリカなんかが典型になります。その手法のルーツはヨーロッパにありますが,ヨーロッパも多民族がたくさんの国に分かれて関係を調整してきたわけですし,アメリカはまだまだ若い国ですから,そのヨーロッパ的考え方が純化(単純化)されて社会を覆いつくしているところがあります。

中国もとにかく諸民族が入り乱れて大変な葛藤の繰り返しの歴史を重ねてきているので,一面ではその「原理原則」という形式的関係調整法の強調はものすごいものがあります。ただ,アメリカに比べて想像を絶するくらいに歴史が長く,極端に複雑な社会なので,その形式的関係調整と感情的(情的)関係調整の関係は大変に複雑で,社会の中では例えば法治と人治,法家と儒家の対立みたいな感じで非常に複雑に展開し続けてはいるのですが。

少し話を広げ過ぎたかもしれませんが,でもそのくらい,「相手を理解できないときは機械的・形式的に対処する」というのは人間にとっては普遍的なことだというわけです。

実はこの話は自閉的な人の「特性」の一つにもつながっているのではないかというのが私の見方です。

というのは,自閉系の方たちの感情の動き方,状況の理解の仕方は定型とはズレているところがあります。だからお互いに相手の感情の動きが共感的に理解しにくいことがある。そうすると自閉系の方たちが定型社会の中で,定型的な気持ちの動き方を理解して関係を作ろうとしても,なかなかうまくいかないわけです。だから本当に小さな子ども時代からそういうやり方を諦め,感情を絡めずに形式的・機械的に相手の動きを理解しようとするようになる。そうでなければ生きていかれないわけです。

で,そういう生き方を身に着けた自閉系の人と定型が関係を持とうとすると,自分にとっては当然の感情的なやり取りが否定されてしまうので,そこでショックを受けてその相手に「感情がない」「人の気持ちを無視する」といった印象を持ってしまう。そう言われ続けた自閉系の方が,そのせいで「私には感情がありません」という人さえ出てきてしまう。

でも当事者と深く付き合えば付き合うほど,自閉系の方たちの繊細な感情の動きが少しずつですが感じ取れるようになるんですね。そんなふうに改めて「相手の気もち」を相手の視点から想像できる可能性が見え始めることで,事例の対象者(発達障がい児・者や精神障がい者など)の「気持ち」に迫ろうとする姿勢が強まってきたのではないか,そんな気がします。

 

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