2022.11.29
「こだわり行動」はなぜ矯正される?
自閉的な子どもでしばしばみられるふるまいに「こだわり行動」と呼ばれるものがあります。たとえば散歩に行く道が決まっていて,そこから外れるとパニックになる。積み木をひたすら一直線に並べ,じっとならべるだけで発展しない。極端に食べるものが限定されていて,それ以外は受け付けないなどなど。私たちから見ていて,「なんで?」というのが全然分からないので「こだわり」と呼ばれます。
もちろん「こだわり」は誰にでもあることです。たとえば洋服の選び方について,「あの人はこの襟の形にこだわるよね」とか,「自然素材にこだわる人だね」みたいな会話はそれほど珍しくないでしょう。でもそういうレベルの「こだわり」は,その人の趣味であるとか,その人なりのポリシーのような感じで,言ってみれば「その人らしさ」を表す部分としてそれほど無理なくお互いに受け入れられています。場合によってはそれがその人の魅力として評価されることもあります。
ところが自閉の特性のように言われる「こだわり」の場合は事情が変わってきます。それはもはや「その人らしさ」なのではなく,「障がい特性」として受け止められるのです。積み木をひたすら一直線に並べる子を見て,「この子らしいね」とは言わず,ましてや「この子すごいね」とも評価されず,「困ったことですが,これが自閉症の行動特性の一つ,こだわり行動です」と言われるのです。
「こだわり」ということで言えば,定型と自閉と同じであるにもかかわらず,なぜこれほど極端に扱われ方が異なるのでしょうか。おそらく理由は単純です。その振る舞いについて「意味が分かる」かどうかの違いです。
では,その人の振る舞いの意味が分かるってどういうことでしょうか。意味論とか認識論とか,哲学的な次元にまで入って議論すると大変ですが,ここではもっと素朴な話でわりと十分な気がします。つまり「そういう状況にあれば,そうふるまう気持ちはわかる(またはわからないこともない)」と感じられること,言い換えると「共感できる」とか,あるいは「了解できる」といった場合に,その振る舞いの意味が分かると感じられるわけです。
だから,「その人の好み」とか「趣味」のレベルで,「まあそういう人もいるよね。私もちょっと違う面でそういうのあるし」とか,多少なりとも自分の身に置き換えて想像できればそれは「障がい特性」とはみなされないのですが,毎日毎日ひたすら積み木を一列に並べる,といった振る舞いを見ても,そういう想像力が全く働かない。そうすると「理解(了解)できない振る舞い」となり,「障がいとしてのこだわり行動」と見なされることになるわけです。
その結果,自閉的な子の「こだわり」は「意味のない振る舞い」と理解されることになります。「奇異な行動」と名付けられたりもします。
さて,人は「意味の分からない振る舞い」を見ると緊張します。知り合いがにこにこしながら自分の方に接近してくれば,「何か気分がよさそうだな。用事があるのかな。挨拶に来るのかな」といった感じでその人の振る舞いの意味を想像することができて,こちらもにこにこして相手をまったり,こちらから声を掛けたりできるでしょう。つまり,「その後の展開」を予想出来て,それに対して準備が可能なわけです。
ところが全く知らない人が厳しい表情でこちらを見つめながら接近してきたらどうでしょうか。「この人は何をしようとしているんだろう」と訳が分からず,その後に危険な展開が起こる可能性も感じて緊張するはずです。展開が予想できない事態に人は緊張します。そして人の振る舞いは「○○しようとしている」という「意図」とセットで理解されることで予想が立つ形になり,そのとき「意味が分かった」感じになるので,この状態は「意味が分からずに緊張する」事態なわけです。
ということで,意味が分からない「こだわり行動」は,定型社会の中で生きていくうえでは周囲の人たちに緊張感をもたらし,その子の「適応」を阻害する,という見方がそこから出てくることになります。
その結果,そういう振る舞いはその子の将来にとってマイナスの意味を持つものだと理解されることになるので,「矯正」することを「強制」することがその子にとって必要だという支援観にもつながっていきます。
意味が分からないから緊張するということは,逆に言えばその振る舞いに「意味」が見えてくると,緊張が和らぎます。実際,以前にこちらにも紹介した事例で言えば,いつも同じようなことばかり繰り返しているように見える,言葉も出てこない自閉のお子さんを見て悩まれていたお母さんに,私はその子が積み木をひたすら一直線に並べてごろんと寝っ転がってみたりしている姿を一緒に見ながら「実況中継」をしたことがあります。
「あ,今もうひとつ積み木を加えましたね」「いったん離れてまた戻ってきましたね」「こちらをちょっと見ましたね」などなど。そのうちにごろんと寝転がって積み木を見ている姿を見て,「あ,○○君もしかするとこの積み木を列車に見立ててるのかもしれませんね」と話し,その理由を説明したりしていたわけです。そのような目で見ると,その子の振る舞いのいくつかの部分が意味ある繋がりのあるものとして見えてくる感じもしました。
そうしたら最初は辛そうな感じだったお母さんが笑い出して,「自分は今まで何に悩んでいたんだろうと思いました」といったようなことを言われました。
なぜお母さんがそういうふうに気持ちが切り替わったかと言えば,つまりは「わけの分からない,意味の分からない行動の繰り返し」に,どうしていいか分からずにつらい思いをされていた状態から,「この子の行動にはそれなりに意味があるのかもしれない。それを自分でも理解できるかもしれない」と感じられる状態に変わったからだと思います。
私個人の体験としても,これはこだわりの話ではないですが,「意味が分かる」ということについての経験があります。
みんなの大学校のzoomを通した講義の受講生の中に,寝たきり状態で肩を少し動したり視線を変えるほかはほとんど体を動かすことができず,呼吸器も外せず,栄養もチューブで,と言った状態の方がいて,私はそういう方との接点はそれまでなかったので,緊張しました。話をしてもそれが聞こえているのか,聞こえたとしても多少なりとも理解されているのかもわかりません。多少目の動きが見えることがあっても,その意味が分かりません。
ところが肩でパットを押すことによって,その方はパソコンのカーソルを操作できました。それで時間はかかりますし,内容は知的な遅れも強いので本当に素朴なものでしたが,私に質問をしてくれたり,感想を書いてくれたりしたのです。その瞬間に,「お互いの世界がつながった」感覚が生まれ,緊張が解けて本当にうれしい思いになりました。広い意味では自閉のお子さんの振る舞いに悩んでいたお母さんと同じ変化が起こったのだろうと思います。
振る舞いの意味が分からないとき,緊張が起こるのは異文化間でも起こることです。これはかなり前ですが,プラトーンというベトナム戦争を描いた映画を見た時です。米兵が村を襲い,家の中に押し入って中にいた男性に銃口を向けます。その男性はその緊迫した状態で手を挙げ,そして微笑むのです。この微笑は私にはよくわかる感じがしました。抵抗しないから許してくださいという表情です。
ところが米兵はそのときになぜ恐怖の表情ではなく微笑むのかが分からず,そのことに恐怖を感じてその男性を撃ち殺してしまうのです。このような場面での微笑は,日本とベトナムではある程度共有された意味理解に結び付くのでしょうが,米兵には全く理解できなかった。おそらく文化差の問題がそこにあります。そしてこの虐殺は「意味が分からない」ことから引き起こされる緊張が恐怖を引き起こした結果の悲劇です。
いろいろな例で同じ問題を考えることができるのですが,それらに共通するのは,「相手の状態や意図を知る手掛かりがない」ことによって「次に何が起こるのかが分からない」状態になり,「どう対応してよいかもわからない」ために「緊張が生まれる」という展開です。そしてその「意味が分からない」緊張状態を取り除くために,人は相手にそのような振る舞いをすることを禁じたり,場合によってはそうふるまう相手を殺害さえしてしまうということが起こります。
TEACCHの本場のノースキャロライナ大学で研修も受けてこられた下川客員研究員に教えていただいたのですが,この「こだわり行動」についてはTEACCHでは一切禁じたり否定したりしないそうです。それはその振る舞いには本人にとって意味があるのだと考えているからです。実際それを行うことでその子の精神状態は安定します。その安定を崩してしまうことは行わないわけですね。安定の上に,支援を工夫します。
「僕が飛び跳ねる理由」という東田直樹さんの有名な本もあります。意味が分からないのは周囲にいる定型の側であって,定型が意味が理解できないということと,その人にとって意味がないということは全く別のことです。その人にはその人なりの意味がある。問題はそこが共有しにくいためにお互いの関係に葛藤が起きやすいということであり,そこを調整してなんとかお互いに生きやすい関係を模索することが課題になるはずです。
それを「その振る舞いに意味がない」と決めつけるのは,やはり定型の視点でしか事態を理解していない,ある種の傲慢さということになるのだろうと自戒を込めて私は思っています。
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