2024.01.30
大事なのは「そうなる過程」
この暮から正月にかけて、大内雅登さん、渡辺忠温さんと一緒に、「今の困ったこと」=「特性」という見方ではなくて、「今困っていることがどう形成されてきたのか」を考えることが大事なはず、ということを議論する論文を仕上げました。(この春にはある紀要雑誌に掲載予定)
外側から「こういう困ったことをする」=「困ったことをする特性を持っている」という型にはまった理解の仕方では、「その人はどう思ってそうしているのか」という「その人の思い」や「その人の苦しみ」が見えてきません。
でも、素朴に考えて、だれかとやり取りするときに、それがうまくいかなかったら「あの人はどうしてそうするんだろう?」とその人の「思い」を考えてみないでしょうか。そうやって自分の「思い」と相手の「思い」を理解して調整することでやりとりをうまくいくようにしようとします。
ところが相手の「思い」が分からない場合、最後は理解をあきらめ、やり取りそのものをやめてしまうか、あるいはしょうがないのでわけのわからない相手の言うことに従うか、あるいは自分の思いに相手を強制的に従わせようとするか、そんな風になるはずです。
で、発達障がいの子の場合、この「どういう思い」というのがほんとにわかりにくかったり、あるいは定型発達者の観点からすると「たんなるわがまま」とか「異常なこだわり」とか、そういう困った「思い」で理解され、否定的にだけ見られたりすることになりがちです。そしてそこが「特性」のせいだという形で納得される。
そして「そういう特性なんだから仕方ないね。大目に見てあげようか」となったり、その特性で周囲とトラブルが起こることになるので、なんとかトラブルを起こさないように訓練することを支援の目標としたりすることにもなります。
わからないときにはそうするしか方法がない、ということなのだと思うのですが、でもそこでずっと置き去りにされ続けるのは「本人はどんな思いなんだろう?」ということです。その子の思いは誰にも受け止められずに、宙に浮いたままになってしまいます。
逆SSTは、「たんなるわがまま」とか「異常なこだわり」と見えていた発達障がい者の振る舞いが実はその人にとってものすごく意味のあるものなんだ、ということに気付き、少しはその気持ちを理解する可能性を感じさせてくれます。
大内さんが自閉当事者としての体験などをつづった「自閉症を語りなおす」(新曜社)の中の文章を読んだ高木光太郎さん(認知科学・青山学院大学)が、それを読んで同じ本の中に「理解できるが気づけない」と書かれたことそのまんまのことが起こります。
この言い方はすごく大事なポイントを説明してくれているように私には感じられるのですが、大内さんの思いは「説明されればなんとか理解できなくはない」のですが、じゃあ説明を受けないで「そういう思い」に気付けるかと言えば「そりゃ無理なんだよね」ということです。
なんで気づけないかというと、目の付け所や発想の仕方がほんとに違うからです。
だから「そういうところを見て、そんな風に発想すれば、たしかにそうふるまうのは分からないではないなあ」という気にはなるんです。でも定型発達者の限界で、そもそも「そこに目が向かない」し「そういう発想を思いつかない」ので、「気づけない」ことになります。
この気づけなさは相当深いもので、私の場合もう何年も何回もそういう話を大内さんなどから聞いて説明されてきているのに、いまだに「ちょっとわかるところが出てきた」レベルにとどまるんですね。
それは私が鈍感だから、理解力が足りないからということも当然あるかと思いますが、でもそういうところをどうやって気づけるようになるのか、ということについてちゃんと説明してくれる話を誰からも聞いたことがありません。
ただ、私が今の段階でほぼ確実に言えることは、そうやって周囲から理解してもらえない状況の中で、ほんとにつらい思いを重ねて成長され、そして今も日々を送ってこられている方が本当に多いということです。
そういうつらい状況の中でも生きていかざるを得ないので、自分なりの必死の努力をし、なんとか生きていけるようなふるまい方を探し続ける。その結果が、たとえば「自閉的なふるまい方」になったりすると考えられるわけです。(下はある研究会で話をしたときのものです)
そういうつらい状況への必死の対処して作られてきたその人のふるまい方が、周りにとっては理解できないものになって「障がい特性だからね」という表面的な「納得」で済まされてしまうことになります。
でも、私から見て「この人の支援はすごいなあ」と感じてしまう方は、だいたいそういう「納得」で終わりません。たとえばこどもサポート教室で活躍されている岡山の尾島貴弘さんは、つい先日こんなことを言われていました。一見訳の分からないものに見える行動でも、「理由がない行動をお子さんはぜったいにとらない」と確信されているのです。だからその子の思いをしっかり考えて対応されます。そうするとその子の「理由」に働きかける対処ができるようになり、単に「困った行動」を外側から「コントロール」するのではなく、その子自身が自分の思いをベースに、自然と相手との関係を調整できる力が育っていくことになります。
研究所がずっと強調している「当事者視点を大事にした支援」というのは、つまりはそういうことです。その子の思いを無視した形で困った行動を矯正するのではなく、その子の思いを理解する努力の中で、お互いの思いのぶつかりを調整していくことが一番大事な支援なんだということです。
その子の思いの外側から表面的に「困った行動」だけを見て対処するやり方を乗り越えるには、理解のための対話の工夫が必要になります。大人ならたとえば逆SSTのような形でそのきっかけやヒントをもらうことができますし、言葉がでない子どもでも、物のやり取りや場の共有の仕方を工夫するとき、そこに相手の思いを理解する「対話」的な関係が成り立つことになります。
そういう姿勢で子どもに接していくとき、「わけのわからないその子の困った行動」は、実は「その子にとって訳の分からない周囲の状況への必死の対処の仕方」として作られていったものだということに気付けるようになっていきます。そしてそこに気付けるようになっていくと、その子の思いに共感しながらの関係へと少しずつ変わっていくのです。
論文では「形成論的に考える」といった言い方で表現していますが、そういう発達障がい理解がこれから追及されていくことが、発達障がいを巡る困難に直面しているすべての人にとってほんとうに大事だということを、最近ますます確信するようになりました。
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