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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

    ブログ総目次(リンク)はこちらからご覧いただけます。

2024.05.07

規範意識のズレとこだわり

自閉系の人が「こだわりが強い」と言われることが良くあります。でもなぜ「こだわる」のでしょう?

私たちがたとえば毎晩歯を磨いたとしても、それを「こだわり」と言われることはないでしょう。信心深い仏教徒の方が毎日仏壇にお線香をあげ、お経を読んだとしても、菜食主義の方が肉を絶対に食べなかったとしても、イスラーム教徒の方が豚肉を食べないことも「こだわり」と言われることもなさそうに思います。

そしてそれらの「習慣」については、それを破ったとしたら、ご本人も多かれ少なかれ後悔したり、場合によっては強い罪悪感を持つこともあります。また人から非難されることも起こるでしょう。

つまりそれらの振る舞いは、勝手にしたりしなかったりしてもいいものではなく、「すべきもの」として意識されていることになります。その意味でそこには「規範(ルール)」があります。

 

ところでこの「規範」というのは、言ってみれば社会の中で人が動くときの「法則」のようなもので、「赤信号なら人は立ち止まる」みたいな原因(赤信号)と結果(立ち止まる)の間の因果関係があるように見えます。

でももちろんこの「法則」は、「物」が持っている「法則」、たとえば水を冷やすと零度で氷になり、逆に温めると100度では沸騰する、みたいなものとは全く違います。ですからキリスト教徒なら豚を食べるのは何の問題もないように、人の「規範」はそれを守るべきと考える人たちの間でだけ、意味があるものになっています。つまり、「いつでもだれにでも当てはまる」ものではなくて、集団によって異なるわけです。

ここでもう一つ興味深いことは、「集団」といっても、人や場所によっても違いがあるということです。たとえばイスラーム教徒の集団、というのを考えてみると、アラブ世界のイスラームの方たちはものすごく厳格みたいで、昔北アフリカのモスクに行って、中を見学させてもらおうとしたけど、「お前はイスラーム教徒か」と問われ、「違うけど、遠く日本から来たし見せてください」といくら頼んでも絶対にダメでした。でも東南アジアとかならそこまで厳しくないようです。

ラマダンで日中は食べてはならない、という戒律についても、わりと気にしていないイスラームの人にも出会ったことがあります。

仏教では本来は僧侶は肉食妻帯は許されないはずなのに、日本では普通になってますしね。

そういう「厳格さの幅」みたいなものはあるにしても、でも「本当はこうである」というのがその集団の人たちの中には共有されていて、それを厳しく守る人と、わりと緩やかにしている人がいるというだけのことです。

これに対して、自閉的な人の「こだわり」というのは、他の人(つまり自閉以外の人)と共有されにくいものが多いわけです。だから周囲の人は「意味が分かんない」と感じるし、そしてそれはその人個人だけのものに見えるので、そこに「規範」があるとは到底感じられないということにもなります。

 

さて、ここからが大事な問題になります。

最近、自閉傾向を強く持つ人が起こした犯罪をどう理解したらいいかということで、事件を担当している弁護士さんたちから相談を受けることがありました。本人には本人なりの主張があり、その人の考え方に沿って行動しているわけなんですが、それがなんでそう考えるのか、どうしてそう感じるのか、にわかには理解できないのです。

他の人から見て理解できない、ということでは、たとえば妄想に基づいて行動してしまうような場合もあります。その場合は「事実」そのものがその人の中で作られてしまうといったことが起こるわけです。でもこの自閉の人の場合、「事実」は「事実」としてちゃんとほかの人と共有できるので、そういう妄想とは異なります。

自分勝手に都合のいい理屈をたてて、その理屈に添って行動しているというのでもないのですね。なぜなら、そういう行動をすることで、自分が社会的に強い非難を受けることはよくわかっているからです。その意味で明らかに「損をすること」をやっていて、とてもではないけれど自分の個人的な利益にはなりません。にもかかわらず「そうすべきだ」という考え方を持っているのです。

つまり、自分の利益になるかどうかは別として、「こう振舞うのが当然だ」というある種の強い「信念」があって、それに基づいて行動しているという意味では、その「信念」はまさにその人の行動を方向付ける「規範」の働きをしていると言えます。

問題はそれが「ほかの人」と共有されないということです。結果として状況についての個人的な理解に基づく個人的な信念になってしまっていて、まわりと折り合いがつかなくなってしまっているのですね。だからそこに「規範」とか、場合によっては必死でその規範を守ろうとするという意味で、ある種の「誠実さ」さえあると言えなくもないのですが、そんなことなど周囲の人からすれば全く感じられず、「わけのわからないこだわり」に基づく身勝手な行動にしか見えなくなります。

そして、本人も自分のそういう考え方が、周りには理解されないことをかなり自覚しています。ただ、周囲の人は自分とは全く異なるタイプの規範的な意識を持っていることにはなかなか思いが至らないようで、だから自分が正しいと思っていることを理解しない周囲の人たちが「いい加減な人」に見えたりもするわけです。

 

そういう規範意識のズレが、結果として犯罪を生んでしまうという悲劇がそこにあるわけですが、なぜそこまで問題が深刻になるかというと、その人の成育歴からある程度想像ができる部分があります。小さいころから周りとうまくコミュニケーションできない部分があり、そのことで否定される経験が積み重なって、深く傷ついていたようです。そもそも自閉という判断が確定したのは犯行後のことで、本人も親御さんもなんでそんな厳しい葛藤になるのかが分からず、その子の「当事者視点」をふまえたかたちの適切な支援も受けられていないようでした。

その結果、傷つき、憤る思いが積み重なって、二次障がいになっていきます。犯行はそういう状況への「復讐」という意味もあるようです。

 

下手をするとわけのわからない「こだわり」として見られて無視されたり、場合によって「矯正」の対象として考えられてしまうことで、その人自身がそのふるまいに持っている「意味」が切り捨てられることになります。そういう環境が、お互いの「規範」を通じ合わせることをますますむつかしくなり、そのことに絶望的になった自閉的な人は、もともと通じにくい部分を持つ自分の「規範」をさらにほかの人から切り離し、「自分自身の信念」としてそれこそ「自閉的」に作り上げていくように見えます。それは言ってみれば周囲との調整が失敗したことによる「作られた自閉」という側面を持つわけです。

小さいころから、お互いにズレてしまいがちな「規範」の理解を、柔軟に調整して共有していく工夫をしていくかどうか、ということは、だれにとっても本当に重要なことだと改めて思います。「こだわり」という一方的な決めつけは、時にそういう調整の可能性を見えなくしてしまう働きもするのですね。

支援は違うもの同士の間に生まれる葛藤を調整していく努力である、という思いを新たにする出来事でした。

 

 

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