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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2024.08.29

「なんでこんなことで切れるの?」

自閉のお子さんを育ててこられたあるお母さんに伺ったエピソードです。

お子さんが幼児の時,アパートの上の階に住んでいらして,外に出る必要があり,お子さんには1階で待っているからと伝えて先に家を出て,階段を下りて上り口の外で待っていらしたそうです。

するとしばらくして降りてきたお子さんが激しく怒り,手が付けられなくなったそうです。そのお子さんが言うには「お母さんは1階で待っていると言った。1階はおじいちゃんの家のことだ」といって,「上り口のそばも1階だよ」と言っても全く受け付けず,1階に住んでいるおじいちゃんの家にお母さんが来なければ許さないという感じだったそうです。

「1階」が何を意味しているのかについては,その時その時でその人が抱いたイメージがあって,それがたまたまずれてしまうことは当然あります。だからそれが重大な結果をもたらしてしまうのでもなければ,そういう時には「ああ,勘違いだったね」で笑って済むことでしょう。

ところがこのお子さんは「絶対に許さない,お母さんは嘘つきだ」といった感じの様子だったようなのです。「なんでこんなことで激しく怒るの?」と不思議に思わないでしょうか?

 

こういう例は特に珍しくもないかと思います。今年書いた論文(山本登志哉・大内雅登・渡辺忠温(2024) ASD的世界の形成過程に関する一試論:対話的ディスコミュニケーション分析の視点から)でも,似たような事例を一つ取り上げました。お母さんが今車で通りすぎたスーパーの駐車場に新しくたい焼きやが出たという話をしたところ,娘さんが「そんなものはない」と激しく主張して頑として譲らなかったそうです。結局娘さんが考えていたのは同じ系列の別の店舗のことで,同じスーパーの名前で違う場所を考えていたので話が食い違っただけだったそうですが,お母さんはその娘さんの「頑固さ」にほとほと悩まれていたとのことです。

こういう話を聞くと,「自閉の子に良くあるわけのわからないこだわり,自己中心的な頑固さ」というイメージがわいてこないでしょうか。「なんでそんなことで激しく切れるの?」と感じられて戸惑う場面になるかと思います。

上のお母さんのエピソードについては,みんなの大学校の授業「障がいと物語」のアフタートークで出てきた話題なのですが,そんなときどうしたらよかったのか,なんでそんなことになるのかの話になりました。

話を進めていく中で,そのお子さんはお互いの「勘違い」に気付いて修正するような,気持ちのゆとりももてない状態だったのではないか,という意見があり,それをきっかけにお母さんも思い出されることがありました。それは,そもそもお子さんが外には行きたくなかったらしく,出かける前にかなりもめていたらしいのです。それで,なんとか説得したお母さんが下で待っているからと先に出て,お子さんはたぶん憤りながら「1階」を「1階のおじいちゃんのところ」と理解して,我慢して降りてきたのですね。ところがそこにお母さんはおらず,我慢の限界が来たというわけです。

 

その時のお子さんの状態について,ある精神病の診断を受けている受講者の方が,こんな風に説明をしてくれました。「コップになみなみと怒りがたまっていて,もう表面張力でぎりぎりこぼれない状態になっていたところ,最後の一滴の水(怒り)がそこに注がれた。そうするともう止めることもできずに水(怒り)が流れ出してしまった。」

とても分かりやすいたとえだと思えました。そうなんですね,そのお子さんはその時までに激しい怒りを気持ちの中にため込んで,ぎりぎりの状態で耐え続けていたわけです。しかも問題はその時だけのことではなく,なかなか通じ合えないことで,普段から怒りがたまってきていた。周囲と理解し合うことにむつかしさが生じやすい自閉的な子には起こりやすいことです。そこに直前の緊張状態があり,そして最後の一滴が「1階」の理解のズレで注がれて激しい怒りがあふれ出した。

こういうことは定型の側にも普通に起こります。これは「自閉症を語りなおす」の1章で大内さんが紹介されている事例ですが,大内少年がある失敗をして,それに強く怒ったお母さんが,でも本人もある程度反省しただろうしあまり責めてもいけないと思って「向こうでテレビでも見とき」と収めようとした。ところがその直後,テレビを見て大笑いしだした大内少年に堪忍袋の緒が切れて,その頬を叩いた,という話です。

お母さんとしてはほんとに腹立たしいことを我慢して大内少年を「許してあげた」のに,何も反省していなかったかのように大笑いする声を聞いて,「最後の一滴」が注がれた状態になったわけです。実際には大内さんは「親孝行」のつもりで笑って見せたのですが,そんなこと普通は想像もできないでしょうから,お母さんは自分の「勘違い」に気付くこともできず(というより,そんな勘違いが起こるなんて,ほぼだれも想像できないでしょう),大内少年を一方的に責めることになったわけです。その憤り方は「1階」についてお母さんに「嘘を言われた」と思ってしまったお子さんと全く同じ構図です。

 

発達障がいを巡り,「なんでこんなことで」と理解できない状態に陥ることは,家庭でも支援の現場でも起こりやすいことです。そのとき大内さんは面白い対処法のひとつを語ってくれます。「こんなことなのにそうなるの」ではなく,「こんなことだからそうなる」と視点を切り替えて考えてみる必要があるのだというわけです。「なのに」というのは,自分の理解の仕方で考えると理解できず,「こんなこと」と「そうなる」の間が想像できない状態です。それに対して子どもは違う理解の仕方をしている。その違う理解の仕方から見ると,「こんなこと」だから「そうなる」という風に,ちゃんと理屈が通っていたりするというわけです。

自分にはない理解の仕方,発想の仕方に気付き,「なのに」を「だから」と因果関係を切り替えて考え直してみるのは実際はなかなかむつかしいことです。でもこんな状態をなんとか抜け出そうとすれば,怒りで爆発しそうになった時,いったん深呼吸をして「だから」を探る余裕を取り戻してみることがやはり大事になりますね。「クールダウン」はどちらの側にも必要なことと思えます。

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