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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2024.10.12

自閉的生き方と「ことば」2

今回考えてみたいのは,たとえば「自閉の子どもは言うことが極端になりやすい」「白黒で判断して中間がない」といったような「特性」,そして自閉系の人には数学とか自然科学系の方が得意な人が多いといった傾向についてです。また「嘘をつく人」とみなされる場合がある理由も含め,なぜそういう傾向がみられるのかについて,「ことばの性質」ということをベースにひとつの可能性を考えてみます。

ということでまずはことばの基本的な性質から考えておきます。

まずは「虹」について。

「七色の虹」ということばはどなたでも聞いたことがあると思います。

その色の名前は外側から「赤、橙、黄、緑、青、藍、紫」です。右の図はそう色が塗られていますね。

では本物の虹の写真を見てみます。

 

どうでしょう?本当に七色でしょうか?実際にはちょっとずつ変化していて,「このあたりは黄色」とか,曖昧に区別されるだけで,はっきりと分かれているわけではありません。だから,言語によっては虹を二色で表現するところ(南アジアのある社会),5色で区別するところ(ドイツ),8色で区別するところ(アフリカのある社会)など,さまざまです。こんなふうに境目なく徐々に変化する様子は「スペクトラム」と言うことはご存じの方も多いと思います。

ということは,この「色の名前」は本当は境目のないスペクトラムを無理やり切り分けているのだということになります。「自閉症」ということば(概念)もそうですね。

このグラフで分かるように,「自閉症」と「定型発達」ははっきりと分かれるのではなく,ただ自閉傾向が強い人から弱い人までなだらかに変化しています。そういう連続したものを「自閉症」ということば(概念)で切り分けるのが「診断」という行為になります。

自閉症を「自閉スペクトラム症」と呼ぶようになった理由がこれでわかります。

ここでも「ことば」がもともとは連続的にあるものを,はっきりと分割するような働きをしていることが分かります。だから,その連続する変化のどこまでを「自閉」と呼ぶのかについては,それを判断する人が主観的に決めざるを得ないため,人によってかならずしも一致しないことも起こります。同じ子に対して医師の診断が一致しない大本の理由もそこに求めることができます。

こういう「ことば」の基本的な性格について最初に重視して論じたのはソシュールという言語学者でした。彼は近代的な言語学の祖と言われる人です。ものが分かれているからそれに対応することばが生まれるのではなくて,むしろことばの方が世界のものの区別の仕方を作っているんだという発想になっていくわけです。

さて,色の話に戻ると,そんなふうに色の区別は虹自体にあるのではなく,それを見て名前を付けている側の見方の問題だということになります。だから言語によってその名前の付け方が違うということも起こるわけです。これを言語の恣意性(物と言葉の結びつきには因果関係がなく,自由に決まる)とも言います。

ところでここでもうひとつ面白いことがあります。いくら「言語の恣意性」で色分けの仕方が自由になると言っても,でもやっぱり日本語では7色で,ドイツでは5色で,日本語を使う限りそこは決して自由にならないわけです。日本で「七色の虹」と言わずに「五色の虹」と言えば,周りからあなた間違っていると言われるでしょう。

そうなんです。ことばによる切り分け方は,コミュニケーションの中で調整されて,同じ言語を話す人同士の間ではかなり一致するようになるのです。それは理屈を超えて,ことばが人の感覚を支配するところにまで進みます。たとえば私たちは鶏の鳴き声を「コケコッコー」と聞きます。けれども英語圏の人は「cock-a-doodle-doo(クックドゥドゥルドゥ)」と聞くようです。それは単に文字の表記上の問題にとどまらず,実際にその鳴き声がそんな風に聞こえてしまうんですね。

その意味で言語は決して単なる恣意的なものではなく,その言語を使う文化によって制約を受けたものなのです。もし同じ言葉を使って全然違うことをイメージしていたら,そもそもコミュニケーションは成り立たないから,それも当然でしょう。

 

以上について説明をすると,最初の問題,つまりなんで「自閉の子どもは言うことが極端になりやすい」「白黒で判断して中間がない」といったような傾向がみられるのかについて「ことばの性質」から考えるための道具がとりあえずそろったことになります。

もう一度ポイントを確認すると,目には連続的に見える(感覚され,知覚される)のに,ことばでは切り分けて認識される,というズレがそこにあり(※),そしてことばでの切り分け方は各自が勝手に行うのではなく,周囲とのコミュニケーションの中でお互いに理解が通じ合うように調整して作られるのだということです。

 

そうするとここで問題になるのが,自閉的な人と定型的な人の間では,このお互いのコミュニケーションを通した理解の調整に困難が起こりやすいということです。自閉的な人によく見られると言われる「感覚過敏」もその典型例ですね。どの範囲の刺激の強さが心地よかったり,あるいは不快だったりするか,という感覚の受け止め方がお互いにズレるわけです。

その結果,自閉的な人は自分の感覚に素直にふるまったり主張したりしても,周りになかなか理解されないということが起こりやすくなります。周りの人はその人がどんなふうに感じているかが想像しにくく,自分たちの感覚で判断してしまうからです(つまり当事者視点からの理解の不足)。

ですから,お互いにコミュニケーションがとりにくくなります。上の例で例えれば,一人は虹の色が四色であるという切り分けかたで話をし,相手の人は8色であるという前提で話をしても,お互いに同じ虹を見て話しているので,同じことを話しているんだと思い込んでしまうため,話がかみ合わなくなってしまってもその理由が分からずに混乱してしまうというようなことです。

そういうお互いに意見があわない状態では,多数派である定型発達者は周囲の定型発達者と「あのひと○○っていうけど,そんなことないよね?」と話すと,相手も「そりゃそうだよ。その人がおかしいんだよ」という形で自分たちの判断は守られます。ところが少数派である自閉的な人は,自分が感じている素朴な「事実」を「そうだよね」と言ってくれる人がまわりになかなか出会えない。

 

そういう孤立したしんどい状況に置かれることで,自閉的な人は「相手にいくら言っても無駄だ」という感覚が小さいころから身に付き始め,そしてその結果として周囲とコミュニケーションをするには,たとえ自分が納得しきれていなくても,相手が納得するような答え方をするしかない,といったある種のあきらめと,それによって葛藤を乗り切ろうとする「生き方の態度」を身に着けていかざるを得なくなります。

大内雅登さんが「自閉症を語りなおす」の中で「自己物語」という概念を自分のコミュニケーションの仕方の特徴を説明されているんですが,その話もこういう困難な状況の中で,自分なりに主体的に生きることを失わないための工夫として生まれるものとして考えると,私にはわかりやすくなります。

ここで大事なのは,「自分の感覚に基づいてではなく,相手にあわせて相手が納得するような会話をする」というコミュニケーションスタイルは,「自分が感じている世界」と「相手とのコミュニケーションの中で共有させられる世界」が切り離されてしまうという状態を生み出すということです。私の世界は他者には理解できない自分だけの世界で,相手の人との世界はそれとは関係ないところで作られるものだ,という感覚です。

これに対して定型発達者は自分の感覚が(自閉の人に比べると)周囲と共有されやすいので,自分がことばで語って他者と共有する世界はわりと自分の感覚とつながっていることになるし,相手もそういうものとしてことばを使うのだと素朴に信じています。そうすると,自閉的な人が自分の感覚とは離れたところで,単にこちらとのやりとりを成立させるために,こちらに合わせて話しているのだということに気付きにくくなります。ところが実際はそれはその人の感覚とはズレているので,あとからそのことが分かると「あの人はあの時嘘をついていた」と理解することになったりするわけです。これが「自閉的な人が嘘をつく」ように見えることの説明の一つになるでしょう。

では「極端な言い方」や「白黒の見方」についてはどうでしょうか?これについてはいろんな問題が絡みそうなので,これからの説明がどこまで有効なのかはいろいろ考えていく必要を感じていますが,その一つとして,上に書いたように「ことばがつながっている世界を切り離す」という性質を持っていることが関係しそうに思うわけです。

比喩的に言えば世界はアナログで成り立っているところ,それをことばはデジタルで表現する。そのデジタルの世界は,定型の場合は比較的自分の感覚にもフィットしやすい形で作り上げられます。というか,デジタルの世界はアナログの世界を足場に作られたもので,だからそのアナログ的な感覚も否定されずに残っている。ところが自閉の人にとってはそのデジタルの世界は,自分の感覚とは離れたところで定型的な感覚から作られた世界なので,自分の中のアナログ的な感覚を切り捨てて機械的にデジタル的に作り上げてしまうというわけです。

そうすると,定型的な人間にとってのデジタル的なことばは,実際にはアナログ的な広がりを持って感覚的にも使われているので,そういう感覚のもつ「余韻」とでもいう部分を切り捨てた形で語られる自閉的なひとのことばの世界は,とても単純で極端な世界に感じられてしまうというわけです。

最後に自閉系の人の中に数学や自然科学的な理解がとても優れていたり,得意な人が少なくないことの説明です。自然科学とかあるいはその応用としての工学といった理系的な分野は「デジタル」な世界と親和性がある,というのはなんとなく理解してもらえるのではないかと思います。でもたとえば数学での数は決してデジタル(離散量)だけを扱うのではなく,グラフという表現を見てもわかるようにアナログ(連続量)も当然扱うわけです。というかそれが無ければ数学は成り立ちません。だとすれば,上の説明は成り立たないんじゃない?と思われるかも知れません。

さて,ここで重要になるのは,自然科学的にものを理解し,工学的にそれを扱う(変化させる)というときに,その対象としてのものは主観的な感覚を持っていないものとして扱われるのが自然科学の基本になります。人を理解するときには「相手の気持ち(主観的な世界)」を理解しながらでなければ,そもそも相手の言っていることの意味も分からないし,コミュニケーションが成り立たなくなるのと,それは大きな違いです。

つまり,自然科学的な理解や工学的な扱いは,「ものの気持ちを理解する」ことが不要であるわけで,素朴に自分が感覚的に見ているそのものをそれ自体で理解する工夫を重ねればよいことになります。そしてその点では自閉的な人がそのものを見ても,定型的な人がそのものを見ても,基本的に違いは生まれないわけですね。そこではお互いにコミュニケーションがとりやすくなる。その点が,通常の人間関係で相手の感覚が理解しにくくてどう関係を調整していいかわからないことに苦しみ続ける自閉的な人にとっては大きな希望を与える可能性を持っていると考えられます。

そうすると,そういう世界で自分を伸ばそうとする気持ちが生まれやすくなりますから,「好きこそものの上手なれ」でその力が特に伸びやすくなる。つまり,「ことば」による切り分けの世界から出発して,その世界でほかの人たちと一緒に生きていくことがしやすくなるわけです。数学の数の概念が自然数から整数へ,整数から少数へといったデジタルの世界の細分化を出発点に,さらに関数という連続的な変化の考え方や無理数,虚数などと展開していく中でアナログ的な世界を取り込んでいったようにその世界が広がっていったように私には思えるのですが,そういう展開の仕方が自閉的な人にはより自然に感じられるのかもしれません。

 

まあ,以上の話はかなり大雑把な感じで「こんなふうにも考えられるところがあるのではないか」というレベルで書きましたので,いろいろ穴はたくさんあるかと思うのですが,そうはいってもあながち荒唐無稽な話でもないように思えます。またこれからも考えてみたいところです。

 

 

※ 心理学的により正確に言うと,連続した世界を区切って認識する仕組みは,ことばによる認識よりも基本的なところで,感覚的な情報処理の段階でも生じています。たとえば私たちは物の「縁(へり)」をぱっと見つけることができます。たとえば二枚の紙を重ねておくと,その二つの紙の間に「線」が引かれているように見えますが(少し意味を拡張しますが,物理的には存在しない線を体験としては見るという主観的輪郭線の一種になるでしょう),これは物の端を把握しやすくするように,境目の一方を暗く,他方を明るく見せるような「側方抑制」という生理学的な仕組みが網膜に備わっているからです。私たちが絵を描くときに面ではなく線画で表現できるのはそういう知覚の仕組みがベースにあって,それを象徴レベルで改めて強調する形で成り立っているのだと考えることができます。境目のないところに境目をつけて外界を認識するのは人間の心理の基本的性格なんですね。それがいろいろなレベルで生じる。その一つがここで問題にしている「ことばによるきりわけ」という現象であるわけです。

 

 

 

 

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