2024.11.13
ディスコミュニケーション論と逆SSTで変わる自閉理解
今年の後期は駒沢大で「異文化コミュニケーション論」の講義を担当しています。
「異文化」というと,普通はたとえば「日本文化と中国文化」とか,「仏教文化とイスラーム文化」みたいな,いわゆる「文化の違い」と普通言うような意味で想像されるだろうと思います。
けれどもでは「文化とは何なの?」ということを考えたときに,その意味をさらに広げて,安定したコミュニケーション一般を成り立たせる仕組みの一つとして「文化」の仕組みを理解することが可能になります。(「文化とは何か,どこにあるのか」)
うんと大雑把に言うと,人と一緒に生きていくとき,いろんな約束事とか,大事なものやことについての見方とか,助け合いの仕方とか,争いの調整の仕方とか,そういう「生きるための仕組み(生き方やその理屈)」を他の人と共有していく必要があり,そういう働きをするのが文化だと考えます。
そうすると異文化というのはことなる仕組みを持つ人(たち)のことになるわけですね。自分(たち)とは違う「生き方やその理屈」があることに気付いて相手のそれを理解しようとすることが「異文化理解」になるわけですし,お互いにそこがうまく理解できずに葛藤してしまうのは「文化間摩擦」,そしてある人たちの間に入ってその人たちの生き方に添った生き方ができずにしんどくなってしまうのは「異文化不適応」ということになります。
そういう視点から見ると,狭い意味での「文化」に限られず,人と人がコミュニケートするときにどこでも普通に起こることと見ることができます。
たとえば自閉と定型の間の葛藤は,お互いの「生き方やその理屈」に大きなズレがあって,それがお互いに理解できないことから生じるものです。そして少数派である自閉系の人の多くが,「(定型発達者の生き方やその理屈」という「異文化」の中でつらい思いを積み重ね,「異文化不適応」を起こし,二次障がい状態に陥ることが珍しくありません。
そんな風に広げて「異文化コミュニケーション」を理解して講義をしていくので,授業の内容はいわゆる「異文化」の問題も扱いますし,自閉=定型間の葛藤や,冤罪を生み出す供述評価のズレに関する裁判官と心理学者の葛藤,発達段階による理解の仕方のズレによる子どもと大人の葛藤といった内容を扱い,具体事例をもとにそのすべてについて理論的には「ディスコミュニケーション論」の視点から統一的に論じていくわけです。
今週までの3回は,自閉=定型間の葛藤の問題を扱いました。
まず2回,自閉当事者の大内雅登さんにお越しいただいて,逆SSTをやりました。そこで大事にしたことは,一見意味の分からない「こだわり」や「マイルール」など「わけのわからない困ったふるまい」に思えることにも,当事者にとっては大事な意味があるのだということに気付くことです。
大内さん自身のエピソードを出題してもらい,大内さんがどうしてそんなことをするのか,質問しながら学生に推理してもらい,最後に大内さんに「正解」を語って説明してもらいます。
そうすると面白いことが起こります。推理してもらっても誰一人として「正解」には達しないのですが,大内さんから説明されると,「わからないでもない」という感じになるんです。つまり訳が分からないのではなくて,単に理解のポイントがずれてしまうので,気づけなかっただけなのだということ,そこにはちゃんと当事者の視点からの「意味がある」ことを実感するのです。
そして3回目には,そういうズレが頻繁に生じ,理解されずに誤解され続ける結果,自閉の人がどれほど苦しい状態に陥ってしまうのかということについて,アメリカのデータですが,自閉症児の自殺念慮や企図が定型発達児の実に28倍に達することなど,その問題の深刻さを感じてもらい,なぜそういう事態が生じてしまうのかを,具体例を使いながらディスコミュニケーション論で説明していきます。
また大内さんの優れた支援事例などを説明しながら,定型発達者ではなかなか気づけない支援のポイントなどを解説し,適切なコミュニケーションの仕方があれば,事態は全く変化するのだということにも気づいてもらいます。
そんな授業をした後,今,学生から感想が寄せられてきているのですが,その内容がとてもうれしかったので,二つご紹介したく思います。
自閉症の人の行動はよくわからないと思っていたけど、行動の裏には訳があったということに驚きました。突然変なことをしたわけじゃなくて、理由を聞いたら納得できるようなことがたくさんありました。小学生や中学校では自閉症の人が学校に数人いました。当時はおかしなことをする子、変な子、少し怖いという印象があり、私は避けて過ごしてしまいました。しかし今回の授業を受けて、あの時もっと話せばよかったなと後悔しました。自閉症の子はわけもわからずに避けられて、とてもつらい思いをさせてしまったのではないかと反省しています。これからは色々な人に寄り添っていきたいです。
今回の講義で、(自閉症者に関する定型発達者の)誤解による問題がいくつかありました。私は当事者では無いため、大内さんのように(支援の中でトイレに行きたくないと言い張る自閉の)もじもじしている少女をトイレに連れていくことはできないと思います。ですが、視点が違うということだけでも理解しておくことで、もしそういったシチュエーションになった時、少しでも当事者に寄り添った考えが生まれるのではないかと考えました。
障害のある方を異文化と捉えることに関しては、良いと思いますが、「異文化」で終わらせ一括りにするのではなく、「異文化を理解する」ということに重点を置くべきだと考えます。
あと半分程でこの講義は終わってしまいますが、当事者目線に少しでも近づけるようになることを目標に理解を深めていきたいと思いました。
ご覧いただけるように,学生さんたちは今までの「外から見た自閉」の理解ではなく,当事者の思い,当事者の視点から問題を理解しなおすだけでなく,自分自身のこれからの自閉の見方やかかわり方を変えていきたいという気持ちまではっきりと述べられています。ここで自閉の方のことは学生さんにとってはもはや「他人事」ではなく,自分にとっても大事な「自分事」に変化してきているわけです。
実際,授業の中で,大変印象的だったことがあります。いつもはうつむきがちにおとなしく授業を受けている学生さんが,話が進むにつれてだんだんと顔が上がってきて,私と目が合うようになってきて,その表情もとても真剣な様子だったりします。
それだけではありません。こんなことは初めてで驚いたのですが,授業終了後にしばらくは誰一人として席を立とうとしないのです。
偏見も含め,社会に広くいきわたっている障がいについての一方的な見方を「違いを持ちながら一緒に生きていく共生のための見方」へと変化させ,当事者の思いをしっかりと受け止められるようになるというのは,通常は簡単なことではないでしょう。そこで絶望的な気持ちになる方の声もこれまで何度も聞いてきています。
それが,大学の授業というほんとに小さな場の小さなコミュニケーション体験の中で,ここまで実際に変わることがあるのだということを今回は確かめられ,大きな希望を持てました。
次回からは冤罪に関するディスコミュニケーション論の授業になりますが,そこで学生さんたちが何を考え,何を学ばれるか,大変に楽しみになってきました。
- 支援者こそが障がい者との対話に学ぶ
- 「笑顔が出てくること」がなぜ支援で大事なのか?
- ディスコミュニケーション論と逆SSTで変わる自閉理解
- 冤罪と当事者視点とディスコミュニケーション
- 当事者視点からの理解の波:質的心理学会
- 自閉的生き方と「ことば」2
- 自閉的生き方と「ことば」1
- 自分を「客観的に見られない」理由
- 「なんでこんなことで切れるの?」
- 当事者視点を踏まえた関係調整としての支援
- 「定型文化」と「自閉文化」
- 傷つける悲しみ
- 自閉と定型の「傷つけあい」
- 「社会モデル」から「対話モデル」へ
- 障がいと物語: 意味の世界を重ね合う試み
- 誰もが当事者:わたしごととしての障がい
- 規範意識のズレとこだわり
- 「コミュ力低い」で解雇は無効という判決
- 「カサンドラ現象」論
- 「嘘をつく」理由:それ本当に「嘘」なの?
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