2024.11.21
支援者こそが障がい者との対話に学ぶ
支援を必要とする成人の方たちのための学びの場として行われている「みんなの大学校」で後期は「対話と支援」という授業を行っています。
当初は障がい当事者の方たちのみが参加する形でいろいろな授業を展開してきましたが,そのうちに支援者などにも参加していただいて,その中で障がいについていろいろ議論する形を模索するようになり,「対話と支援」ではみんなの大学校の受講生の皆さんのほか,すでに就労されている皆さんや,あるいはご自身が発達障がいなどの特性を持ちつつ,障がい児の支援の仕事をされている方たち,就労移行支援の事業を展開しているアクセスジョブの支援スタッフの皆さんや,そこで支援を受けている利用者の方たち,若手の研究者の方などにも参加していただいています。
内容は今のところアクセスジョブの支援スタッフの方に毎回お一人,支援をしていて利用者の方のことがうまく理解できなかったり,支援の仕方を悩んだりしていることについて,「どうしてそんなふるまい方をされるのでしょう?」「どんなことを思われているのでしょう?」「支援に何を望まれているのでしょう?」といった質問をしていただきます。そして参加者でいろいろ考えたことを話し合うのです。
今日で8回目になって,だんだんと障がい当事者の方たちからの積極的な意見が多く出るようになってきたのですが,今回の授業では,仙台のアクセスジョブで支援に関わられているYさんから出された「就労支援に通われている利用者の方がどんな支援を大事に思われているか」,といった質問を中心に意見を出し合いました。
次々にチャットなどで出てくる意見を見ながら,Yさんは繰り返しとても参考になると喜ばれていたのですが,終わったあとにはこんな感想を送ってくださいました。
皆さんから頂く様々な意見や考えに集中してしまい、ディスカッションというより聞くことがメインとなってしまい、なかなかうまくコメントできず申し訳ありませんでした。
あの短時間でも、当事者の方々から学ぶ事が多く、この授業(時間)が今後も継続していくのであれば是非またお誘いいただければと思います。
あたりまえのことなのですが,支援は人と人とのやりとりの中で成り立つもので,相手とのコミュニケーションとして進むわけですから,機械を操作する活動ではありません。機械ならマニュアル通りにやればうまく動きますが,支援はそんなことでは成り立ちません。そこで大事なことはコミュニケーションの中で相手の人を理解していく過程です。友達関係や夫婦関係などで,相手を機械のようにコントロールはできないし,それではいい人間関係にはならないのと何も変わりません。そして相手の人を理解せずに支援をしようとすれば,単に支援者としての要求を一方的に押し付けるだけに終わってしまいます。
ところがこの当たり前のことが支援の中では見落とされてしまうことが必ずしも少なくないと感じています。「会社で働くにはこういうことが要求される。だからその技術を身につけさせなければならない」という一方的な要求を前提に,その視点だけで支援のプログラムを考えてしまう例に出会うことがあるわけです。その結果起こることは,就労をしようとする本人の気持ちが見失われ,「やらされている」感覚が先に立つことで,その人の主体的な活動が展開しにくい状態になってしまうわけです。
ではどうしたらいいか,と言えば,それはある意味でほんとに簡単なことなのだと思えます。障がい当事者の方に聞いてみればいいわけです。
とはいえ,もちろん支援者も理解したい気持ちをお持ちなのですが,そう努力しようとしている支援スタッフの方たちがしばしば困ることに,「尋ねてもうまく答えが返ってこない」とか,「答えてもらっても意味が分かりにくい」といったことが生じたりします。そうするとそのことでせっかく相手の人を理解しようとしたスタッフの方が「やはり障がいのせいでコミュニケーションの力がないのだ」と思うようになり,そこで立ち止まざるを得なくなったりする例も多いのです。
なぜそうなるかの理由も実はわりとシンプルなのではないかと思います。障がいによって苦しんでこられた方の体験は,健常とか定型とか言われる方がそれまでに体験してきたことと大きく違うことが多く,そういう条件の違いは物の見方や考え方に大きな差を生み,表現にも違いが生まれるからです。自分が経験したことのないことをその人の立場に立ってリアルに理解するのは誰にとっても難しいことで,「その苦労を経験したことのない人にはぴんとこない」ことが多いからです。
そういう困難な状況に対して,この授業では多くの障がい当事者の方が参加され,またご自身が障がいを持ちながら支援の仕事で活躍されている方,支援を長く続けられていて障がい者理解に一定の理解ができるようになられている方もいらっしゃるので,「経験したものにしか語れない」ようないろんな話が交わされることになります。ひとりだとその人が話下手ならそこで終わってしまうようなことでも,似たような経験をされている方たちが,いろんな理解の可能性を語って下さるわけです。
それがYさんにとっても大変に刺激的で,お役に立ったのだろうと思います。「わからなかったら聞いてみたらいい」というほんとに単純なことが,そんな形で支援者と障がい当事者でなりたつグループの中で実現したのだろうと思います。こういうことは,たとえば支援スタッフが集まってやる事例研修などで,私たちがアドバイスしながら支援者だけがいくら話し合ってもなかなか実現できないことなのですが,それがこんなに「簡単に」実現してしまうのだと知って,大変にうれしくなりました。私は今まではどちらかというと当事者や現場に学びつつも理念とか理屈のレベルで考えてきたところがありますが,ようやくもっと素朴な現実に足がついてきた感じがします。
そういうやりとりが続く中で,最近は障がい当事者の方から支援者の方に貴重なアドバイスを事後の感想で送っていただくことが増えてきました。障がい当事者の方たちが支援者にこういうことを理解してほしい,と切実に感じられている思いがどんどんそこに出てきているように感じます。拝見していて当事者だからこそのさまざまなご意見にたくさんのことを学ぶ思いです。
以下はご自身が自閉の特性から周囲との関係にもいろいろ苦労されて,鬱状態なども経験しながら,今は障がい児支援の仕事にも携わっていらっしゃる若い方から,まだ支援の仕事を始めたばかりの支援スタッフの相談に対して書いてくださったアドバイスです。(個人情報などの関係で文章に少し配慮を加えています)その時の相談内容は,かつて支援の対象者だった方がなかなか時間通りに通ってこられなかったり,また休む時にもなかなか連絡をもらえなかったということで,どう理解していいのかわからずに悩まれたと言ったものでした。
Aさん自身(支援スタッフの方)が、時間に遅れるべきではないという規範を重視しながら(社会で求められることだと重きを置きつつ)、支援員として利用者さんを導かなければというような使命感を持っておられるのかなと感じていました。
当たり前のこととして求められることが、私も出来ないことが多いので、どちらかといえば利用者さん側の方へ親近感を感じていました。また、今回話題提供くださったお話を、社会で求められること・常識と考えられていることができるようになってほしい側と、それが簡単にできない側との間の関係性に話を拡張すれば、私の周りでもよくある悩みの一つかも…とも思います。
Aさんが、どうして利用者さんに自覚してもらいたいとおっしゃっておられたのかを考えたときに、
社会で働くためには時間に間に合うように行動できる必要があるという信条(?)、それができていないと強く自覚する・変わらなければならないと意識改革をすれば、時間に間に合うようになれるのではないかというお考えなのかな、ということや、あるいは、強く自覚してもらう以外に他の方法が分からない中で、まずは自覚してもらうことが最初の一歩に必要、みたいな感覚もおありだったのかな、Kさん側は遅刻は企業で働くときには許されないことで問題だと思っているのに、相手(利用者さん)は全然問題だと思っていないようにみえる、だから遅刻をしないことは大切なことなのだと伝えたい・分かってほしい、みたいな気持ちもおありだったのかな…
などを想像しました。
なかなか分かってくれない、行動を改めようとしてくれない、悪いことは明らかなのにそれを認めずに言い訳がましいことを言ってくる…、そうした相手の振る舞いに、もやもやした感情が募っていく…みたいなお気持ちになられることもおありだったかもしれないなと想像します。
自分の体験で言えば、常識や周りが出来て当たり前のことでも簡単にできないことが多いので、常識とされるものに合わせるために、周りよりも過剰な努力・エネルギーが必要で、そのために私生活の他の何かを犠牲にしなければならない状況が生まれたりします。いろんな何かを犠牲にしつつも、多くの人にとってはできて当たり前のことなので、できたことを認められることもないし、クリアするために裏でどれだけ苦労しエネルギーを費やしたかは日の目を浴びることはない。そのうち疲れてきて、頑張ることも億劫になる…
頑張って何とかできることならまだ良い方で、50m走を3秒で走れというような不可能に感じることを、クリアするように平然と求めてくる…みたいに感じてしまうこともあります。
自分がキツい・難しい・解決困難を感じることをできるようになるよう求めてくる相手に対して、素直になるのは難しいものがあります。相手は相手で、こちらが出来ないこと自体に困っていたり、あるいは出来るようになろうと思ってないように見える(努力も工夫も感じられない)姿にもやもやしたりして、何とか行動変容してほしい・気持ちだけでも行動変容しようという姿勢を示してほしいと思っている。一方で、こちらはこちらで、相手の気持ちよりも、””あなたが私の身体に乗り移ってこのどうしようもない苦悩と辛さを経験してみたらいいのに!””と、できない自分の苦しみを分かってほしい気持ちでいっぱいになってしまう。
自分はできてしまうが故にできない側の世界が分からない人と、できないが故にできる側の世界が分からない人とが、お互い新しい気付きを得られたり、相手の世界を知ることで違う見方・考え方ができるようになったり、ちょうど良い落としどころが見つかったらいいのにな、と思ったりします。
私は、朝起きるのがとても苦手ですが、午後から出勤時間の仕事で、それだけでものすごく生活しやすくなりました。体調も自分のパフォーマンスも、全然違うのが分かります。
Aさんは、卒業された利用者さんのことまで覚えておられて、どうしたらよかったのかと気持ちを向けておられるのが、素晴らしいと思いました。今出会っておられる利用者さんや、これから出会う利用者さんへ、Aさんがしたい支援、気持ちが届くと良いですね。
話題提供いただき、お話しいただき、お疲れさまでした。ありがとうございました。”
支援者の方は,特に経験がまだ浅い場合,「就労につなげたい」という「職業的な使命感」で,「どうやって頑張ってもらえるだろうか」と考えることが先立ってしまい,それがうまくいかないと,「困ったこと」として悩まれることが少なくないように思います。
それに対してこのアドバイスを書いてくださった方は,ご自身が似たような形で悩んでこられた経験をもとに,そういう風に「時間を守れない」ような障がい者の方の視点に立って,その方が「何を困っているのか」を一生懸命に説明してくださっています。支援者が自分の支援がうまくいかずに「困っている」時に,見失われがちなのは,当事者が「何を困っているのか」を理解しようとする視点で,それこそが本当に当事者の思いをくみ取りながら支援をしていくうえでの大前提になるのですが,そのことをこんなふうに説明してくださっています。
人間はどうしても自分の経験をベースにしてしか相手の人を理解できないという限界を持っています。これはどんな人で必ずそうです。だから,たとえば鬱のことを直接・間接に経験したことがない場合は,鬱の苦しみはなかなか理解できず,どうしても「怠けているのでは」等と感じてしまいがちです。でも,たとえ自分では鬱を経験していなくても,鬱の方たちとのかかわりの経験をしっかり積み,その方の経験を直接伺っていけば,そういう理解は全く間違っていることに気づきやすくなります。
障がい当事者と支援者の対話の場は,お互いに自分には見えにくい相手の人の世界を,語り合いを通して少しずつ共有していく場となっていきます。そのことによって,支援する側もされる側も,それ以前とは違った関係を作り上げていけることと思います。今回の授業の中では,そういう可能性が現実にあるのだということについて,確信が強まりつつあることでした。
- 支援者こそが障がい者との対話に学ぶ
- 「笑顔が出てくること」がなぜ支援で大事なのか?
- ディスコミュニケーション論と逆SSTで変わる自閉理解
- 冤罪と当事者視点とディスコミュニケーション
- 当事者視点からの理解の波:質的心理学会
- 自閉的生き方と「ことば」2
- 自閉的生き方と「ことば」1
- 自分を「客観的に見られない」理由
- 「なんでこんなことで切れるの?」
- 当事者視点を踏まえた関係調整としての支援
- 「定型文化」と「自閉文化」
- 傷つける悲しみ
- 自閉と定型の「傷つけあい」
- 「社会モデル」から「対話モデル」へ
- 障がいと物語: 意味の世界を重ね合う試み
- 誰もが当事者:わたしごととしての障がい
- 規範意識のズレとこだわり
- 「コミュ力低い」で解雇は無効という判決
- 「カサンドラ現象」論
- 「嘘をつく」理由:それ本当に「嘘」なの?
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