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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

    ブログ総目次(リンク)はこちらからご覧いただけます。

2025.01.17

「マイルール」と「自己物語」③子どもの視点から事態を理解しなおす

①では人は他の人とやりとりしながら生きていくために,お互いに守るべき常識とかルールとかを作り,共有してますよね,という話をしました。たとえば将棋で歩が突然斜めに動き出したら将棋になりません。日本で車が突然右側通行し始めたら事故で大変なことになります。そんなことです。「障がい」はその視点から見ると,何かの原因で人々が「普通」に前提にしているそういったものが身につかなったり,理解できなかったり,実行できなかったりといった状態として理解されることになります。

②では,今そういう見方が大きく変わりはじめているという話をしました。「障がい」がもたらす困難の原因を「障がい者の中にある」と考えるのではなく,周りの環境を整えることで困難が軽減したりなくなって,お互いに生きやすくなるという考え方がひろまってきているわけです。TEACCHの構造化の考え方や合理的配慮の義務化の話でも説明しました。そして私たちはその次を考えています。ルール(規範的媒介項)の作られ方が,たとえば自閉と定型でかなり違う部分があるので,コミュニケーションに困難が生じると考え,その調整が必要であり,支援はそこが大事になると考えるわけです。

①と合わせて考えると,お互いに理解しているルールが違うのに,それに気づいていないので困難が生じるし,それを調整できなくて葛藤がひどくなるのだという視点です。この状態をEMSを使ってこんな風に表現しました。たとえてみればトランプで一人がババ抜きのルール,相手がジジ抜きのルールで遊ぼうとして,ゲームにならずにお互いに怒り出す,みたいな話です。こういう場合は問題は単に環境にあるのでもなく,「お互いの感じ方,考え方のズレ」にあるのです。※

※ こういう形で困難を理解して調整を図るための基礎的な理論として私たちが作ってきたのがディスコミュニケーション論です。今は文化間葛藤や冤罪の問題の理解や解決のためにも使われ始め,実践的な共同研究が進んできています。 山本登志哉・高木光太郎2011「ディスコミュニケーションの心理学:ズレを生きる私たち」東大出版会

子どもが自分に都合のいいように勝手にルールを変更してでも勝ちにこだわる,みたいな支援の現場で「あるある」のマイルールの問題は,この考え方からすれば,単に「ルールを理解する力」や「自己コントロール」の不足の問題ではないことになります。

まず最初に大事なことは「マイルール」という言い方にも現れているように,子どもは「ルール」という考え方が理解できないわけではないし,「自分自身のルール」を作って,それを守ろうとします。ゲームをしようとするときにも,「ゲームにはルールが必要だ」ということ自体は分かっているわけです。

じゃあなんでそこで葛藤が起こるかというと,そのルールを相手と一緒に共有する,ということに困難が起こるわけですね。それを今までの自閉理解の一般的な考え方から説明すれば,自閉的な子は自己中心的なものの見方をして,相手の視点がとりにくいから,相手を無視して勝手なことをする,という風に理解されることになりそうです。たしかにある範囲ではそう理解できないことはありませんし,発達心理学的に(ピアジェ的に)言えば「視点間の協応」は知的発達の基本ですから,そこに「問題」があるのだという説明はその限りでは全然おかしいということでもありません。

けれどもここで少し視点を変えて,子どもの立場に立って考えてみます(当事者視点からの理解への挑戦)。子どもはゲームのルールを理解するとき,それを大人から教わるのが普通でしょう。友達の場合もあるかもしれませんが,いずれにせよ「誰かから教わる」わけです。これはEMSの話で言えば,それを教える人が「規範的媒介項」の働きをすることになります。

子どもにとってはそのルールは,言ってみれば大人が勝手に押し付けてきたものと見えてもおかしくない状態です。もしそう感じたとしたら,「じゃあ僕がルールを作ってもいいはず」と考えても不思議はありません。

しかもゲームのルールとしては,勝ち負けが設定されるのが普通です。「勝つ」ことがその目標なわけです。そうすると,「勝つ」というゲームにとって「正しい目標」を実現するために,「大人が勝手に押し付けてきたルール」を変えて,「自分が勝てるようにする」というやり方も,あながち間違っていると決めつけることもできなくなりそうです。実際,大人だって「勝手に子どもに押し付けている」のは間違いないですし。本当に子どもがそういう考え方をしているかどうかはさらに研究を進めていく必要はありますが,十分にその可能性は考えられます。

でも,こういう説明を聞くと,多くの方は「なんか屁理屈みたい」と感じられるのではないでしょうか。「ルールを大人が勝手に押し付ける」といっても,別に大人が自分の都合で押し付けているわけではなく,子どもが「ゲームを楽しむ」ためにはそれが必要だから教えているわけです。言ってみれば「その子のために」教えているわけですね。もう少し大げさに言えば,世の中「ルール」を守らなければ生きていかれないのだから,それを教えて子どもに「社会性を育てる」ためにやっていることだ,と思う方もあるでしょう。

「子どものため」にやってあげているのに,なんで子どもがそれを受け入れず,「わがまま」で「強情」に「自分勝手」な振舞いをしようとするのか,「わけがわからない」と感じる方も少なくないのではないかと想像します。私も以前はどっちかというとそういう観点で見ていましたし,たしかに私たちの感覚では,それは「おかしい」ことで「わけがわからない」ことなわけです。

そこでまた視点を切り替えてみます。子どもが仮に上に考えてみたように「ゲームは勝つことが目的だ」と理解し,「もともとルールは誰かから押し付けられたものだから,ルールが自分に不利に作られているのなら,それを変えることもできるはずだ」となんとなく感じていたとします。「勝つことが目標」ということも大人が教えたのに,それに向かって一種の工夫としてルールの変更を思いついたのに,今度はその努力を否定されてしまう。そうすると,それを「おかしい」という大人の考え方自体が「わけがわからない」ものにならないでしょうか。

つまり,おたがいに「わけがわからない」状態になってしまっているわけです。その点はお互い様と言えます。

ところでこの「自分に不利なルールを変えてしまう」というのは,実は大人でもやりますね。スポーツなんかで,力の強い国のスポーツ協会が自分たちが勝てるようにルールを変更する,みたいな話をときどきニュースでも見ます。その意味では別に自閉的な子が特別なわけではなく,ある条件の中では人間だれでもやることともいえます。ただ,どういう時にそれが通用し,どういう時には通用しないのか,通用させるにはどういう手続きが必要なのか,ということについての理解の作られ方が「マイルール」を作ろうとする自閉の子と大人で違うのだということです。

ということで,特に自閉的な子どもはこの「わけのわからない」状況の中で必死で生きています。定型の大人は定型的な感覚で社会の基本的な仕組み(EMS)を作っていて,そこにはちゃんと定型的な理屈(規範的媒介項)があるのですが,自閉系の方はそこで感覚に違いがあったりするので,その理屈がぴんと来ないことが多い。わからないから,自分なりに納得のいく理屈(規範的媒介項)を作ってやりとりしようとする。ところが今度はそれが相手には伝わらなくて,また怒られたりする。

自閉的な子は生まれたときからそういう「わけのわからない」世の中の仕組みの中で「わけのわからないルール」を押し付けられて生きなければならない,という理不尽でしんどい経験を積み重ねやすい状態に置かれます。これは想像するだけでも大変そうですよね。

たとえばみなさんが外国に行って生活をすることを想像してみてください。まずは言葉というコミュニケーションの手段がうまく使えないので苦労するでしょう。でも体験されたことのある方ならよくわかると思いますが,たとえ言葉が話せるようになっても,それでうまくコミュニケーションが成り立つわけではありません。常識(文化)が違うからで,その相手の常識が理解できないものだからです。

一つだけ例を挙げてみましょう。ある日本への留学生の人がアパートに暮らしていたら,知らない人が訪ねてきました。その人はその留学生の親友の友達だということでした。そして「10万円貸してほしい」と頼んだそうです。するとその留学生は,親友に確認することもなく,お金を貸したとのことでした。この話,みなさんは「そりゃそうだよな」とか素直に感じられるでしょうか?これは実際にあった話として私は聞いたのですが,その文化ではこれはある意味で「当然そうすべき」とも考えられるようです。

そんな「わけのわからない」世の中の中で,相手の理屈をちゃんと理解して生きることはできない。でも自分もルールが大事だとは思っているから,でたらめに生きることもできない。そんなとき,みなさんならどうするでしょうか?

そういう状況の中で頑張って「ルール(規範的媒介項)を大事に生きる」工夫のひとつと思われるのが,大内雅登さんが「自閉症を語りなおす」の中で提起されている「自己物語」という考え方になります。今回その話をもう少し書くつもりでしたが,ここまで結構かかってしまったので,次回に続きを書くことにします。

 

 

 

 

 

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