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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2025.01.20

「マイルール」と「自己物語」⑤主観的な物語が自己肯定感を生むこと

前回は「支援」の目的は「幸福」を目指すものだよね,というあまりにも素朴な,にもかかわらず時々見失われてしまうようにも思える話でまとめました。その時に大事になることは「幸福」というのは「その人がその人の主観で感じるもの」であって,人から「あなたがどう思おうと,あなたは客観的に幸福なんです」なんていうことはないという,単純な事実です。

たとえばすごく「不幸」な思いで苦しんでいる人に,「あなたは客観的には幸福なんだから,不幸を感じるのは間違っている」と誰かが「教え諭す」という場面を考えてみてください。たしかにその人が自分の幸福な面に気づいていないときで,「言われてみればそこはたしかにそうだ」と思えるような状態にあるときにはそれもおかしいとは言えないでしょう。

でも仮にお金をどれだけ持っているかが「幸福」の「客観的な基準だ」と信じている人がいたとして,その人は自分が不幸なのは「お金をあまり持っていないからだ」と考え,その人から見て「お金持ち」に見える人が「幸福」を感じられずに苦しんでいる姿を見て,「あなたは客観的に見れば幸福なんだから,苦しむのは間違っている」などとお説教をしたとしたら,それこそ「客観的に(他の人の目で)」みたらちょっと漫画のようなものですよね。

いくら言われても本人には納得できない「客観的な説明」を聞いて,その人が幸福にななれるわけがありません。あくまでも「その人が幸福」かどうかは,その人自身が感じて決めることで,人が「客観的」に決めることではありません。

では,幸福はあくまでもその人の主観だから,ということで,人々に共通するものがないのかというとそうでもありません。その人がすごくつらそうにしていたり,苦しんでいたり,悲しそうにしていたり,他の人から見て「不幸」に見えるときは,本人もそう感じていてその理解が共有されることが多いでしょう。(※)少なくとも「不幸」な状態は「幸福」とは言えません。

※ ただし,その状態が極端になると,自分でも自分が苦しんでいることに「気づけない」状態になることはあります。気づくことでますます苦しくなるからだろうと考えられ,「せめて気づかないようにしておく(傷に蓋をしておく)」ような心理的な仕組みがあるように思われます。その場合,少し状況が改善して,その人にゆとりが生まれ始めると,その傷に気付けるようになったりもします。最初に関係が作れなかった発達障がいの子との支援が重なって関係が作れるようになった時,それまでおとなしく見えた子が急に攻撃的になったりすることもときどきありますが,これはそれまで「蓋をしていた」部分を支援者に見せられるようになった場合があります(もちろん支援が失敗して怒っている場合もありますので,その判断は大事です)。その場合は,その怒りをしっかりと対話的に受け止めることで大事な信頼関係につながることもあり,ひとつの大きなチャンスである場合があります。

そして発達障がい児支援の教室にお子さんが通われるようになるきっかけは,やはりこの「不幸な状態」と本人や周囲の人が感じる場合になります。実際状況を聞いてみると,「それは本人や周囲はつらい状態だよね」と思えるわけです。

では何がそのつらさ(不幸な感じ)を生み出しているのかということを理解(アセスメント)していくと,とりあえずは「文字がうまく書けない」とか「計算ができない」「落ち着いていられない」などの「表面的な問題」が見えてきます。ところがさらに深堀をしてその子のそれまでの育ち緯や,周囲の環境(家庭や学校,友達関係など)を聞いていくと,もっと重要なことがいろいろ見えてきます。

その子のつらさは「○○ができない」こと自体にあるのではなくて,そのことを自分でもどうしようもできなくて,人から否定的に見られたり,怒られたりが積み重なることで,自分でも自分を肯定的に見られなくなることにある,ということが分かってくることが普通です。自己肯定感とよく言われるものですね。そうすると,少なくとも自己肯定感が得られない状態は幸福とは言えなさそうです。「自己受容」という言葉もありますが,自分で自分を肯定的に受容できる状態は,その人にとっては幸福な状態であることの大事な要素でしょう。

 

さて,この自己肯定感を「物語」との関係で考えてみましょう。自己肯定感が持てない状態というのは「私って駄目な人間」「人に迷惑ばかりかけている」「しなければならないこともできない」「情けない」「自分には価値がない」「生きている意味がない」……みたいなことをシビアに感じさせられてしまう状態ではないでしょうか。これを裏返して考えてみると,その人には「自分は本当はこうでなければならない」「こういう人間に価値がある」といった自分なりの「基準」があって,その「基準」から見て自分がまったく「ダメな人間」と思えてしまう状態だということだろうと思います。

心理学の方では古典的な研究で,「要求水準」という考え方がありますが,これは自分等に対して「どの程度できることを要求しているか」という話を研究するもので,結構面白い話がたくさんあります。ではこの「基準」とか,心理学の関連する言葉では「要求水準」とかは,「客観的に決まる」かと言えばそうではありません。あくまで「主観的な基準」なのです。

たとえば走るのが苦手な人が「自分はオリンピックに出て100m走で金メダルを取れなければならない」という「基準」を強く自分に課すかと言えば,それは普通ないですよね。ただ,「学校でトップテンを目指す」くらいだったらもしかしてそう考えるようになるかもしれません。でもたとえばアメリカとか短距離走が強いところで代表に選ばれたとしたら,「金メダル」を取ることがその人には「至上命題」のようになる可能性があります。

つまり,この「主観的な基準」には,「自分ってこういう人なんだよね」という自己理解と,「周囲は自分に何を要求しているだろうか」という周囲からの期待の理解が絡んでいることが見えてきます。そしてその基準に達すると喜びを感じるか,少なくともほっとできるでしょうし,達しないとつらい思いをするわけです。それが自分にとって大事な問題に絡む基準であればあるほどそうです。

少し言葉を変えると,そこには「自己理解」と「他者理解」と「世の中から自分に要求されていることの理解」が絡んでいます。簡単に言えば「世の中ってこういうものだよね,自分はこういう人間で,他者はこういうことを自分に期待していて,それにうまく対応できないと自分はだめなんだよね」といった「その人が生きている状況についての物語世界」がそこに成立しているわけです。そしてその「物語世界」は人によって違うという意味で,あくまで「主観的なもの」です。

ですから,自己肯定感を持てずにつらくなる状況というのは,その人が自分自身を肯定できるような「物語」がうまく持てず,逆に「自分を否定する物語世界」の中で生きなければならない状態にあるということになります。逆に言えば「自分を肯定的にみられる物語世界」が成立すれば,それまで受容できなかった自分の姿が違う視点から受容できるようになる,つまり自己肯定感が得られることになります。

カウンセリングなどでも問題になることですが,「欠点」もたくさんある自分のその欠点が完全になくなることはあり得ません。そういう欠点を持った人間として,自分を受け入れて生きていかれるかが大きなポイントになります。「こんな自分だけど,まあそれなりにいいところがないわけではないし,これが自分というものなのかな」と感じられるようになった時,自己受容が起こり,自己肯定感が得られるようになるわけです。いいも悪いも含めて,自分を受け入れられるような「物語」が作れるかどうか,ですね。

そして人はだれもそれぞれの人の「物語」をもって,あるいはその人にとっての「価値観」とか「基準」をもって生きていますので,他の人と一緒に生きるときにはそれぞれの「物語」がどこかで折り合いがつかないとうまく一緒には生きられません。その意味で「物語」は自分にとっての主観的なものであるけれど,でもそれは他の人の「物語」に常に触れ合っていき,そこに大きなズレが起こるときにはなんとか折り合いをつけられるように調整する必要が出てきます。ですから「物語」は単なる主観の問題ではなく,自分と他の人の主観の間の問題でもある,という意味で「(他者の視点から見た自分の主観という意味での)客観性」も必要になるわけです。

生まれたばかりの赤ちゃんがそういう「物語」を持っているとは考えにくいので,生まれた後にだんだんとその人なりに作られていくと考えられますので,その中でその物語はどうやって成立していくのでしょうか。そして何らかの理由でどうしても折り合わない物語を生きざるを得ないとき,ひとはどうするでしょうか。

ここまで問題を整理すると,いよいよ最後の「マイルール」と「自己物語」の関係が見えてくることになります。次回はとりあえずの最終回になりそうです。

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