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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

    ブログ総目次(リンク)はこちらからご覧いただけます。

2025.01.21

「マイルール」と「自己物語」⑥理解できない世界を,模索しながら生きる

さて,いよいよ「自己物語」です。

前回まで人はそれぞれの人がその主観の中に生み出す物語の主人公として生きていて,その人の幸せも不幸せもその物語の中で感じ取られていくのだという話をしてきました。その物語を子ども時代からどんなふうに人は作り上げていくのでしょう?まずはちょっと保育園の子どものエピソードから。

だいぶ前になりますが,保育園に観察に通っていた時のことです。年中くらいの女の子が手を差し伸べながら「おっちゃん,おっちゃん」と近寄ってきて,私にその腕を見せようとします。私が「どうしたん?」と聞くとその子は「あんな,昨日,怪我してん」と言います。見ると腕に傷があってかさぶたになっています。私は「そう,痛かったな」と返すと,その子は「うん」と言って,それで満足したかのように立ち去っていきました。

この女の子にとってはけがをしたというのはわりとショックな出来事だったでしょう。けがをした場面にはいろんなエピソードが詰まっていて,そこにいろんな思いを持っているかも知れません。そこまでを彼女は語りませんでしたし,またまだそこまで細かく語れる力も育ってはいなかったでしょう。

でもその子にとって何か大事な意味を持つのだろうということはわかります。そしてその彼女にとっての「傷ついた」エピソードを彼女は語りたくなったわけです。別にそれで絆創膏を貼ってもらいたいとか,慰めてほしいとかそういうことでもありあませんでした。ただ語って,それを聞いてもらうだけでよかったのです。

子どもは一語文で人と注意を共有できるようになる次の段階で,二語文などで状況を言葉で表現できるようになると,言葉やイメージを操って自分の記憶を人に伝えたり,自分で反芻したりできるようになります。そんな風に自分の体験を語れるようになると,それが記憶としても定着します。そして「自分の体験の記憶(人生最初の記憶)」が生まれるのは,平均的には3歳ごろになります。自分の体験の小さなエピソードの記憶は,それがつながって行けば自分についての物語がそこに生まれていきます。

その物語の中には最初から「他の人」が登場します。その人と自分の間にどんな関係が成り立ったかということで,その物語の色合いも変わってきます。手に傷を見せてくれた女の子のように自分にとってちょっと辛かった体験も,あるいはうれしかった体験も,それを他の人にも語りたくなる,というのも一般的にはこのころからみられるようになっていきます。

もしそこで自分の物語に登場する「他の人」がその自分の語り無視したりを,拒絶的な態度を取ったり,あるいはさらに傷つけるような対応をされたとき,その自分の物語は孤立して悲しいものになって行きます。逆にやさしく受け止められたとき,その物語は自分を見守ってくれる周囲の人との間で暖かいものになって行きます。

悲しい物語が続けば,当然不幸な感じになりますし,そういう自分も不幸な人というイメージになって行くでしょう。その逆もまたそうです。

自分がその物語の中で感じていたこと,たとえばうれしかったこと,悲しかったこと,つらかったこと,腹が立ったことなどを相手に受け止めてもらえるかどうかは,自分の物語が幸福なものになるかどうかの境目にもなってきます。

ですから,相手のためにはその人の「物語」をしっかりと受け止めてあげられるのが理想ですが,誰もが経験するように,うまくいかないことも多いですね。なぜでしょう?

ひとつには自分自身が自分の物語の中で生きるのに精いっぱいで,人の物語なんて聞いていられない,といった場合もあるでしょうし,あるいは相手の物語に反発したりして受け入れがたく感じることもあるでしょう。嫌な相手の物語なんて聞きたくない,という場合もあるかもしれません。

でも,そういうこと以前に,そもそもその物語が何を伝えようとしているのか,何を相手が言おうとしているのかが全然ぴんと来ない,ということもあります。「地雷を踏む」という言い方もありますが,予期せず突然相手が激しく怒りだした。でもなんで怒ったのかが分からない。だからどうしたらいいのかもわからないし,注意のしようもなくなる,といった経験は多かれ少なかれみなさんお持ちではないかと思います。

つまり,お互いの物語がつながって,相手の物語の世界が共有できる感じになるかどうかは人と共に生きていくうえでとても重要なことになります。それを,たとえば「共感」といった言葉で表すこともあります。カウンセラーに「共感的な態度」が求められるのは,その人の物語世界を共有することが,その人の悩みを一緒に解決していくうえでの一番の足場として欠かせないからです。支援で子どもと一緒に楽しめる関係ができるかどうかも同じことにつながります。

 

そしてこのお互いの物語をつなげ,その体験の世界を共有することについて,定型発達者と自閉系の人の間には大きな困難が生まれやすいわけです。その理由については,「目が合いにくい」とか「注目のポイントがわかりにくい」「表情が伝わりにくい」など基本的なことから始まって,コミュニケーションの中でお互いを理解し合う上での困難さに関わる問題をいろいろな角度から考えられます。そもそも体験している世界それ自体にズレがあるのですが(※),ここでは「マイルール」に関係して,もう少し発達の先のレベルでの問題から考えていきます。

※ 次の論文では人の主観的な意識体験の分析に用いられる「志向性」といった概念にもかかわる形で,その基本的な問題を整理してみています。山本登志哉・大内雅登・渡辺忠温(2023).説明・解釈から調整・共生へ:対話的相互理解実践にむけた自閉症をめぐる現象学・当事者視点の理論的検討.質的心理学研究, 22, 62-82.

さて,自分にとっては自然な「物語」が,どうしても相手に理解されない時,あるいは否定されたり攻撃されてしまったりするとき,人はどうなるでしょうか?それでも自分の物語を相手に無理やり「押し付けようとする」人もいるでしょう。そうやって相手を「支配する」方向に進む人もいます。逆に自分では理解できなくてもとりあえず相手に合わせてその場を乗り過ごそうとする人もいるでしょう。あるはもう相手に理解してもらうことはあきらめて「あの人と私は合わないんだ」と思って「さようなら」してもう少し物語が共有できる人を探すかもしれません。

そうやって「この人」と通じ合わないことについてはあきらめても,「ほかの人」で物語を通じ合える人が居れば,それはそれで救われます。「心の友」とか「親友」というのはそういう人の一種でもありますね。

ところが不幸にして周囲にそういう人がほとんど見つからない場合はどうなるでしょう?例えばあることを体験して怒りを感じ,だれに言っても理解してくれなさそうと思い,やっとの思いで「こんなひどいことがあったんだ」と信頼している人に打ち明けたら,相手は全然まともに理解してくれず,「気にしすぎじゃない?」などと返されたりしたとしたら,どんな気持ちになるでしょうか?

そうなんですね。私が自閉系の方たちと付き合いが深まっていくと,その方たちは物心ついたころからそういう「誰にも理解してもらえない」世界の中で傷つきながら必死で生きてこられたという場合によく出会うのです。ところが悲しいことに,それを聞いている私自身が,そこでなぜ傷つくのかがピンと来なかったりすることも少なくなく,そうすると,これまで自分が自閉的な方たちとのかかわりの中で,どれほど無自覚に相手の方を傷つけてきたのか,ということを想像してみて暗澹たる気持ちになったりします。

 

こういうとき,「誰にも自分の物語を共有してもらえない」という「諦め」が生まれるのも不思議はないですよね。そうするともう人と付き合うのはつらいだけになって,「引きこもり」になることがあります。私がこれまで接してきた方の中にも,高校以来不登校からずっと引きこもりを20年とか30年とか続けてこられた方もありますが,やはり「諦め」がベースにあって,その中で人とかかわらずに作り上げていく「自分だけの物語」が大事になっていく様子を教えていただけたりします。

そういう方のコミュニケーションの中には,定型的な視点から見るとやはり理解がむつかしいものが少なくなく,またその表現にこちらが傷つくこともあります。定型から見ると「人のことを考えない」「相手の気持ちがわからない」人にも見えます。言ってみれば相手との関係をいいものにしていくための「常識」や「気遣い」「規範」が身についていない人に見えたりするのです。

ところが付き合いが深まっていくにつれ,それがなんとも一面的な「偏見」であることにいやおうなく気づかされます。具体的な例はたとえば「自閉症を語りなおす:当事者・支援者・研究者の対話」(新曜社刊)に大内さんが書かれたエピソードなどをお読みになればわかりますし,あるいは「逆SST」のサンプル動画をご覧になっても,かなりリアルに驚きをもってそれが実感できるでしょう。

たとえばやりとりの中で相手を傷つけるように感じられる発言をたびたびする方は,「相手を傷つけても平気」なのではないんです。その証拠に,コミュニケーションがつみかさなってきて,その中で何かのタイミングで自分が相手を傷つけたということを知ると,ものすごく落ち込まれたりします。「相手を傷つけるのはよくないこと,してはならないことだ」という思い,そういう「常識」「規範的媒介項は」,全く共有されているのです。

ところが「何が相手を傷つけることなのか」についての理解がズレてしまう。だからそんなつもりはないのに結果として相手が傷ついてしまう。そしてここが大事だと思っているのですが,それは自閉の人が定型の人を,だけではなく,同じように定型の人が自閉の人を全く無自覚に傷つけていたりするわけです。

私の感覚からすると,むしろそういう「規範」や「ルール」を守ろうとする点では自閉系の方の方がよほど厳格で,いいかげんな私などは「もう少し融通を聞かせてもいいのに」と感じることもあります。

つまり,「規範意識が育っていない」とか「常識がない」のではなく,人とのかかわりの中でどういう付き合いの仕方をしたらいいのかについてとても深く考えられていることが多いのですが,その内容が定型に理解しずらいことがあるので,そう見てもらえない状態にあるわけです。問題は「規範的媒介項の有無」ではなく,その「内容のズレ」にあるわけです。(※)

※ この問題について言語学系の学会「社会言語科学会」の雑誌に投稿した次の論文が正式に審査を通り,今年の9月に掲載されることが決まりました。この論文の中では言語学でいう「語用論」に絡めて問題を論じました。言語学的には知的な遅れのない自閉系の方は「統語論」や「意味論」ではなく,「どういう場でどういう言い方が適切なのか」を理解する「語用論」に問題があるという見かたの研究があるのですが,そこで私が結論として論じたのは「自閉系の人は自閉系の人の体験世界の中で定型とは異なる語用論を作り上げていく」という可能性を考えていくべきだということでした。

山本登志哉(2025掲載予定)自閉症者と定型発達者のディスコミュニケーション:規範意識のズレとしての葛藤分析と共生への模索 社会言語科学 No.28

その自分にとっては当たり前に思える「規範」や「ルール」が相手には理解されないという現実を嫌というほど味わったうえで,それでもなお引きこもらずに人と付き合おうとする場合,定型的な「規範」や「ルール」はうまく使えなかったりしますから,自分なりのルールを考えて,それで人とつきあおうとします。

これは別に自閉系の人に限られたことではなく,定型でもたとえば異文化の中で暮らしていると,相手の文化の考え方がよくわからないので,どうしても自分の感覚で「こういうものだろう」と決めつけて,それをその人たちと付き合うためのルールにしてしまうことがよくあります。それと同じようなことです。

ただ,自閉系の方の中の特に「頭がすごくいい」方の場合,それが「自分なりのルールで,相手に共有されるものではない」ことまで意識されることもあります。けれどもそうであっても自分がルールなしに相手とコミュニケートすることは自分自身にゆるせない感じにもなる。もともと「ルール」とか「規範」というのはたとえ自分が損をしたとしてもそれを守らなければならない,といった意味を持ちますので,その感覚が強く働くのではないかと想像します。

「ほかの人には共有されない自分の物語」の中で,自分がほかの人と自分なりに納得して生きていくうえではやはり「ルール」「規範」を失うことはできない。だから,たとえば大内さんがほぼ間違いなく寸借詐欺だろうという人に出会ってお金を求められたときも,「相手が困ってお金を貸してくれと言っている」という風に場面の意味を理解すると,「本当は嘘なんだろうな」と思っていても「困った人は助けなければならない」という大内さんの強い倫理観が働いて,お金を貸してあげたりするんですね。大内さんが「自閉を語りなおす」で「自己物語」という言葉で説明されていることは,私の理解ではそういったものです。

 

さて,これで「マイルール」と「自己物語」の関係がはっきりしてきたのではないでしょうか。自閉系の人も,当然人との付き合い方については悩み続けています。そしてなんとかうまく付き合いができるようにそこでの「ルール」を理解しようとする。ところがどうにもそこがピンとこない。むしろ自分の感覚からすると,「変なこだわり」「意味のないルール」にも見えてくることさえある。

それでなんとか自分でも理解できるような,できれば自分にも納得できるような形でルールを理解し,それを使おうとする。ただそうなると今度は定型の側がその意味が分からないことが起こる。

ルールというのは「相手と共有される」ことが必要だし,そうできるものだ,と定型は自然に考えていますので,ここで自閉系の人が「ルール」を持ち出しても,それは共有されにくいので,まともな「ルール」としては感じられず,その人が相手を無視して自分の都合で勝手に決めている「ルール」にしか見えなくなります。つまり「マイルール」なわけですね。

最初に書いた「勝手にルールを変更する」ということも,以上の流れの中でその意味を考えてみましょう。

平均的な知的発達では年中から年長児にかけて,たとえばサッカーなど,ルールのある遊びを子どもたちが自分たちでなんとかこなすようになり始めます。そのベースには前に説明したように3歳くらいまでにEMS(拡張された媒介構造)が成立していることが前提になるのですが,ルールを身に着けていく過程では,いろいろ試行錯誤していくことになりますし,そこでは当然のように「ずるをする」こともその試行錯誤に入ってきます。

ただ,ずるをしてしまうと怒られるだけでなく,そもそもゲーム自体が面白く展開できなくなりますので,そういう経験も含めて「ずるはしてはいけない」という意識も育っていくのでしょう。そこには「他者との関係調整」の意識も強く働くと思われます。

定型の子どもは,そのあたりの定型的な関係調整の感覚が大人や周囲の子どもと共有されやすいので,比較的早く「ずる」をある程度卒業するようにも思います。ところがこの定型的な感覚がピンとこない場合には,どうやって関係調整ができるのか自体が見えにくいことになります。そして3回目に書いたように,ルールは大人が勝手に押し付けてくるものだと感じられたとしたら,当然自分も試行錯誤の中で勝手にルールを変更してもそんなにおかしいこととは感じられないかもしれません。

つまり,「勝手なルール変更」というのは,「ルール」によって一緒に相手と何かをする,ということを学び始めたときに,そのルールの意味をその子なりに理解するための試行錯誤の一つである,という可能性がそこで見えてくることになる訳です。

もしそうだとすれば,「ルールを変えるのはずるい」と子どもに教えようとする支援にはあまり意味がなさそうだということになります。それよりもむしろ「いろんなルール変更を試してもらって,どれが一番面白いか」ということを自分なりに模索の中で発見し,そこから「楽しく遊ぶためのルールの意味」を本人の視点を踏まえて納得していくみちを探る方がよい可能性が見えてきます。

 

大枠の理解は多分そんなに大きくは外れていないように想像するのですが,細かいところでも本当にそうかどうか,何とも言えません。さらに違う視点から考えるべきこともありそうにも思います。現場の皆さんとそういう視点から本当にそうなのか,研究をしてみても面白いですね。

 

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