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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2025.01.28

自閉系の方がマニアックになる時

私の印象にすぎませんが,自閉系の方の中に,ある領域についてものすごくマニアックに細かい知識をたくさん持って,それを語りだしたら止まらない勢いになる方がいらっしゃることを経験します。

たとえば自動車が好きな方が,いろんな形式の車種を年式の違いまで知っているだけでなく,そこに使われている部品の種類の変化まで細かく理解されていたり。そういう話を嬉々としてしていただいても,知識もなく,関心もそれほどない側としては,あっけに取られて聞いているだけになりますが,最初は面白くてひたすら傾聴しているといつまでたっても終わらないので,私の方はやがて疲れてしまってどうしたものか戸惑ったりすることもあります(笑)

 

それで,極めて大雑把に生きている私としては,なんでそういう細かいことがそんなに楽しいのかなと興味があったのですが,この問題をコミュニケーションを通して「他者とどのように自分の世界を共有するか」という問題として考えると,面白いものが見えてくる感じがしてきています。

まずひとつめの前提はこうです。自閉と定型とでは感覚に違いがあったり(それを定型視点から否定的に評価すれば「感覚過敏」とか「鈍麻」とか言われますし,中枢性感覚統合の「弱さ」が問題になったり),注目点や利用する情報に違いがあったり(定型は大雑把に全体を,自閉は比較的小さな範囲で細かくとか,他者の視線や表情への注目や理解の仕方とか),コミュニケーションの規範の作られ方にズレがあったり(※),言ってみればこの世の中をどんなふうに体験して理解するか,というところでお互いに気づきにくいかなり重大な違いが多くあるので,「相手の言動がわからない」という思いに駆られることが頻繁に起こります。

※ この問題については9月に出る「社会言語科学」28号に掲載が決まった,「自閉症者と定型発達者のディスコミュニケーション:規範意識のズレとしての葛藤分析と共生への模索」でも実例を通して論じてみました。

 さて,そうなると,ふたつめの前提として,自分が体験していることや思いについて相手に説明しようとしても,それがすごく伝わりにくいわけですが,多数派である同じ定型同士だと「伝わりやすい世界」がそこに普通にありますから,その点では自閉の人に比べて苦労は少なくなります。けれども少数派で孤立しやすい自閉の方は,圧倒的に「お互いの思いは伝わらないものなんだ」という理解が生きるうえで大前提になりやすくなります。

そういう「伝わりにくくて苦労が多い」世界の中でもなんとか自閉の方もコミュニケーションを取ろうとしますから,そこで定型とは異なる工夫がいろいろ出てくることになります。

たとえばクレーン現象というのが発達の初期の自閉の子のひとつの特徴としてよく上げられますが,これは言葉などの記号によって,相手の意図を理解したり自分の意図を伝える,という仕組みを作っていくことが,上に書いた「注目点に違い」(村上靖彦さんが「自閉症の現象学」のなかで,「視線触発」といった概念で説明されようとしているところにもつがなることでもあります※)によって困難になってしまうので,やがて苦労して言葉によってそれを伝える方法が身についていくまでは,伝えかたがわかりにくい自分の意図を直接に手を持って「物理的に伝える」ような伝え方の工夫に変わっています。

※ この問題については以下で論じています。 山本 登志哉, 渡辺 忠温, 大内 雅登(2023)説明・解釈から調整・共生へ:対話的相互理解実践にむけた自閉症をめぐる現象学・当事者視点の理論的検討,「質的心理学研究」22 巻 1 号 p. 62-82

 さて,そうやってお互いに自分の思いを伝えたり理解したりすることが困難になってしまう自閉=定型間ですが,その中でも比較的人と共有しやすい世界もあります。それは「物の世界」です。たとえば私が今見ているパソコンは,隣の人にも「見える」わけですし,私がそのパソコンを「見ている」という体験は,相手の人と共有しやすいです。もちろんたとえば手の中に隠しているものなら相手は「見えない」わけですが,でも手を開けば共有できます。

それに対して,たとえばこのパソコンを私がどう感じているか,魅力的に思うのか,使いにくいと感じているのか,好きなのか,嫌いなのか,そういった「評価」といった「思い」の部分は伝わりにくいですし,表情などを手掛かりに「感じ」たり「推理」したりするしかないのですが,ここはやはり物の世界のようには「見えない」世界なので,共有しにくいのは定型でも同じでしょう。

ただ,定型はその「見えない」世界を共有するためのことばなどを,お互いのコミュニケーションの経験の積み重ねでどんどん発達させるのですが,そういう定型的なコミュニケーションの中で作られていくことばの意味は自閉系の人は共有しにくいところがあるので,「言葉でお互いの主観的な思いを伝えあう」というコミュニケーションスタイルは取りにくくなります。

そうすると,自閉系の方も当然「思い」の世界はたっぷり持っていますし,私の経験では感性がものすごく豊かな方もたくさんあるので,それを共有出来たらうれしくもあるのですが,定型的な「思いを伝えあう」コミュニケーションスタイルはピンとこないので,自分に合ったやりかたを工夫することになります。

そこで生まれる一つの方法が,「具体的な物によって自分の思いを細かく表現する」というスタイルだと思えるわけです。自分の豊かで繊細な感情や理解の世界は,「物」の世界を細かく分析してみることとつながっていきます。ここは本当はもう少し細かい議論が必要になるのですが,とりあえず大雑把に言うと,その場合「物」=「思い」という関係になっていると思われるのです。

だから,理解されにくい自分の思いの世界を,なんとか人と共有しようとするとき,「物を細かく分析して作られた自分の思いの世界を相手に伝える」という形になることがある。「物」の世界はとりあえずは伝わりやすいという経験がそのベースにあるからでしょう。

大内雅登さんは,自閉のお子さんとコミュニケーションをびっくりするくらいに上手に作られますが,その時の一つのポイントは,この「物による思いの表現」に大内さんがとても敏感で,それをかなり的確に掴まえられるので,子どもが「自分の思いが共有された」とうれしくなるからだろうと思えます。

 

この話に「自他関係の理解の作られ方」とか「視点の違いの理解の仕方」という点からの自閉=定型間の特性の違い,そこに生み出される「当事者視点のズレ」の問題を加えて考えると,もう少し説明可能な部分が増えてくると思っているのですが,それはまたいずれ説明してみることとして,とりあえずこんな視点から「マニアックになる自閉系の方の思い」を考えてみると,こういう理解の仕方もありうるなあと思えるのでした。

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