2019.10.14
保護者の思いをつなぐ
「障がい」というのは、「健常」とか「定型」と対比されて定義されるように、その世の中で平均的に通用しているやり方や理解の仕方では力が及ばないために、特別の理解や対応が必要である、ということで「障がい」と考えられるものです。そうすると、通常の平均的な子育ての仕方でも対応できない部分があるので、障がい児を抱えた保護者は周囲の多くの人たちのような通常のやりかたをしている人たちから理解されたり、サポートされることもむつかしくなります。そうやって孤立してしまいます。
そういう孤立状況を少しでも緩和するため、各地の保護者懇談会(ママカフェなど)にファシリテーターとして呼んでいただいて皆さんのお話を聞かせていただくことがあります。お一人お一人が直面している状況や困難は様々ですけれど、参加された方に順に自己紹介を含めてお話をしていただくと、語られることには多くの共通点があることにも気づきます。
私の話の受け止め方の傾向も影響しているのかもしれませんが、そういう保護者同士の集まりの場では、現場の療育スタッフへの相談ではよく出てくる「椅子に座れないんだけど、どうしたらいいでしょうか」のような、個別の療育方法についての質問はほとんど出てきません。そういう個別の困難の話よりも、「子どもが障がいを抱えている」と言われている状況をご自分がどう受け止めたらいいのか、さらには周囲の人がなかなか理解してくれない状況にどう対処したらいいのか、というところで苦しんでいらっしゃる話が中心です。
ひとりひとりそれぞれのそういった思いを語り合われる中で、お母さんが思い余って泣き出されることもしばしばです。それだけ大変な思いを抱え込んでつらい状況になられてるのだろうと思います。
その時、これは必ずと言ってもいいと思いますが、それを聞いていたほかのお母さんたちが泣き出されたお母さんを温かく見守る状態が起こります。どなたも口には出されませんが、ご自分も同じ思いを抱え、あるいはそういう思いを経て今そこに場を共有されているのだ、という気持ちが自然と伝わってきます。
終了後もそういう場でなければ誰にも共有してもらえない思いが語れ、また聞けることがとてもよかったという感想も多く寄せられます。私は専門家の一面的なかかわりよりも、そういう当事者家族同士の場の共有の方が、よほどお互いを支えあう力を持っているように感じることがよくあります。
当事者には当事者にしかわからない思いがある。専門家もその人自身が当事者でない限り、その当事者の直面する困難を十分理解することは不可能ですし、分かる面についてもそれにある程度対処し、支えることができるのはごくごく一部の側面にすぎません。考えてみればそれはとても当たり前の事なのですが、そのことを踏まえた保護者への支援とは何なのだろうかというと、やはり「つなぐ」ことなのかなという気がします。
保護者懇談会でのファシリエータという役割も保護者同士を「つなぐ」役割になります。また個別の相談に乗るときも、それまで経験した多くの他の保護者さんたちのことを思い出しながら、間接的にその保護者さんたちの経験を目の前の保護者につないでいるという風にも言えます。
また、保護者が通常は持っていない発達心理学の知識など、特定の面に特化したいろいろな理解の仕方に、保護者の理解をつなぐ、という役割もあります。
そんな風にいろんなつながりを生む場の一つとして、このはつけんラボが育っていくことを願っています。
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