はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2020.06.24

意味の共有について:主観と客観のはざまに生まれるもの

ここでは「当事者の視点」にこだわって考えています。発達障がい者には発達障がい者の特性に応じて、そこに影響されたり、あるいはそこを足場にしたものの感じ方、考え方があります。そこを無視した「療育支援」は単純に定型発達者の理屈に従わせようとするだけになってしまい、「当事者」の主体性を無視することになってしまう、という考えられるからです。

そうすると当事者はいつも自分が自分であることを否定して生きなければならなくなる。自分にとって素直に感じられることを否定され、否定することが「正しいこと」だと思わなければならない立場に立たされるからです。

もちろんその当事者の視点が定型発達者にとっても「正しい」のだというわけではありません。定型発達者には定型発達者の特性に合わせた「正しさ」があるからです。発達障がい者を定型発達者の「正しさ」で支配してはいけないように、定型発達者を発達障がい者の「正しさ」で支配してもいけない。どちらの場合もそれが強まるほどに悲劇を生み、それは共生ではなく、従属になってしまいます。

今は定型発達者が優位な社会ですから、主に従わせられるのは発達障がい者という形になっていますが、部分的には逆のケースもあり、どちらにしても悲劇が生ずる例をいくつも見聞きしてきました。

ということで、そのことに私が気づいてからは、できるだけ当事者の方の意見を聞いて、それを理解しようと努めてきていますが、もちろん「理解しきる」などできるわけもありません。自分の事でさえよくわからないのに、人の事なんて、という言い方もありますが、そこにさらに特性の違いが加わることで、定型的な常識が通用しない部分も出てくるので、ますますむつかしくなります。

そういう「理解のむつかしさ」に直面した時に人が取る態度の一つが「客観的に理解する」というやり方です。これはその人を「外側から」理解する視点です。そしてもうひとつがあくまでその人の内側から理解しようとする態度を貫こうとするやり方です。大雑把に言えば前者は「脳の問題」と考えるなど、生理学的な視点から分析したり、統計的な数値から「平均からの外れ方の特徴」として定義しようとしたり、といった見方になりますし、後者は「心の問題」というような形で、共感的に理解する道を探ろうとする見方になります。

例によってどちらにも有効な範囲と限界があると私は思っていますが、そのことを踏まえたうえで、ここでは後者の見方をより重視しています。なぜなら前者の見方が今はあまりに強調されすぎていて、そのことがかえって当事者とその周囲の方たちを困難に追い込んでしまっている部分が目立つように感じているからです。

それは「なんのための療育支援なのか」という目的が問われないままに、ただ何か数値で表現できるものを探してきて、それで測定して「客観的」な理解としてしまうようなやりかたにもよく表れています。問題はその数値が本当にその人の幸せにつながるものなのか、ということなのですが、そこの検討がおろそかになり、その数値がその人にとって持つ意味が見失われてしまうとき、それはその人をわけのわからない努力に追い込んでしまい、苦しめてしまうからです。

言ってみれば、必死で学校のテストの点数という数値を追い求めて努力を続けたけど、それで点数が伸びてもそれが直接幸せにつながるわけではないのと同じです。「なんのための勉強か、何のための点数か」という「意味」が見失われると、ただ形だけを求めて中身がない人生になってしまうわけですよね。お金も同じことで、お金があればうれしいし、最低限は必要だけど、お金がたくさんあるからその分幸せなわけではありません。それをうまく使えば幸せにつながるし、下手に使えば不幸せにつながります。大事なのは意味ある使い方でしょう。

ということで、ここでも「意味」が大事になるわけですが、でもこの「意味」がまた曲者です。数値にこだわるタイプの方も、別に人を不幸にしようとしてそうされているわけではないだろうと思います。ただ「意味」が実に曲者で共有できにくいから、もっと人と共有できる形を探ってのことだと私は理解しています。

たとえば私はブランド物を重視する感覚が薄いので、その分安上がりな人生ですが(笑)、つまりは「ブランド物の意味」が分からない人間です。でもブランド物を重視する方にとってはそこにとても大きな意味があります。「物」は私にとってもその人にとってもそこに「ある」わけですが、その「物」の意味はある意味で私の中にあり(正確に言うと私とそのものの間にあり)、そしてまた違う意味がその人の中にあって、私とその人では「意味」が共有されないのです。

「意味」というのはそういう点でものすごく主観的なもので、人と共有されることもあれば共有されないこともある。数値化されるものを「客観的」として重視する考えは、そこが大きな理由になりますね。数字は人と共有されるけど、意味は共有されないというわけです。(※)

実際、自閉的な子が手をひらひらさせてみているときに、その子にとってはその行動になにかの意味があると考えられますが、その「意味」を共感的に理解するのは簡単ではありません。東田直樹さんが「自閉症の僕が跳びはねる理由」などで説明してくれるように当事者が語ってくれることで、ようやく少し想像できる部分も広がりますが、でも自分がそうしたいと思うレベルまで共感できるわけでもありません。「ああ、あの人はそういうことなのね」という感じで少し距離を残して理解ができる感じです。

そんなふうに、意味の世界は人と人の間で重なり合う部分が作れますが、完全に一致する状態というのはちょっと想像できません。その限りで意味は「客観的」にはなりきれない「主観性」を残し続ける世界なのです。

でも主観的だから意味がないわけではなくて、主観的だからこそ意味があるわけですよね。蓼食う虫も好き好きと言いますが、ある食べ物について、「これは客観的にはおいしい食べ物なのだ」と仮に言われたとしたら、「何言ってるのこの人?」と思いますよね。「そりゃあなたがおいしいと思っているだけでしょう。なんで私にそれを押し付けるわけ?」ということになります。それが意味の世界です。私の主観的な感じ方を抜きには語れない。それを無視されてまずいものを強制的に食べさせられたら不幸にしかなりません。

とはいえ、話は行ったり来たりするのですが、じゃあ完全に主観的なものかというとそいういうわけでもありません。これも食べ物の話でいえば、私は昆虫というのは苦手です。日本でもイナゴなどを食べるところは結構ありますが、あのイナゴの佃煮とか出されても、なかなか手が出ません。中国の山東省であるお宅に招かれて食事をしたときに、セミのさなぎを炒ったものを出されて勧められ、酔った勢いで一つだけ食べましたが、それは食べないと失礼かと思って無理やり食べただけで、うれしくも何ともありませんでした(笑)

でもイナゴも好きな人はおいしそうに食べてますし、セミのさなぎもそうです。子どもたちはおやつ代わりに喜んで食べてました。何でそういう差が生まれるかと言えば簡単なことで、要するに食べなれているかどうかの違いだけです。大人がおいしそうに食べていれば、子どもも抵抗なく食べるようになり、やがてその「味わい方」を発見していくわけですね。

というわけですから、「経験を通して意味が共有されていく」ということも起こります。流行現象もその最たるものの一つです。みんながいい、いいと言っているから、自分もなんだかいいような感じがしてくる。そのうちにその「良さ」を自分でも発見し、実感できるようになってはまり込み、さらには人にもそれを伝えて、その人も巻き込んでいく。そんなことがいろんなところで普通に起こっています。

意味はそんな風に経験を通して人と共有されつつ、でも上で自分はブランド物にあまり価値(意味)を感じないタイプと書いたように、すべての人が同じ意味を共有するわけでもありません。一部の人が共有するとそれは「趣味」と言われます。共有してくれる人がほとんどいなかったらそれは「変なこだわり」と言われます。ある集団の多くの人が共有してくるとそれは「文化」と呼ばれます。意味はそれが共有される人の範囲の違いでいろんな風に受け止められるのですね。

そして特に自閉系の人の場合、その人にとっての大事な意味が共有されることが少ないために、「こだわり」と否定的に見られやすくなります。周囲の多くの人にとってはその意味が共有されず、周囲の人の間では「変な行動」という意味づけが共有されるので、それは「障がい」の「症状」という社会的な意味づけが与えられます。

少数派の発達障がい児・者が直面しやすいのは、そういう「自分にとって意味がある」と感じられるものが周りから意味を認められにくいこと、もっと言えば「否定的な意味」を与えられてしまうという事態です。

実際、定型発達者の感覚から言えば、東田さんのように「跳びはねる」のは「意味がない」ように感じられてしまいますし、そう感じるのは周囲の多数派が共有する「意味の感覚」ですから、その意味で「客観的に意味がない」というふうにも思えてしまいます。でもそういう問題じゃないんだよな、ということが、上に説明した「意味の意味」からある程度分かっていただけるのではないでしょうか。

意味は主観的なものであり、かつ客観的に共有されるものでもある。けれども「物がそこに客観的にある」というような話とは違って、意味はその人の見え方によって異なる現れ方をするので、必ずしも共有されるとは限らず、共有する人の範囲は大きかったり小さかったりする。意味を共有する人が多ければその意味は「客観的なもの」と思われやすくなり、少ないほど「主観的な変なもの」と見られたり、さらにはそもそも「意味がない」と思われたりする。そういうことと考えられるわけです。

そして当事者が感じる「意味」はしばしば少数派の「意味」になるため、人から認められにくいという「生きにくい世界」がそこに生まれてしまうわけです。

この「生きにくさ」という問題にどう対応していったらいいのか。それは二次障がいを減らすことにも直結する問題なので、さまざまに探っていく必要があるだろうと思っています。

※ ということで、意味も数値化して表そうとするいろいろな試みもあります。心理学では意味微分法(SD法)などに代表されるように、質問紙などを使って多くの人の答え方から心理的な物差し(尺度)を作って、意味の世界を数値化しようとしたり、その物差しで人を「測る」というようなことを工夫したり、さらにそういった物差しを組み合わせて多次元的に意味を理解しようとしたり、といったことをやります。とはいえ、そこでの「意味」はある集団内部の平均的な反応を基準に理解されるもので、個々人の意味はその枠組みに当てはめられて大雑把な傾向やタイプとして理解されるだけです。さらに言えば多変量解析の一種である因子分析などの手法にもみられるように、計算結果をいくつの次元(因子)で解釈するかは解釈者に任されていますし、解釈者が設定する次元数を変えれば同じデータから出てくる意味の空間の構造も変わってしまいます。そこで数学的に出てきた次元が何を意味しているのかもまた解釈者の主観的な解釈に依存しているので、その意味では絶対的には客観的なものではありません。それは数字を使った「主観的な意味づけ」なので、結局問題は数値化されない意味の問題に戻ってしまうわけです。

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