2024.02.25
落語の「間」と関係調整
発達障がいもそうですが、いわゆる障がい者が苦労するのは、周りの人と「違う」からです。「違う」から理解されない。誤解される。だから「そうじゃない」と言ってもまたそれが理解されない。そして「あなたがおかしい」と言われ、「困った人」になる。
でも「違う」というだけなら、すべての人はみんな「違う」わけです。一卵性双生児のように遺伝的には「同じ」で、まるで以心伝心のようにお互いが通じ合うことがあり、いろんな面で「似ている」人を見ると逆にびっくりしたりすることがあるのは、もともと人はみんな違うと誰もが思っているからです。そのように似て見える一卵性双生児だって実は全く同じではない。
お互いに違うと、相手のことが理解できないことがたくさん出てきます。それでいろんな衝突も起こります。一緒に何かをすることがむつかしくもなる。だから、なんとかその「違い」に対処しないといけなくなる。完全「同じ」であることはあり得ないんだけど、「まあだいたい同じだね」というところを見つけて、それで折り合いをつけて生きています。
その折り合いのつけ方にはいろいろあって、それもひとそれぞれですが、いつも一緒に暮らしている人たちの間には、なんとなく似たような折り合いのつけ方が作られて、個人を超えた「その人たち」の特徴になることもある。それが「文化」です。
だから「文化」が違うと折り合いのつけ方が違い、お互いに折り合いのつけ方が違うと、それこそうまく折り合えなくなることがある。それが「文化間対立」になるわけですし、違う文化に入って大変な状態になる「異文化不適応」もそういうことです。
「違う」という意味ではあらゆる人がそうなわけですけれども、障がいの「違い」は特別扱いをされます。それはその人が生きる社会での折り合いのつけ方ではうまくいかないことが多いからです。だからその社会で主流の折り合いのつけ方を身に着けて生きている人からすると、いつものやりかたがうまくいかずにどう対応していいか困ってしまうことが起こりやすくなり、「障がい者」とされた人も、どうまわりと折り合いをつけたらいいかを周囲から学ぶことも難しく、困って苦しむことになる。
人は自分の体を取り換えることができません。自分の過去を取り換えることもできません。「なりたい自分」を頭で考えて、自由にそうなることは最初から不可能です。多少変えられる部分はあるけれど、どこまで変えられるかも自由には決まりません。変え方だって自由に選べません。「この自分」で、何とか周囲と折り合って生きていくしかない。「障がい」があろうがなかろうが、これもすべての人の共通の条件です。その、どうしようもない自分のことを「業(ごう)」ということばで表すことがあります。
漫画「テルマエ・ロマエ」の作者、ヤマザキマリさんがyoutube上でやっている「ヤマザキマリラジオ」というのがあることを知ったのですが、去年のお正月には落語家の立川志の輔さんがゲストになってトークをしてました。
これがほんとにおもしろかったんですが、その中に、日本の落語の特徴について欧米の一人話芸と比較して話し合われている部分もあります。何が違うかというと、日本の落語で一人二役をして登場人物の会話を進めるとき、首を左右に振ってどっちが話しているのかを示したりしますが、それ以上今誰がしゃべっているかは説明しません。「お、熊か。なんだ?」「いや、横丁の大家に今そこで会ったんだよ」「うん、それで?」「それがよ、今度店子みんなに頼みたいことがあるっていうんだよ」「え?またかい?」……。
ところが欧米の一人話芸では、間に誰がどういう状況で話しているのか、ひとつひとつ説明の文が入るというのですね。たとえば「江戸の長屋の八っあんの家に、友達の熊が訪ねてきました。それに気づいて八っあんは『お、熊か。なんだ?』と言いました」みたいな感じかもしれません。
言ってみれば「脚本」の「セリフ」の部分だけで成り立つのが落語で、ト書きまで入れないと成り立たないのが欧米の一人話芸だというわけです。なぜ成り立たないかというと、「主語」や「状況」が「ことば」で語られなければ伝わりにくいからです。そこがなければそこを補って読み解くしかありません。
この、「できるだけ詳しく状況をことばで説明する」のか、「細かいことは説明せずに相手の想像に任せる」のかという違いも、「違う」ものどうしの折り合いのつけ方の違いを表しています。
どういうことかというと、二つポイントがあると思えます。ひとつは「長く一緒に暮らしている夫婦は、言葉で言わなくても相手の言いたいことが分かるようになる」みたいな話です。
日本では(たぶん)古墳時代以降はもうあまり大量に「異民族」が流入してくることがなくて、アイヌ系(蝦夷)や隼人などとの異民族間対立は残っていたものの、縄文文化と弥生文化の融合もすでにかなり進んでしまっていて、出雲系とヤマト系の対立も「国譲り」で終わりましたし、「お互いに言わなきゃわかんない」部分がかなり少なくなってしまっていたのに対し、ヨーロッパもそうですし、中国もそうですが、歴史的に言葉も価値観も違うもの同士、つまりお互い理解しにくいもの同士の衝突がずっと続き続け、わかんないから言葉や理屈で説明することがすごく重視されるようになったという話です。
自閉系の人も、定型的なコミュニケーションのやりかたがぴんと来ないことが多いので、定型がほとんど何も考えずに無意識で自然にやっていることを、改めて言葉で丁寧に説明することが必要になる場合が多くあります。逆に自閉系の人のふるまい方は定型にはぴんと来ないことが多いので、たとえば大内雅登さんのように自閉系であり、かつ言葉でものすごく説明する力のある方から教わる必要がある。でも定型同士とか、自閉同士だと言葉の説明があまりいらなくなったりする。それと同じですね。
折り合いのつけ方のもう一つのポイントは、「間の取り方」です。
違うもの同士が「相手を理解する」には時間がかかります。普段の自分の理解の仕方で理解してしまうと、ぜんぜんズレちゃうことが多いので、一度立ち止まって「このひとは何を言っているのか」を考える必要があるからです。その思考を言葉で相手とやりとりしながら進めるのが欧米的で、いろいろしゃべるのではなくて自分の中で想像しながら調整していくのが日本的、ということになります。欧米的には「相手はほんとにわからない」ということを身に染みているので、「言葉で意識的に調整する」のに対して、日本では多くの場合「まあだいたいお互いにわかる感じ」を持ってるから(もちろんそれが誤解であることも多いのですが)、ことばにまだならない段階の「雰囲気を察することで調整する」方向に行く。
そうすると、日本人同士の関係では「お互いに言葉にせずに察し合う」時間を重視し、「間」の取り方が大事になる。「まず自己主張」や「議論」ではなく、お互いに一歩引いて「察し合う」ことが大事になるわけです。だからことばでも主語が目立たない形になる。
そういう察し合いが非常に重視され、その察し合う力がものすごく鍛えられている社会だから、そこでの笑いの文化である落語でも、いちいち状況を言葉で説明することがいらなくなるし、逆にあまりたくさん言葉で説明すると息苦しさを感じたり、うっとうしくなったりするわけです。
そんなふうに「間をとる」ことは、支援の中でも重要になることがよくあります。子どもが葛藤状態でパニックになったりするときに、「クールダウン」の場所や時間をとってあげるというのもその典型的なものの一つです。気持ちを落ち着けてもう一度状況を見て整理して考えてみるチャンスを作るわけです。これは定型が発達障がいの子に対するときにも重要になっています。なにかがうまくできないときに、「なんでこんなことができないの!」とその子に怒るのではなく、「どうしてこの子はできないのかな?」と一歩引いて考えてみることが何より重要になります。そうやってお互いに距離をとって調整する。ある意味日本の文化で重視されてきた方向ですね。
この「間をとる」やりかた、そして「あまり積極的に言葉にしないで、余韻を残そうとする」というやりかたは、「お互いの感じ方の違いを大事にする」という意味を持つことがよくあります。たとえばある絵画を二人で見て「この絵、すごくいいね」「そうね」と会話してお互いに満足するとき、「いいね」は共通しているのですが、その絵の何がいいのかについては何も語られていません。それで、そこを詰めていくと、お互いにぜんぜん違うところで「いいね」と思っていたりすることがあるわけですが、そこは問題にしないようにするわけです。「お互いの感じ方」にあまり踏み込まずに、ただ「いいね」と一緒に感じられた場を大事にするところで余韻を残したまま終えておく。そうすることで、お互いがお互いの感じ方を大事にしたままつながりが保たれることになります。
周囲との違いを強く感じ続け、定型から訳の分からない共感を求められ続けて苦しんできた自閉の人にも、そういう間の取り方をする人がいます。自分が良いと思ったものを、ほかの人にも見てほしいと思ったとき、ただその場に連れていくだけで、何も言葉を発しなかったりするんですね。ひとりひとり感じ方が違うのだから、自分の感じかたを相手に押し付けようとせず、その人の感じ方に任せようとする姿勢のようです。だから「感じ方」を共有するのではなくて、「その場」の共有をしようとされる。定型との違いは「いいね」すら言わなかったりするところでしょうか。
もちろん同じ自閉系の方でも逆にどんどん積極的に議論をしようとするタイプの人もいます。そこでは「ことば」が大事になります。
ということは、お互いに相手が理解できずに葛藤が起きやすい自閉=定型間でも、その「違い」を調整しようとするときに、やはり二つのパターンが利用されているのでしょう。その点で定型同士の関係調整の仕方と根っこのところはかなり同じと見えます。
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