2025.04.20
R君の積み木(13) 調整する力の育ち
自閉症については,最初カナーによって症例報告が行われてから20年以上,知的な発達もとてもむつかしくて,言葉もなかなか出てこなかったり,また出てきても不思議な言葉遣いだったりするものとして理解されていました。
ところがその後ご自身も自閉症の娘さんを持つ医学者のウィングさんが,知的には大きな問題もなく,言葉も流ちょうに話せるにもかかわらず,色々な面でカナー以来問題になっていた自閉症の人と,コミュニケーション上で同じような困難が生じる人たちの問題を考え,アスペルガーがカナーとほぼ同じ時期にそういうタイプの症例を発表していたことを知ります。
それでその論文を「再発掘」して世に広め,そのような症例に該当する人を「アスペルガー症候群」と名付けたわけです。この「発見」で「自閉的な困難」の考え方はとても広い範囲のことを問題にするようになり,その展開の中でASD(自閉スペクトラム障がい)という今よく使われる概念に到達しています。
最初の頃のカナータイプの自閉の概念では,自閉と自閉でない人の間は明確に線引きできるように考えられていたのですが,こういう展開の中で境目がどんどん分からなくなっていきました。そしてついにASDの概念に至ると,定型発達者との間の境目も不明確になり,定型発達者といわれる人にもかなり自閉的なコミュニケーションをとる人もいるし,逆にアスペルガーと診断された人にもかなり定型発達者的な人がいる,という状態になります。
そうすると同じ人に対してもASDの診断をするかどうかは,言って見れば医者の主観的な判断によって決まるようになります。そしてその主観的な判断のさいの大きなポイントは,「どれほど本人や周囲の人が困難を感じているか」ということについてなんですね。だから親に「どうしましょう?診断を出しておきますか?」と判断を委ねたりする話もしばしば聞くことです。
診断をすれば公的な支援が受けられますが,社会的には「障がい児」というラベルを張られることになり,そこで親ごさんによってどちらを優先すべきとするかの考え方が異なったりするからでしょう。言い換えると「社会(世間)を考えた主観的判断」から切り離せない概念だと言えます。
もともとそういう意味では「曖昧」な概念なわけですから,とくに「グレーゾーン」みたいに言われる方たちの場合,定型発達者としても見られるし,ASDとしても見られるし,どうしようね,という感じになるわけですが,日常生活の中で比較的浅い付き合いをしている限りは,あまりその違いに気づかれにくいということにもなります。
けれども親子関係や夫婦関係などになると,その「一見小さな違い」が「深刻な問題」になることが多くなりますし,友人関係や職場での人間関係などでも,関係が深まっていくと,お互いに相手のことが理解しにくくて,お互いに知らず知らずのうちに相手を傷つけていたり,ということが起こることになり,それがひどくなるとうつ状態になったり,さまざまに深刻な問題にもつながっていきます。
これは知的な能力とか,言葉が話せないと言ったレベルの言語的な能力の問題とは考えにくいので,それで社会性とかコミュニケーションの障がいなんだと考えられるようになるわけですが,でもそこでいうコミュニケーションの障がいって何なのでしょう?
言語学的に自閉を研究する流れの中では,発音や文法(統語論)などはまあ問題ないですし,辞書的な意味(意味論)の理解も問題ないので,問題は「どういう場面でどういう言葉を使ったらいいのか」ということの理解(語用論)の問題だろうという見方が中心になっています。
私はそこで単に語用の問題一般というより,コミュニケーションを成り立たせている関係調整の仕方,ルールのズレの問題で,それはお互いの感じ方や注意の仕方によって作られる体験の世界やその共有の仕方に,お互いに気付きにくいズレがあることから生まれるものだ,という理解を論文にしたわけです。(以前少しだけ紹介した「自閉症者と定型発達者のディスコミュニケーション:規範意識のズレとしての葛藤分析と共生への模索」社会言語科学28巻。9月発行予定)
逆に言えばそのズレ方がわかってくると,「え?なんで?」と思った時にも,「相手が間違っている」と一方的に考えて「正しいやり方を教えようとする」のではなく,「相手の考え方を理解する努力をして,お互いに折り合いをつける道を探る」という共生の方法に結びつくともいえるわけです。この発想にぴったりくる支援事例として,「R君」のことがあると思えます。
昨夜,事例研究会で「R君の積み木」でご紹介してきた,2歳の段階で言葉もなかったカナータイプの自閉のお子さんの支援について,みなさんと議論をしたのですが,最初にR君と出会った頃とはほんとに違って,支援を担当している石黒さんとの間に独特ではありますが,とても「順調」なコミュニケーションが成立してきています。その中で2歳の頃に芽生え始めた他者への要求や行動の模倣などを足場にしつつ,今ではしりとりを含めた言葉や文字,数,図鑑やおままごとへの関心や意欲もしっかり育ってきています。
なにがそういう成長を可能にしたのか,どういう支援がそこに大事だったのかを去年11月に撮影させていただいた支援場面の動画を見た上で議論をしていったのですが,私がとても重要と思って話していたことは,石黒さんが決して単純に「正しいこと」を教えようとせず,むしろR君の考え方を理解しようといろいろ楽しみながらやり取りを続けてこられたということです。
たとえばある出席者の方が指摘していたのですが,支援の始まりに日付や曜日などを確認する際,石黒さんが「晴れ」といったら,R君が「曇り」というんです。そうすると,石黒さんは「ほら,お外見てごらん,晴れてるよ」と「正す」のではなくて,「あ,そうか,ちょっと曇りかもしれんね」といって楽しそうに会話を続けられる。石黒さん自身も,自分は気づいていないけど,もしかするとそう見えるところもあるのかもね,と考えて見られたりするようです。
また,R君が好きな恐竜の名前等を言って,石黒さんに文字で書いてもらう,という彼の遊びをときどきするのですが,そこで石黒さんがうまく聞き取れないと,とりあえず書いてみた上で,「ね,これであってる?」などとR君に評価してもらいます。こういう場面が多いんですね。つまりここでは石黒さんは「評価する側」ではなく,「評価される側」になってやりとりを調整しようとされているわけです。
そういう柔軟な調整のやりとりの中で,R君も自分の意図がうまく伝わっていないと感じると,一生懸命言い換えて訂正しようとしたり,そういう「調整の努力」をするようになっています。そうやってお互いに調整し合いながら,ひとつの活動(遊びなど)を共有していく,そんな関係が安定して作られてきているんですね。
つまり,お二人の間には,お互いに「コミュニケーションを成り立たせるための関係調整のしくみ」が時間をかけてじっくりと作られて行っているのだということが見えてきます。それは「正しいこと」を「教え込もうとする」ような形の「支援」とは大きく違い,「違うもの同士,なんとか通じ合えるやり方を探っていく」ことに「楽しみ」を感じながら,二人で共有できる,楽しめる世界を広げていかれる「支援」といえます。
別の参加者はR君はこの支援の中で「選択肢を保証されている」といった意味のことを指摘されていました。人が主体的に生きるうえでは「自分で考えて自分で選ぶ」ことが欠かせないと思えます。ただひとから言われた「正解」を選ばされ続ける人生は,それは人に支配された人生で,自分の人生ではなくなります。それは自閉の子でも同じです。
けれどもR君は石黒さんとのかかわりの中で,自分のやり方を認めてもらい,そういう体験を通して「相手を認める」力が育ってきています。だから石黒さんのやりかたも受け入れる力が育ってきています。これもコミュニケーションには欠かせない力ですよね。
お互いに違う体や心を持つことで振舞い方にズレが生じ,お互いに理解がむつかしくなる者同士,どうやって共生していけるのか,その大事な道筋の一つを具体的な形で見せていただいているように思えます。
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