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所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2020.07.04

不注意と集中力:短所と長所の話

ADHDでは「注意欠陥多動性」という名がついているように「不注意」という傾向の強さが問題になります。

落語でもよく「おっちょこちょい」の人が愛すべき人物として登場して話を進めますが、今でいえばADHDという名前がついたりするのかもしれません。有名なところでは「粗忽の使者」の地武太治部右衛門(田中三太夫とも)がそうかもしれません。「粗忽長屋」の熊さんなどになると、「自分の遺体を自分で抱いて悩む」というシュールな世界に入っていきます(笑)。

このおっちょこちょいとしてみられた「不注意」の場合、当然ですが「集中力」の欠如(注意欠陥)という面が強調されているわけですが、ふと面白いことを思いました。それはまた将棋ネタになりますが、プロ棋士に「忘れ物」をする人が多いという話です。

プロ棋士の集中力は半端ではありません。たった一手を指すために、じっと盤上を見つめたり、虚空を睨んだり、目をつぶったりしながら、1時間でも平気で考え続けることができる人たちです。その人たちがうっかりとした忘れ物が多いというんですから面白いですね。

私もけっこう忘れ物が多いんですが、彼らほどの集中力は到底ないものの、「別の事に気を取られて」ということが多いんですね。そちらの方に注意が集中してしまって、単純なことに注意が向かなくなる。自分ではADHD的とも感じていますが、ここでポイントにしたいのは、「注意が散漫になる」というよりも「注意が一つの事に集中してしまう」という傾向の方です。

人間の能力、使える力は誰も限りがありますから、ひとつのことにその力を集中すると、他の事には使えなくなる。均等に力を配分すると、ひとつひとつに使える力は薄くなり、あまり成果が出てこなくなる。そう考えてみると、プロ棋士の場合、ものすごく限定されたところに全エネルギーを集中する癖がついているために、その他の事に並行して注意力を振り向けることが苦手になる、ということなのかもしれません。

「吹けば飛ぶような将棋の駒に、かけた命を笑わば笑え」という坂田三吉を描いた歌がありましたが、将棋の棋士もものすごく偏った世界に生きているとも言え、ほんとに個性的な面白い人が多い、ということも関係しそうな気がします。

研究者にも個性的な人はいくらでもいます。もちろんとても常識的な人もたくさんいるわけですが、文化としてはそういう個性的な人を受け入れやすい世界と言えます。あるいはそういう人の事を面白がる気風もあります。というのは研究者の大事な役割の一つは「これまでの常識を超えたものを生み出す」ことだからです。型にはまった思考ではそれは生み出せません。人が考えないようなこと、考える意味も感じられないようなことを考えるわけですし。

アインシュタインも強烈な個性の持ち主だったようで、彼も3歳までは言葉がほとんど出ず、その後もエコラリーのような言葉遣いが続いたり、親が心配して医者に連れて行っています。学校での成績もよくなく、大学を出るときも研究者として大学に残れずに役所に勤めて、そこで物理学をひっくり返すような相対性理論の論文をいくつか書いています。

その彼は権威には全く無頓着だったようで、だからどんな偉い人が作った定説にも全然こだわる人ではなかった。時間と空間を一体のものとして考えるとか、空間が重力によって曲がるので、直進する光は曲がっているとか、ニュートン以来の基本的な考えの枠組みを全部作り変えてしまうようなわけのわからないことを大真面目に考えられたのは、そういう生き方とも無関係ではないでしょう(※)。

プロ棋士もそうですし、アインシュタインのような人もそうですし、変わった人でもものすごい成果を上げている人なら、その点で肯定されて忘れ物とか、そういうマイナス面は目をつぶってみられる感じですが、だれもがそういう驚くべき才能を持つわけではないので、そうするとマイナス面ばかり注目されるようになる。

多くの発達障がい者が苦労するところではないかと思います。

でも、「不注意は集中力の裏返し」みたいなことは、実は少なくとも一部のADHDの人には成り立つことなのではないか、とも思えるのです。もしそうなのだとすれば、不注意が責められる一方の人の、集中力に注目したその人なりの活躍の仕方を考えることもできるようになるのではないでしょうか。

苦手を補うより、得意を伸ばす方が労少なくて益多し、なわけですし、得意を伸ばして得られたもので苦手によって失うものを補った方が、全体としての収支は良くなるはずです。

そのためには「なんでも平均的にできる」というタイプばかりを重視するのはよくないということにもなります。「なんでも平均的にできる」のも一つの特性です。それはそれとして大事なことだと思います。ただそうでない個性も大事で、いろんな個性のバランスが大事なんだろうと思います。一人で全部できることは求めない。お互いに補い合う関係を求めるほうが生産的でしょう。

短所は長所、長所は短所。発達障がいの問題を考えるうえでの基本的な視点となっていけばいいなと思います。

 

※ ちなみに、子どもの中で時間や空間の概念がどう形成されていくのかを研究したピアジェの話を聞いて、アインシュタインはかなり興味を持ったようで、その二つの理解がどういう順でどのように展開していくかを尋ねてきたそうです。ピアジェも普通私たちが当たり前と思われている時間や空間、数量などのものすごく基本的な概念が、実際は発達の中で作り上げられていくものだ、ということを明らかにしていった人なので、やはり通じるところがあるのでしょうね。いろいろあるピアジェ批判の中で私がリアリティを感じない種類のものは、そういう基本的な概念がそれ自体作られていくものだ、という重要な点を見ずに、単に「基本的な概念」を前提に問題を考えているようなタイプのものです。それではいまだにピアジェ以前の研究になってしまいます。

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