2020.07.02
リアルとバーチャルの関係(4)バーチャルが広げる可能性と危険性
「遠隔支援と対面支援の関係」を考えるために、「バーチャルとリアルの関係」を根っこのところから一度整理してきました。今回はそれが持つ可能性と危険性の両方をみつめつつこの問題に取り組む必要性について書いてみて、とりあえずの一段落にしたいと思っています。
さて、「リアルとバーチャルの関係」シリーズの(1)ではジュラシックパークやチコちゃん、ポケモンGoなど、CGで製作したものをリアルな世界に映しこむAR(拡張現実)の技術がかなり展開してきていること、それはリアルな世界とバーチャルな世界がある面で融合する形で新しい世界を作っていくことで、それがこれからの私たちの社会をかなり変えていくだろうということを書きました。
そしてその問題が、遠隔支援と対面支援の関係の問題も絡んでくるはずだということで、(2)ではそもそもリアルとバーチャルの関係って人間にとってどういう意味を持つんだろうという話に進みました。そして私たちの知覚や記憶の能力自体が、バーチャルなイメージ世界を生み出す体の仕組みとして備わっており、そこから「幽霊」も見ることができる人も出てくる、という話をしました。
(3)では言葉がそうやって作られるバーチャルな世界(知覚的なイメージ世界)を他者と共有するツールとして生み出されていくこと、お金もまた同じようなバーチャルなツールとして人間の経済活動を作り上げており、そんなふうに言葉やお金を成り立たせている人間の記号的な力が私たちのコミュニケーションを成り立たせ、社会を生み出しているという話をしました。その力は私たち現生人類(ホモ・サピエンス)に限られるものではなく、チンパンジーと人間の先祖が分かれて、そんなに経っていないころには生まれ始めているだろうと考えられ、人類にとってはものすごく根の深い力であり、またそれを生存のために使い続け、次々に発展させてきたのが人間だと考えてみました。
このバーチャルなツールは個人の発達の中でも、社会の歴史的変化の中でも、人類の進化の過程でも、少しずつ変化し続けてきているものです。「相手の視線の先を読む」ような力の発生から、指差しなどで自分の意図しているものを相手に伝えたり、相手の意図を読み込んだりする力を生み出し、お互いの意図の共有や調整の基盤ができる。身振りや音声言語がやがてその調整を役割を持ち、リアルな世界を超えて記号で頭の中の思考を組み立てる力が育ち、絵を使って物語世界が共有されるようになり、やがて印を刻むなどの形で文字の記号が生み出されて離れたところの人や時代を超えて何かを伝える方法が成立していきます。
記号は人の思考や情報の伝えあいを成り立たせるだけでなく、さらに私たちの社会のまとまりを作っていきます。それぞれの集団に特徴的な化粧や入れ墨、独特の服、習慣などを共有して「文化集団」が成り立ち、それによって「私たち」と「あの人たち」が区別されます。「私たち」と「あの人たち」の間には交易が成り立ち、さらにお金によって市場交換を可能にするなどの経済活動が展開し……、といった形で進化しつつ人々の歴史を作り上げてきました。社会を成り立たせるための習慣、道徳、法律、思想といったものもこういった記号を用いたバーチャルな力が生み出しているものです。
最近でいえばそれがインターネットの普及によって私たちの日常生活を劇的に変えてしまいました。
(最初に鳴き声が聞こえますのでご注意を。この遊びを紹介したら、早速「イケメン」で検索をかけた方があるとのこと(笑))
ネットというバーチャルな空間の特徴は、お互いの距離が関係なくなるということと、検索によって得られる情報が膨大になること、そして「よく知らない人同士」の関係が拡がる場になることです。
たとえば今ではインターネットで買い物をすることに、最初のころは本当にこれで注文して大丈夫なんだろうか?騙されたりしないだろうか?などと結構不安でした。けれども今ではもうそういう買い物が当たり前で、家電製品などもネットで買う方が圧倒的に安かったり、品ぞろえはマイナーな物でも豊富にありますし、中古もある。もうそれなしでは困るくらいです。
つまり、全然知らない人と、日本全国、場合によって世界中のお店から物を買うことができて、品ぞろえも「商品棚」に陳列してある数など全く比べ物にならない。そんな世界ですね。当然、「知らない人、知らない店から買う」ことに不安も起きます。
私も一度だけ、古本を大量に売った時に、送り届けてから値段が付くやりかたで、信じられないくらいでたらめな値段がつけられ、かといって返送してもらうのももう無理な状態でひどい思いをしたことがありますが、あとからネットでその会社を調べたら、たくさんの被害者の声が出てきました。ということは最初から評判をネットで調べておけばある程度そういうだましのようなやり方も防ぐことができます。
買い物だけではなく、仕事も距離が関係なくなりますし、相手が知っている人かどうかさえ問題にならなくなったりします。私の場合、研究に関連して海外の研究者や出版社、学術誌などとかかわりを持つことがありますが、海外の出版社から出した本や分担執筆など、仲介してくださった方こそ10年来の知り合いで直接お会いしたことも数回ありますが、その後それぞれの出版社の方とメールでやり取りして作業を進めても、その出版社の方たちは全く会ったことも声を聴いたこともありません。
また海外の全く知らない人から学術誌に投稿された論文の査読をたのまれたり、雑誌の編集に参加するように誘われることもあります。最近はすこし落ち着いてきたようですが、ネット上に新しい学術誌が多数できて、初めてみたような雑誌から論文を書いてほしいという依頼も毎日のようにあって、どうも海外の学術誌に書いた論文に掲載されるメルアドなどを手掛かりに、手当たり次第にいろんな人に声をかけているようでもありました。それまでは日本の中では「知っている人から声をかけられて仕事をする」のが普通の事で、それ以外は基本的にはありませんでしたから、国境も関係なく、「よく知っている人」というつながりも関係なしの、ちょっと考えられないような展開ですが、現実にそういう動きになっているのですね。
そうやって新しいツールが生活や仕事、遊びなどに入ってくると、一方では便利になると同時に、他方ではいろんな危険が生まれます。上に書いた「だまし」などもそうですし、ネット上のいじめや、それを苦にしての自殺などの悲劇もあります。そしてさらに大規模な悲劇も起こります。
次の写真は昨年訪れたニューヨークのワールドトレードセンター跡の写真です。ご存じのように2001年9月9日、歴史上初めて、アメリカの政治経済軍事の中心部が大規模テロ攻撃の対象となり、その後世界は大きく変わり始めました。今のコロナパンデミックもそうですが、歴史が大きく変わった瞬間です。私は二機目の突入場面をリアルタイムでテレビで見て大変な衝撃を受けました。
この歴史的な攻撃は、次のような特徴を持っています。第一に攻撃者は外からやってきた人ではなく、アメリカ国内で何年か暮らし、訓練を受けていたこと(民間飛行機の操縦訓練です)。第二に、使った兵器はアメリカの兵器(つまり旅客機)だったこと。これは昔の国境をまたいだ戦争とは全く質が異なります。なぜそういうことが可能になったのか、というと、そのとても大きな要素の一つがインターネットなのですね。
911後に世界中に展開するテロは、「本国から派遣された人たちが相手国で行う」のではなく、ネットでの宣伝に共鳴したその国の人が自分たちで計画して起こす、というタイプが多くなっています。だからどこかの国を攻撃しても、占領しても、本質的な解決にはならない。それが今の「対テロ戦争」と言われるものです。「敵」は外にいるのではなく、ネットをツールにしながら、自分たちの生活の中で生み出されていく。言ってみれば自分自身の陰の部分に根差しているとも見ることができます。この「自分たちの中にあるもの」が危機を生むというのは、ちょうど今のコロナウイルスの展開と似ています。
もちろん、そのような攻撃が発生した裏には、「精密爆弾」で殺される一般の人に積み重なってきた激しい恨みや怒りがあります。同じニューヨークのハドソン川のほとりにできた新しいタイプのアートセンター The Shedには、激しい爆撃を受けた中東のアーティストのとても興味深い作品があって、爆撃で傷つく一般の人々の痛みや悲しみを、その渦中で疑似体験しつつ、今のアメリカの日常とのあまりに大きなギャップをそこで感じ取るようなものになっていました。
(上の写真です。ちょっとわかりにくいですが、四面に特殊なフィルムで作られたスクリーンが下がっていて、周囲にさまざまな映像が流されます。どれを見るかは見る人に任されていて、「これが正解」という見方がないところが興味深いところです。なお、これらの作品の撮影や転載については、The Shedに事前に許可をいただいています)
別の視点から言えば、リアルに生み出された怒りや恨み、または悲しみがバーチャルな空間を通じてほかの人々に伝わり、そこで時に怒りのネットワークを作ってリアルな攻撃を生み出し、新たな怒りや恨み、そして悲しみを生み出していくという連鎖が起こっていることがわかります。また芸術を通してそのような不条理に向き合おうとする力も、たとえばThe Shedのような場で生み出され、私のところにも定期的にメルマガが届きますが、それがネットを通じて世界に発信を続けています。
新しいツールが開発されると、いいことも悪いことも起こる。どちらか一方だけという都合の良いことはそう簡単に起こる訳がありません。そして全体としては「便利」であればあるほど、それを広がる力をとめることができなくなります。身近なところに戻ればテレビができたときには日本人が全部おかしくなる、という批判もありましたし、今では日本が世界に影響を及ぼす重要産業になったアニメやテレビゲームは、かつては子どもに有害だという批判がかなりありました。
そこで批判の対象になったポイントが今なくなっているわけではないと思うのですが、それはますます拡大することはあってもなくなることはもう考えられません。交通事故が起こるから車は禁止する、という対応がリアリティがなく、できるのは事故を減らす努力と、事故が起きてもダメージを減らす車体の技術を増すこと、救える人を増やすという医療的な工夫を積み重ねることになっています。それと同じようなことなのでしょう。
結局それがもたらすポジティブな面と、ネガティブな面の両方に注意しながら、可能な限りネガを減らしてポジを増やすという、そういう対応しかないことになります。ネットなどICTツールの展開で起こる問題も、現実的にはそういう対処の仕方で臨むよりほかはないということになるでしょう。
ということで、リアルとバーチャルという関係は、人間が生まれてこの方常に使い続けてきた関係で、それ抜きには何も生活が成り立ちません。そしていつの時代でも、どちらか一方だけの暮らしというのは人間にはなかったわけです。ただどういう種類のバーチャルなツールを使うかということがだんだん変化してきており、新しいツールができれば、それまでとは違う可能性と危険性が生まれる。
特に使い始めのころはマイナスの部分にどう対処したらいいかが見えにくく、危険もたくさん起こりやすいという「過渡的な問題」が生じますが、だからそれをなくすということもまた現実的でないことが多く、それをより生活を豊かにする(物質的に限らず精神的にも)ために使いこなす道を探っていくしかない、という形で考えるしかないのだろうと思います。
というわけで、ネットとICT技術の進展やバーチャル空間の拡大、生活への浸透は今後もはや避けようもないという認識をベースに、リアルとバーチャルの世界がどういう新たな展開を生み、どういう可能性とどういう危険があるのか、ということについて両面から考えていく必要があります。
遠隔支援と対面支援の関係についても、そういうある程度大きな視野の中で考えていかなければ、本当に必要な工夫は達成できないでしょう。いい悪いは別として、これからの子どもたちはそういう新しいリアルとバーチャルの関係の中で生きていくほかありません。その現実に向き合える支援の仕方がどうしても必要になると考えられます。これから折に触れて少しずつ検討していきたいと思います。
- 自分を「客観的に見られない」理由
- 「なんでこんなことで切れるの?」
- 当事者視点を踏まえた関係調整としての支援
- 「定型文化」と「自閉文化」
- 傷つける悲しみ
- 自閉と定型の「傷つけあい」
- 「社会モデル」から「対話モデル」へ
- 障がいと物語: 意味の世界を重ね合う試み
- 誰もが当事者:わたしごととしての障がい
- 規範意識のズレとこだわり
- 「コミュ力低い」で解雇は無効という判決
- 「カサンドラ現象」論
- 「嘘をつく」理由:それ本当に「嘘」なの?
- 自閉の子の絵に感じるもうひとつの世界
- 発達心理学会で感じた変化
- 落語の「間」と関係調整
- 支援のミソは「葛藤の調整」。向かう先は「幸福」。
- 定型は共感性に乏しいという話が共感される話
- 大事なのは「そうなる過程」
- 今年もよろしくお願いします
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