はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2021.01.18

「建設的対話」をお題目にしない

昨日、客員研究員の引地達也さんたちが中心となって文科省と共催の形で行われた「共に学び、生きる共生社会コンファレンス」というイベントがありました。

健常者については「生涯学習」ということが言われて推進されるようになってもうずいぶん経ちますが、障がい者が成人後に教育を受けたり文化活動に参加する機会がとても限られていて、人間関係などのつながりも少なく、生きる世界が限られてしまっている現状があります(少し古いデータですが、2002年に「全国手をつなぐ育成会」調査の「休日に誰と余暇を過ごしているか」で最も多いのが家族、続いて一人、という結果です)。

それで障がい者が参加できる学びの場を作っているみなさんや関係する行政の方たちが経験を交流する場という感じでした。

私も去年引地さんが学長になって始まった「みんなの大学校」でネットを通して発達心理学の講義を担当させていただいていますが、これも障がい者に大学の教養レベルの教育を提供しようという試みの一つとして始まっています。

「コンファレンス」の内容はだいたいこんな感じです。

<障害者の生涯学習の推進に向けて>

基調講演<君と同じ街に生きて-インクルーシヴな学びへ>
講演者:小林繁氏(明治大学 教授)

レクチャー<コロナ禍におけるオンラインの学びの可能性-コロナ禍での障がい者のリモートの「学び」実践と工夫>
講師:引地達也氏(みんなの大学校 学長)

分科会
1.障害者青年学級の学び~東京都特別区の事例から~
コーディネーター:齋藤尚久氏(杉並区教育委員会事務局 生涯学習推進課 社会教育主事)
2.知的制約のある人々の生涯学習支援に果たす大学の役割
コーディネーター:平井威氏(明星大学 客員教授)
3.カフェを介した「共生の学び」の実践
コーディネーター:兼松忠雄氏(明治大学 講師・全国喫茶コーナー交流会 事務局長)
4.当事者の言葉からデザインする新しい学び-「学ぶ」を体感する学生シンポジウム
コーディネーター:引地達也氏(みんなの大学校 学長)

クロージングセッション
総括:小林繁氏(明治大学 教授)

いろんなことをまなび、また刺激を受けましたが、基調講演の小林さんが提示された資料のひとつには、閣議決定された「障害を理由とする差別の解消の促進に関する基本方針」があって、その中に合理的配慮に関するこういう内容もありました。

「合理的配慮は、(中略)代替措置の選択も含め、双方の建設的対話による相互理解を通じて、必要かつ合理的な範囲で、柔軟に対応がなされるものである。」

小林さんがポイントとして強調されたのは「双方の建設的対話による相互理解を通じて」という部分です。つまり健常者あるいは定型発達者がその判断で準備するのではなく、双方向的で話し合いながら一緒にということが強調されているわけです。

「相互理解」というのは、はつけんラボの基本的な考え方の土台になっていることでもあります。「共生」ということを本当に実現するには、共生するお互いが一人の人間として向き合うことが必要になります。その時には一方が主人になってた方が従うような関係ではなく、お互いに主人公として対等な関係として向き合うことになります。そこで必要になるのが「相互理解」ということになります。

でも実際にはお互いに理解しあうことは決して簡単なことではありません。そもそもそんなに簡単なことなら、わざわざ大げさに「相互理解」などと改めて言う必要もないことです。生きていくうえで心臓が動いていることは大事なことですが、そんなの普通は当たり前のことなので、わざわざ「心臓を動かそう」などと声高に言うことはないわけですが、「相互理解」はそうではないからこそ、しつこく言う必要が出てきます。

人と人がお互い理解することは誰にとってもむつかしいことでしょうが、さらに定型発達者と発達障がい者の間では、それぞれの特性の違いによって相手の理解に独特のむつかしさが加わります。ですから「合理的配慮」と言うときの「配慮」は、どうしても「配慮する側」である「定型発達者」が自分の視点から理解して行うものになってしまって、「相互理解」をベースにすることは言うほど簡単なことではありません。

「建設的対話」とあえて「建設的」と言う言葉が付け加えられていることも、おそらくそのむつかしさを現わしているのでしょう。対話が建設的になりにくい現実があるからこそ、そこを強調せざるを得ないのだろうと思われるからです。

なぜ建設的になりにくいのかと言うと、ここでも繰り返し書いてきているように、私はその仕組み自体はとても簡単なことだと思っています。お互いに自分の視点でしか相手を見ることができないからです。しかもお互いにそれが自分の視点でしかないのだということに人は気づきにくいからです。だからそれぞれにとって「傷つくこと」も違い、「配慮の意味」も違い、また「正当なこと」の基準も変わってくるのですが、そのずれに気づかないため、お互いに全く意識せずに傷つけあい、そして相手が「不当な人」に見えてきます。

だから対立になる。そしてその対立がひどくなってくると、結局力のある側が弱い側をねじ伏せる形で解決していくことになります。

お互いに理解しにくいもの同士がなにかを一緒にやろうとすると、そういう対立的関係になることがよくあります。うまく一緒にやっていこうと「対話」しようとしても、その対話を成り立たせる理解の仕組みがわからないまま、「対話」が「対立」になって破綻することが多いのですね。

理解しにくいのは、それぞれの特性の違いから無理のないところがあります。自分にとって自然な感じ方、考え方がかなり基本的なところでズレてしまっていることがよくあるからです。まさかそんなところでズレがあるなんて普通考えもしないので、「自分とは違う相手の感じ方、考え方」があることにすら気づくことがむつかしく、そしてそこに気づかない限りは相手を理解することは不可能だからです。

だから「建設的対話」を実現するには、まず対話的な関係を可能にする工夫が必要です。その工夫は「相互理解」への工夫になります。それ抜きには「相互無理解に基づく非建設的対立」になり、「建設的対話」という言葉は結局「仲良くお話ししましょうね」というレベルの、単なる「お題目」に終わってしまいます。

ということを考えたときに、前回少し書いた「逆SST」という新しい試みは、その具体的な可能性の一つとして考えられるように思います。こういう小さな工夫を地道に積み重ねていくことが、「共生」への欠かすことのできない作業だと思います。

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