はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2021.03.31

受動的障がい者像から能動的障がい者像へ

このブログでは、発達障がい児・者が抱える困難を、定型基準との特性から生まれるズレがうまく調整されないことから生じるもの、という観点で理解を進めてきています。

 

この時、今までの発達障がいへの支援は、もともとはそのズレを発達障がいの人の欠点とみなし、その欠点を治すにはどうしたらいいのか、という視点(あるいは治せないなら仕方ないからその分ケアしてあげようという観点)から考えられるのが普通でした。今でも経験の浅い支援者の方や、あるいはおこさんに発達障がいがあるといわれてショックを受けた保護者の方が最初に立つ見方は多くの場合このようなものです。

けれどもだんだんと理解が深まるにつれ、違う見方の重要性が強調されるようになっていきます。たとえば合理的配慮という考え方にしても、障がい者は「お情け」でケアしてもらうのではなく、人ならお互いに必要な配慮をしあうべきであり、そういう人として当然受けるべき配慮の一つとして、その障がい特性にあった環境を提供される必要があるのだという考え方になっています。同じ人間同士の配慮の関係として支援を考えるスタンスともいえるでしょう。

障がいを最近は英語でspecial needs(特別な必要性)という概念でとらえる方向になってきていますが、人であればだれでもneedsがあって生きている中で、その必要な部分に特別な部分がある、というだけの違いとして理解しようとする姿勢からくるものでしょう。

そういう考え方は障がい者を「同じ人間」として考えるスタンスになりますから、「一方的にケアされる対象」として見るのではなく、「主体的に生きるひとりの人間」として見るという視点が大事になります。社会的な制度としては福祉に対する考え方が行政による「措置」から「サービス利用者としての選択」という形で支援の主体的な選択・利用が重視されるようになった、という変化としてそれが表れています。(個々の行政担当者によっては残念ながらこの理解をまだ持てていない場合もあるようですが)(※)

この「ケアされる側」という受動的な障がい者像が「(障がい特性を抱えながら)主体的に生きる人」という能動的な障がい像の変化は障がい者支援について、非常に大きな転換につながっています。ある意味で地殻変動が起こっているともいえるように思いますが、そこでは改めて「障がい者の主体性とはなんなの?」ということが問題になります。

わかりやすい例でいえば、私が学生のころなどは、自閉症の人は「わけのわからない人」というイメージが強くありました。実際自閉症児は精神医学でも昔は早期に発症する統合失調症(当時の言い方では精神分裂症)の一種と考えられたりもしていました。統合失調症は妄想などにもみられるように、「どうしてそうふるまうのか、理解できない」「いうことの意味が分からない」など、精神の働きがおかしくなっていて正常な思考やコミュニケーションができなくなっている状態と見られたりしたので、自閉症についてもそういうふうに理解されたことはある意味無理もないことでしょう。

ところがやはり私が若いころ、自閉症者が大人になってから子ども時代の自分が何を感じて生きてきたのかを語る、という「当事者本」が出始めて、世の中に大きな衝撃を与え始めました。外から見ていて「わけのわからない人たち」に見えていたものが、その当事者本人が自分の内側から主体的に生きている中で見えている世界を、そんな形で私たちにも少し見せてくれるようになったわけです。

そうすると、その人たちは「わけがわからない人」ではなく、「その人なりの思いや悩みをもって、その人なりに一生懸命生きている主体としての人」という形で定型の側も理解する可能性が出てきます。言い換えれば「主体としての障がい者」像がそこから見えてくるわけです。(※※)

先日、明蓬館高校の日野公三先生にお話を伺う機会があったのですが、日野先生が相談を受けて受け入れを決断した、当時は全く無名だった自閉症児の東田直樹さんが書かれた当事者本「自閉症の僕が飛び跳ねる理由」は今では世界各国で翻訳され、100万部をこえるベストセラーになっているとのことです。映画にもなりました。私たちが知らなかったもうひとつの世界が、こんな形で多くの人たちの強い関心を引いているのが今の時代だということになります。

風邪なら薬を飲んで休んでいれば基本的には治ります。治るというのは「元の状態になる」こととも言えます。けれども障がいはその人自身の身体の状態によって生まれてくるものですから、それ自体は「治る」ものではありません。なぜならその状態が「元の状態」なわけですから。

そうすると治すのではなく、そういう身体をもってどうよりよく生きていくのかが課題だということになります。

ここでも障がい者を主体として感じ取る姿勢が深まると、支援の仕方にも違いが生まれてきます。もともとは単に「定型のやり方に合わせさせる」工夫が中心であったものが、その人の特性をベースに、その人自身が生きやすい環境の整備を考えるようになる。TEACCHの構造化の考え方の基本はそこにあると思います。定型的に作られた環境がわかりにくくて自閉症の人が主体的に生きづらいところ、環境を自閉症の人に理解しやすい構造に組み替えて、その環境の手がかりを使って主体的に生きられるような工夫と言えます。

また研究所でもzoom講演でお話しいただいて大変好評だった綾屋紗月さんや、そのパートナーでもある熊谷晋一郎さん(小児まひの小児科医)たちが展開されてきた当事者研究は、ひとりの当事者が自分の世界を描くのではなく、似た条件を抱えた当事者同士が語り合って自分たちの世界の理解を深めていく、という、この方向での次のステップを作り上げてきています。

私たちが始めた「逆SST」という新しい試みはそのような流れのもう一つの展開として理解できます。それは「当事者に定型世界を理解させる」のではなく、「定型者に当事者の世界を理解する」挑戦をしてもらうという視点の転換を、当事者が出題者となって自分の経験を語ってもらってその意味を定型者が考えて当事者に「こういうことですか?」と尋ねてみる、一種のクイズ形式をとることで、わかりやすく進めていくひとつの工夫です。

ここでは「正解」を持っているのは、当事者の方です。定型発達者はその当事者の生き方を理解できない「能力の足りない人」であり、当事者に「教えていただく」立場になります。普通の世界の完全な逆転ですね。そうやってお互いに視点を転換しながら、違いを前提にした関係調整の道を探ろうという試みの一つということになります。これも障がい者とされる方たちがあきらかに大事な主体として、というより、単なる主体を超えてさらに能動的に「定型に教える立場」として参加することで初めて成立することです。

 

こんな形で障がい者を「ケアしてもらう人」という受動的な姿ではなく、「特性を持ちながら工夫して生きている人」という能動的な主体的な姿で理解しなおし、支援の在り方を考え直す方向が深まってきていると私は理解しています。この方向は「発達」についても「平均的な定型発達」を唯一の正しい発達とする見方を超えて、「いろいろな発達の方向がある」という見方へ転換していくことを必要としていますし、当然それは「多様化していく」という現代社会の必然的な方向性に沿った変化でもあります。そしてその多様性を前提とした共生の道の模索、ということでも、少し大仰に言えば今の世界が改めて直面している世界史的な課題の一部をなしているわけです。

理想としてはそういうことだろうと思います。ただ、その理想がすぐには実現せず、その進展にはとても時間がかかることも厳然たる事実です。ではなぜその理想の実現がむつかしいのでしょうか。次回は「発達障がい者が否定的にみられやすい理由」という問題を心理学的な視点から少し考えてみることとします。

 

 

 

 

※ ちなみに老人介護の制度の変更はこの流れの中で意味を読み取ることができます。介護サービスは利用者という主体による選択の対象という形に変わったからです。発達障がい児に対する支援事業もこの新しい介護制度をひな型に作られたもので、当然そのような発想の展開としてあります。

※※ 身体障がい者についてはさらに早い時期から「主体として生きる」ことを重視する主張や運動が展開していました。それまで施設でひたすらケアをされるだけの状態に置かれていた重度の身障者の中に、支援者の支援を受けながら、施設を出て一人暮らしを始める人たちが出始めたわけです。身体障がい者の場合は言葉ができればお互いに意思疎通はできますから、支援する側もその「意志」を感じることはしやすく、たとえば自閉症のように「言動の意味が分からない」状態に比べると、その主体性を理解しやすいところがあります。あとはその主体的に生きる姿を当然のこととして周囲も受け止めることができるのかどうか、という、問題になります。以前にご紹介したように、みんなの大学校の発達心理学の講義で、私もzoom画面越しに重度身障者の岩村和斗さんと、彼が肩の動きであやつるパソコンの短い文章で質問を受けたとき、それまで「得体のしれない人」だった和斗さんが「私に話しかけてくれる主体としての人」になってとてもうれしかったのですが、そういう形で「主体性」を感じ取りやすいのですね。

また、この問題を哲学の展開とつなげて考える場合、現象学が世界に与えた衝撃の影響も見逃すことができません。フッサールに始まる現象学は、自然科学を範にした「客観的な分析」を軸に置く当時の実験心理学的な発想に対し、そもそもそういう客観的な視点の基盤になっている主観の構造から明らかにしようとしたもので、「世界がどのように私に対して現れているか」ということを丁寧に記述する、という姿勢がその現象学的な視点から生まれてきます。社会学ではシュッツに始まる現象学的社会学がその代表となりますし、ここからさらに人類学のエスノメソドロジーや言語研究の会話分析、さらには社会学や人類学と心理学の間位にある相互行為論なども展開してきます。(先月、人類学者で京大のアフリカ地域研究センターの高田明さんの近著「相互行為の人類学」を私たちの研究会(第32回MC研)で彼を交えて長時間議論したのですが、言語発達を相互行為の視点から見直すうえでも、当事者の視点を踏まえたこれからの支援を考えるうえでもとても刺激的な議論となりました。)そしてこれらの流れは心理学では質的心理学の重要な構成部分ともなっています。いずれも人間というものを、外側から「客観的に」数値化して理解するのではなく、主観をもって生きている主体としての人の生き方の仕組みを理解しようとする姿勢が強く、「相互理解」に基づく支援を考えるうえでは欠かせない視点となります。さらにこの「内側からの主観的見え」と「外側からの客観的見え」をどう統合的に理解できるのかということが次の大きな問題になるのですが、この点について私が一番示唆を受けるのはやはり廣松渉の「共同主観性」の哲学ということになります。私の理解では、その議論は自然科学的な客観の議論を「カッコにくくる」現象学の議論が、他者の主観を扱う時に大変な困難に出会い、間主観性を問題にしつつそれを現象学的に理論的に基礎づけることには限界を持ったのに対し、さらに掘り下げた地点からその限界を超える理論的枠組み(四肢構造論)を明瞭に提示しています。先日やまだようこさんと話した時にも、廣松の哲学はもっとしっかり検討されてもよい、という点で意見が一致しました。高田さんも含め、私の周囲の研究者の中ではそう思っている人はかなり多いようです。

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