はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2021.03.30

逆SSTから考えたこと:本音と建て前の違い方のズレ

自閉を生きる:その振る舞いの意味にも少し考えたことからの延長の話になりそうです。

 

人は誰も多かれ少なかれ本音と建て前を使い分けて生きています。

比較文化的な研究をしていると、この使い分け方にはかなり文化的な特徴がそれぞれあって、そのズレによって異文化間ではお互いに相手の言動の意味を理解しそこない、それがいろんなトラブルにつながることが珍しくありません。

語られた表面的な言葉の裏にどんな意味が込められているか、どんなニュアンスが含まれているかについての読み取り方が文化によってかなり違ったりするので、そこで「こう言ったら相手には裏の意味が伝わるだろう」と思って言っても、実際には全然伝わっていなくてお互いに傷ついたり怒り出したりということが起こるためだと考えられます。

日本のことわざにも「言わぬが花」という言い方があります。この場合は建て前さえも語らずに相手に察してもらうことを重視するコミュニケーションの仕方がベースにあるのだと思います。沈黙や微妙な表情の変化、姿勢の変化などで「それとなく伝える」というやり方を好むんですね。表立っては相手の言うことを否定しない(それが建て前)だけど、本音は「いやだ」と言っている、そんな場合があります。

そこで本音の部分を相手が読み取ってくれないと、日本ではKYといって激しく責められることが起こったりします。

 

それで、韓ドラを見ていると、これまた日本とはとても違う「建て前」と「本音」の使われ方があって、これってなんだろう?とずっと興味を持ってきていました。そしてその話が、私の中で第一回逆SSTで問題になったこととつながって感じられたんですね。そのことについて少し言葉にしてみたいと思います。

韓ドラでしばしばみられるストーリー展開の中で、私が「なんじゃこれ?」とずっと不思議に感じていたことがあります。それは自分にとってすごく大事な人に、とても大事なことについてうそをつく、というシーンです。

たとえばもう成人している子どもから激しく憎まれるような状態になっている父親がいます。その背景的な原因にはその子が実の子ではなく、物心つく前に事情があって引き取って育ててあげた子だということがあります。でもその子はその事実を知らず、実の父親と思ってその父親を憎んでいる。

私から見ると、その子に事情を話してあげることで、誤解が解けて関係がよくなるように感じられるのですが、父親が絶対それをしません。そうではなく、ますます憎まれる道を進むのです。

さらに驚いたのは、その父親の家族(その子以外の血縁)が、父親に対して「あんたが悪者になるべきだ」とその父親のやりかたを支持するんですね。

私にはその意味が分かりませんでした。憎まれることでなにかが解決するようには見えないからです。本当のことを共有することで、一時はショックなことがあっても、結局はお互いに傷つけあわずに済むようになるのに、あるいはもっと関係が深まるだろうに、なんで?と思ってしまうんですね。

ラブストーリーでも恋人間で同じような話が繰り返されます。だいたい三角関係的な話が多いわけですが、お定まりのように、いろいろ誤解が生じたりして関係がこじれていきます。そして本当は深く思い合っている二人の関係が切れて、別の人との関係が深まる方向に進むように、どちらかが強くふるまったりする。

これも単に誤解を解けば(それもそんなにむつかしくないようなことです)簡単に二人の仲が深まり、本当に幸せになるだろうに、というところでかたくなにうそをつくんですね。そして相手が自分を憎むように仕向けたりする。

 

日本的な「言わぬが花」は「本音を察して頂戴」という姿勢で「言わぬ」のですが、韓ドラの場合は「本音を隠す」ように「建て前」を語るという感じですね。

なんでそんなことをするのか?それによって一体だれが得をするのか?みんな不幸になるだけじゃん、とか思ってしまうわけです。まあドラマを盛り上げるテクニックとしては、視聴者にハラハラドキドキさせるという効果はあるんですが、ちょっとそのレベルを超えています。(家族も「あなたが悪者になるべきだ」というようなところにもそのレベルの違いを感じます)

 

さて、この話、大内さんの「ブラックコーヒー」の話につながっていないでしょうか。つまり、大内さんは別にブラックを飲みたいわけではない。むしろ本当は甘いコーヒーを飲みたい。周囲も大内さんにブラックを飲んでほしいわけでもない。それをしたからと言って褒められるわけでもなく、ただ大内さんが飲みたいものを飲めずに損をするだけに終わる。

一体何のためにそんな「嘘(ブラックが好きだと人に見せる振る舞い方)」をつくのか、だれも得をしていない、むしろ損をするのに、ということで訳が分からなくなるわけです。

この、本音と建前の関係がすごく理解しにくい、というところで、韓ドラに見られるストーリー展開と共通している部分を感じるのですね。

 

ところで韓ドラのそういった繰り返されるパターンについて、私は最近こんな理解をするようになりました。

そのことを理解していただくために、少し前提を置きます。

 人間関係の中で、ドライな関係は利害で直接結びつく。これに対して親密な関係では(少なくとも短期的には)見返りを求めないこと、つまり「自分は利害のためではなく、あくまであなたのためにこれをするのだ」という振る舞い方をお互いにすることが大事になります。人間同士の信頼というのはそういうところから生まれます。「この人は自分のことを考えてくれる人だ」という安心感がそこにうまれ、繋がりがそれで保たれ、「助け合う」関係が生まれるからです。

相手のためにすることですから、自分が損をすることもあります。でも損をしてでも「あなたのためになりたい」という気持ちが重要になりますし、その自己犠牲の部分が大きいほど、相手への思いが深いことにもなります。それが強まると、「刎頚の友」といわれる関係にもなったりします。これは「お前が俺の命をくれというなら、俺は理由も聞かずにお前のために死ぬ」というような関係を言います。命すら相手のために差し出すような関係ですね。

実はこのあたりの「友達関係の中で相手のためにどの程度何をしてあげることが重要か」ということについての感覚の差が、文化によってとても大きくあることが私たちの調査からも色々な面でよく見えてきます。

私の持つ感覚からいうと、韓国の人たちの人間関係は、このあたりで自己犠牲の払い方がびっくりするくらい強く見えます(※)。そこから考えると、次のような解釈も成り立ちそうに思えるのです。

ドラマなどでも、そういう本心を隠した嘘は、最終的には相手に伝わる展開が主です。そうすると「ここまで自分を犠牲にして私のことを考えてくれたのか」という、ある種の感動を相手に与えることになります。もちろんこれは賭けですから、相手に最後まで伝わらないこともあるし、自分の死後にようやく理解されることもある。下手をすると子どもの代や孫の代にようやく成就する、といったストーリーまであります。

「いろんな事情で相手には伝わらないかもしれないけど、自分はそれでも相手のために自分を犠牲にしてうそをつき続けるんだ。」そんな深い覚悟がそこにあるように思えるのです。そういう深い(日本的には謎多き)情念を共有する関係が人々の間に普通にしみついている(※※)。

もしそうだとすれば、自分にとってはあきらかに損に思える振る舞いを貫くことが、ある意味では相手に対する自分の誠実さを貫くことにもなる。そこで払う自己犠牲は、その自分の誠意を相手は永遠に理解してくれないかもしれないという危険性をも含むものだということになります。

 

「ブラックコーヒー」の話と、韓ドラの不思議な展開の話は、こういう形で「本音」を置いておいて「損をする振る舞いをあえて貫く」という点では同じ仕組みがありそうです。その点ではブラックコーヒーの話を定型がわかりにくいのは一種の文化差の問題として考えることもできなくないでしょう。

では両者の違いはなんなのでしょうか?これは渡辺主席研究員とこの話をしていて指摘してもらったことでもあるのですが、韓ドラの場合は、相手は誤解したままであっても、周囲の人はそれに気づいて、それを肯定的にとらえたりしています。つまりこの「(相手のために)本音を隠し、自ら損をする」振る舞いは、そういう価値あるものとして周りの人に理解される可能性があります。そしてその行為はどこかで「みんなわかってくれる」という思いに支えられているでしょう。

この点で、アスペルガーの方の場合は、「損をしても誤解されるやりかたを貫く」という点では同じでも、その本音をほかの人たちに理解してもらうことや肯定してもらうことも難しく、「わかってもらえる」ことを期待できない状況でそれを貫くことになりやすい。もう少し言えばそれが「何を目指した振る舞いなのか」も見えにくいということがあるように思います。

この点、たとえば韓ドラの話なら、理解には時間がかかりますが、それでも上のように説明すれば、自分の感覚からもわからないではない、内容は違うけど同じようなことを自分でもやっているな、と思えたりするのですが、そういう理解がまだまだむつかしい感じが残るのです。

また別の言い方をすれば、韓ドラのような展開をしている人たちに、その振る舞い方の意味を説明してもらったら、たぶんたとえば上のような解釈に似た形で説明されたりするように思います。そしてそう説明されれば私にもわからなくはない、という感じになる。でも「コーヒー」の話はもう一段か二段、むつかしい問題があって、ご当人もそこをうまく説明しづらいのではないかと想像するんですね。

そこが何なのか、私にとっては次に考えを深めていくべきポイントの一つになりそうです。

 

 

※ なぜそういう違いが生まれるかについては、私の理解では、社会の厳しさの差かなという気がします。近くでいえば朝鮮戦争以来、いまだに戦争状態(休戦状態)にあるのが韓国です。徴兵制が敷かれ、徴兵期間を終えて帰ってきても予備役として一朝事あればすぐに軍隊に復帰し、前線に行かなければなりません。昔しりあった韓国の人の話では、定期的に軍隊に召集され、そこで開戦時にはどこに即座に集まれと指示され、そのあと、「お前たちはここに派遣されるから(これは当然偽情報である可能性もあります)、そこを2時間確保しろ」などといわれるそうです。なぜ2時間かというと、2時間で死ぬからなんですね。あとから増援部隊を送るまで持ちこたえろという話だと、その人は言っていました。歴史的にも日本と中国に挟まれて、繰り返し両方から国土と国民を蹂躙され、あるいは北の女真族(のちに清王朝を築いた人たち)に荒らされて(お互いさまのところもあるようですが)、またその不安定な状況で国内での激しい政争=殺し合いも繰り返されてきた歴史があります。そういう文字通り命がけの世界で、お互いに助け合いが必要になる。その時は「命がけの助け合い」や「命がけの信頼関係」が何よりも重要になるのだ、という気がするのです。そう考えると、少しわかったような気になります。

※※ 韓国の文化を理解するうえで欠かせないポイントの一つとして「恨(ハン)」という文化的な考え方があるのですが、おそらくこの心の持ち方にもつながると思えます。なお「恨」は日本語でいう「恨み」とは大きく異なる感覚です。「恨み」は相手との関係の破綻を前提にしますが、「恨」はむしろその負の感情も含めて相手と深いつながりを保つのに欠かせない要素のようです。ですから、「友情の深まりは、憎しみの深まりを必ず伴う」といった独特の人間関係の感じ方があります。この恨の世界を理解したい方にお勧めの映画の一つが『風の丘を越えて/西便制』という、パンソリの旅芸人の話です。主演の呉貞孩(オ・ジョンヘ)さんの公演は一度聞きに行ったことがあり、直接少しお話したこともありますが、その歌声やそれに対する観客の応答を体で感じながら、本当に韓国的な心情の世界が心に刻まれる思いでした。

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