2021.05.01
薬の働き、ことばの働き
相手の人に何かをしてほしいときや、その逆に何かをしてほしくないとき、私たちはどんなふうに相手の人に働きかけるでしょうか?
たとえば相手の人の近くにある机の上の書類を取ってほしいとき、「すいません、その書類とってください」とお願いしますよね。あるいは「この書類、触らないでくださいね」としてほしくないことを伝えることもあります。つまりことばで相手に働きかけることで目的を達成します。
自分自身、悩みを抱えたときも、私たちはことばで自分に働きかけるということをやります。「考える」ということですね。「なんでこれがうまくいかないんだろう?」「こうしたらどうだろう?」「もっとがんばらないとだめなのかなあ?」「誰かに相談してみようか?」などなど、ことばで表せるような形で私たちは自分自身に話しかけ、自分自身と対話します。これもことばで自分に働きかけていることです。
ことばができないあかちゃんだったらどうでしょう?たとえばご飯を食べていて、隣の子のおかずに手を伸ばして食べようとするとき、「これは○○ちゃんのだから、駄目よ」とことばでも話しかけるでしょうが、同時にあかちゃんの手をつかんで止めようとするでしょう。
逆にことばができるのに相手が依頼に応じてくれなかったり、いやがることをあえてやったりするときはどうするでしょうか?通常の範囲ならあきらめるかあるいは怒る、喧嘩するといった展開になりそうです。悪くすると「手が出る」、つまりことばを超えて暴力的な対応にもなります。
もうすこし深刻になって、法律で禁じられることをあえてやるような場合、「逮捕」というような、完全に「実力で制圧」する展開が生まれますし、その後は「懲罰」が与えられます。
でも「あえてやる」のではなくて、わからなくてやってしまった場合は、やった後にそういう実力行使になることは通常ありません。犯罪者が心神喪失状態にあったと認定されると、「治療」の対象にはなるが、「処罰」の対象にはならない、というのもそういうことで、この考え方は近代法では一般的です。(※)
つまり、「ことば」でお互いに理解し合えるか、そしてその共有された理解に基づいて関係を調整できるかどうかが重要なポイントで、「ことば」でそれができるときはできるだけ言葉に頼ろうとし、それが無理な場合は何らかの形で「実力行使」が行われる、というのが一般的なパターンだということになります。
さて、このように「ことば」でお互いの精神状態を変化させて関係を調整しようとする方法に加え、人間は昔からなにかの「薬物」で精神状態を変化させるという手法も使ってきました。
たとえばアルコールを摂取することで、精神状態が変化することは多くの人が経験済みでしょう。ニコチンもそうですね。話題の大麻など、麻薬といわれるものも昔から使われています。アロマテラピーに使われている香もそうですね。精神状態に作用する物質です。昔はそのような物質によって精神状態を変えるのは、なんらかの儀式やお祭りなどの形で「みんなで」体験することが中心だったと思われますが、今は個人単位で体験することが多いでしょう。
近代医学では、それも比較的最近になってからですが、この精神に影響する物質、生理学的には脳の働きに影響する物質をコントロールすることで精神状態をコントロールしようとするテクニックが次々に生まれることになりました。それが「向精神薬」といわれるものです。
そうすると、現在私たちは人の精神に直接働きかける手段として、「ことば」と「薬」という二つのツールが特に際立ってきているといえるだろうと思います(※※)。
この二つのツールの性格の違いはどういうところにあるかというと、わりにシンプルに理解することができます。「ことば」は「意味」を共有することで成り立ちます。「まあ、まずは落ち着きましょう」ということばは、「落ち着く」ということばの意味がお互いに共有されていなければ働きません。たとえば相手の人にとって「おちつく」ということばが「ハイになる」という意味で理解されていたとしたら、「落ち着きましょう」といったことでかえってさらにハイになるといった漫画みたいなことが起こります。
「ことば」による働きかけは、相手のひとの何らかの「納得」や「承認」がなければ効果を発揮しません。「落ち着きましょう」といわれても「うるさい!こんなときに落ち着いていられるか!」と相手がますます怒り出したとしたら、説得しようとした人の目的は達せられないどころか、逆効果ということになります。だから「ことば」による働きかけは、相手に理解できるように、そして「納得」できるように行うのが基本です。言い換えれば、ことばは相手の意図や意志(または心)に働きかけるものなのです。
これにたいして「薬」による働きかけにはそういうプロセスが不要です。相手が納得しようとしまいと、その意味を理解しようとしまいと、薬物が投与されれば精神状態が確実に変化していきます。もちろん緊急事態を除くと、「薬を飲む」ことにはその人の理解を得る必要がありますが、それ以降の作用についてはその人がどう思うかは関係なく、その意味で「有無を言わさず」という力があります。(ただしその変化が投薬者が望んだような結果をもたらすとは限らず、だから薬物投与に関しては資格と経験のある医師が、投与による変化の仕方を慎重に判断しながら投与量や薬の種類を調整することが不可欠になります。)
また、精神のどういう面に作用するか、ということについても違いがあります。言葉の場合は、たとえば相手を慰めることで、元気がなくなったり、興奮したりといった全体的な精神状態の困難を緩和することができますし、同時に「○○をしたらどうだろう?」みたいな形で具体的な行為についての提案もすることができます。これに対して薬は、うつ状態を改善するなど、ことばではなかなか実現できない全体的な精神状態を強力にコントロールする力はありますが、具体的な行為については細かいコントロールはできません(出来たら怖いですが)。
次に薬とことばの役割分担はどうなっているのか、ということですが、これもわりとシンプルで、基本的には「ことばによる関係調整、精神状態の改善」が限界に来たと感じられる場合に薬の力を借りることになります。フロイトが始めた精神分析療法や、さまざまに展開した心理カウンセリングは、ことば(象徴。論理を使う場合も)によって精神の働きを調整しようとする手法ですが、その手法がかなりの効果を持ったのは神経症のレベルの困難で、それが精神病のレベルになるとその効果は限定的でした。フロイトの娘のアンナ・フロイトたち次世代はフロイトの精神分析をさらに進めて統合失調症の精神分析的な理解、という問題にも取り組みましたが、なかなか劇的な展開がないまま、精神病の症状に劇的に効果のある薬物がいろいろ発見されることで、精神病の治療の中心は完全にそのような手法に移っていきました。
ということで、現在では精神症状が重篤であるほど、薬物療法が中心となり、カウンセリングなどことばによる対処法はそれを前提に用いられるといった関係になっています。
では発達障がいの子どもに対して薬が投与されるのはなぜでしょうか?これも基本的な理由は簡単です。発達障がいの子どもが示す行動について、「理解が困難」だからです。「ああ、この子はこういう理由でこんな行動をとるのね」ということが、周囲の人に理解できれば、その「理由」を調整することで状態を調整することができます。「そうか、この子はこういうことに悩んでいるんだ」ということが見えてくれば、その子の悩みに適切な形で相談に乗ってあげることで、その悩みの解決に結び付けることができます。そういうときにあえて「薬」に頼る必要はありません。
けれども往々にして「どうしてそうなるのか」が全然わからないということが起こります。そうすると、「理解」することをあきらめて、「薬」の力に頼らざるを得ない、ということになります(※※※)。精神分析が薬物による精神療法に主役の座を譲ったのも、精神分析という手法が「一見意味が分からない行動の隠れた意味を発見する(無意識の葛藤の発見)」ということに、神経症レベルではある程度成功したのに対して、精神病のレベルになるとそれができなかったからです。意味が分かればそれに応じた関係調整が可能ですが、意味が分からなければお手上げになる、というわけです。
たとえばADHDの子が注意がそれたり衝動的に動いたりする。定型発達の子どもであれば、ことばで注意すればその状態はある程度コントロールできるのに、ADHDの子はそのような働きかけ方に効果がない。本人も意識の上では(ことばにできるレベルでは)そう注意しなければならない、ということがわかっていても、気が付くとそうでない行動をとってしまう。「意味がお互いに共有されている」はずなのに、それによって困難な状態が改善しない、ということになり、ところが薬の服用によってそれがかなり軽減されるので、薬の投与が必要と考えられるようになります。
これに対して自閉系の子どもの場合は少し事情が異なります。「どうしてかわからない」という点では自閉系の子に対しても同じことが起こりやすいのですが、そのポイントがかなり違います。ADHD系の子の場合は「本人もそうしなければならないことは納得しているのに、それができない」ということがあるのに対して、自閉系の子の場合「なんでそうしなければいけないのかがぴんとこない」ということが多いからです。
言い換えると、ADHDのこの場合は定型発達者との間で「意味の共有」はしやすいのに、その意味に基づいて行動するときにそのコントロールに困難が起こりやすく、自閉系の子は行動のコントロール自体はそれほど問題がなくとも、それ以前に「意味の共有」自体に困難が生まれやすく、その結果行動上もちぐはぐになりやすい、という風に理解できます。そしてそのような困難の積み重ねによって二次障がいが深刻になり、やがてうつや攻撃性の高進などへの対処としての薬物投与が必要になるという事態も起こります。
仮にこの見方がある程度妥当だとすると、自閉の子と「意味の共有」についての工夫がうまくいけば、かなりお互いの間に生ずる困難がことばによっても調整しやすくなるということになります。もしそこがうまく進めば、二次障がいにもなりにくくなり、薬物投与の必要性も減少していくでしょう。平たく言えば「お互いに分かり合える」方法を開拓していくことが大きな課題となります。
そんなことできるはずがない、と思われる方もあるかと思いますが、それが必ずしもそうでもない、ということが少しずつ見えつつあるというのが私たちの経験からくる実感です。そのような実感を裏付ける一つの取り組みが、逆SSTであるわけです。お互いに持っている視点がびっくりするほど異なる、ということに、こういった対話的なやり取りを通して初めて気づき、その気づきを大事に関係の調整の仕方を工夫していくことで、「誤解」に基づく困難が軽減される方向に向かう、ということはおそらく間違いないだろうと思っています。もちろんそのことをより確かなものとして確認するのはこれからの課題なのですが。
※ 「結果」で判断するのではなく、「意図」で判断するようになる、というのはひとつの発達の道筋としていろいろなところに見られるようです。刑法の考え方もその方向に進んできましたし、面白いことにピアジェの若いころの研究では子どもの「罪(悪さ)」の判断もそういう風に変化することが見出されています。たとえば「A君は間違って10個のコップを割ってしまいました」「B君はわざと1個のコップを割りました」「さて、A君とB君と、どちらがより悪いでしょう?」というような質問をすると、年齢の低い子はA君が悪いと言い、大きくなるとB君が悪いというようになる、といった話です。年齢の低い子はA君が「10個も割った」のに、B君は「1個しか割らなかった」からA君が悪いと判断し、年齢が上がるとA君は「意図せずに」割ったのに対し、B君は「意図して」割ったのだから、意図の有無で判断してB君が悪いと判断するようになる、ということになります。
ディスコミュニケーション現象では、もう一つ複雑なことが起こります。それはCさんが持つ価値観では「良い」と判断されることをDさんに行ったとき、その行為がDさんが持つ価値観では「悪い」と判断されることだった、といった場合で、しかもお互いに異なる価値観に基づいて行動していることが理解されていない場合に結果が深刻になります。定型発達者と発達障がい者の間にはこういう事態が起こりやすく、そのことで問題が深刻化し、その結果通常は弱者の側になる発達障がい者が否定され続けて二次障がいに至る、という展開が生ずるわけです。自分の価値観だけで単純に相手を判断しないことが重要になる場面ですが、「当事者の視点」の理解を大事にする必要がそこにあります。逆SSTはそういう問題を解決するための試みの一つになります。
※※ ここではこれ以上述べませんが、音楽や踊りも人の精神状態を直接に変化させる重要なツールになります。お祭りや葬儀、結婚式など、集団や個人にとって重要な節目になる場面では、これらのツールが大活躍することになります。またアフリカのマサイ族などの生活具には鮮やかな色彩の模様が描かれていて、見ていて生命力を感じさせるのですが、昔、彼らの中に入って研究している人に聞いたらそれは当然で、色は彼らにとって「薬」なのだ、ということでした。最近ラスコーの洞窟壁画などについて、古代の人は洞窟の奥深く軽い酸欠で精神状態が変化した状態でそれを描いただろうという研究を見ましたが、彼らにとっては絵画は一種の精神に作用するツールで、そのツールをハイになったりやや朦朧とした精神状態の中で生み出したのかもしれません。また間接的に働きかける手段としては「環境の調整」があります。たとえばTEACCHは環境を自閉系の人にとってわかりやすい手がかりを(主に視覚的に)提示することで、彼らが環境を理解して行動しやすくする、ということ(構造化)を行っており、これも物理的な配置や物質的な記号手がかりを用いて間接的に精神に働きかけている、というふうにみることができます。
※※※ もちろん薬で状態がある程度コントロールで来る範囲は限界があって、医学者に聞いてもたとえば学習障がいの特性それ自体については教育的な工夫が中心で、自閉的な特性それ自体については現時点では効果的な物質が見出されているわけではなく、一番効果があるのは注意欠陥多動性障がいの特性だと言います。それとあとは二次障がいとしての抑うつ状態の改善や攻撃性の緩和など、気分的な調整でしょう。
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