2021.07.18
緘黙が持つ大事な意味
先日の事例検討でちょうど緘黙のお子さんについてやったので興味を持ったんですが、印南敦史さんという方が「人前で話すのが苦手」なのは生物学的に「しょうがない」ということを、「生物学的にしょうがない!」という本を紹介される形で説明されていました。
概略を言うとこういう話です。
動物はいろんな危険から身を守って生きなければならない、というのは当然ですよね。そして草食動物はそうだし、雑食のチンパンジーや人間でも、肉食動物の危険から身を守らないといけなくて、そのためには「群れる」ことが必要だったんだよね。ということが出発点です。
これは生物学で昔から言われていることなんですが、「集まる」とか「群れる」ということにはいろんな利点があります。たとえば危険が迫っていても一匹だけだと気づけないかもしれないけど、群れでいればその内の一匹が先に気づけば、あとは「警戒音」を出したり毛の色で「警戒色」を見せたり、先に逃げ出したり、という形で群れ全体がすぐに対応できるようになります。つまり「やられる」ということへの警戒心がそういう群れの行動の基本にあるということになります。
ということで、「人前で話す」というのは、話すことでだれからどんな攻撃を受けるかわからないという緊張した場面を作るんだというわけです。発達障がいの子もしばしば周りから「なんでこんなことができないんだ!」「なんでそんな言い方をするんだ!」「なんでおんなじことをいつも言わせるんだ!」などと攻撃され続けたりしますから、そういう緊張を持ちやすくなって生物学的には当然なんですね。
そしてもちろんそれは発達障がいの子に限らず、だいたい人間はみんなそうなんだというわけです。
私も今でこそ人前で話すことは平気になりましたし、講義や講演でたくさんの人にはなすのもそんなに緊張しません。というか、もうちょっと緊張しろよ!という話かも(笑)。でも子どものころから実際はかなり人見知り傾向が強く、内向的な性格だったんですね。ユングのいう内向VS外向でいえば明らかに今も内向です。
ですから「人前で話すのが苦手」なのはむしろ動物としては基本形だというわけです。逆に「人前で話すのが平気」というのは遺伝子コピーの失敗から作られた突然変異だという考えを印南さんは紹介しています。だって「危険に対して鈍感だ」というわけですものね。そりゃやばいということになります。
普通は「人前で話せること=望ましい普通の姿」VS「人前で話せないこと=困った姿」というイメージで語られるでしょう。でもそんなの生物学的に言えば逆なんだよ、という話ですから、楽しい考え方になります。
ただし実際は「人前で話せること=異常な姿」ということにもなってしまいそうなこの説明だけだとちょっと生物学的にも実は問題があって、「人前で話せること」にも当然生物学的な意味があるわけです。特に人間の場合ですね。
なんでかというと、人間の群れ、つまり集団・社会というのはチンパンジーやボノボなんかの群れとは性格が異なってきていて、群れの中の個性の差が大きな役割を持ってきています(※)。保育園で子どもたちの遊びを観察していてもすぐに気づけるでしょう。子どもたちの中にはリーダーシップを取ろうとするタイプの子もいるし、フォロワーになろうとする子もいます。また同じリーダーシップでもいろんなタイプのリーダーシップがあって、それによって集団遊びがうまく展開したりしなかったりもします。リーダーとフォロワーの相性も大事です。
ということで、結論は簡単で「それぞれの個性にはそれぞれの意味があり、役割がある」ということなわけです。
ADHDの子でしばしば問題になるのは「危険なことを平気でしてしまう」ということだったりしますが、これも言い換えると「危険を顧みずに何かに挑戦する」とも見えます。ということは、新しいことに挑戦する力が旺盛で、ほかの人たちがびびって成し遂げられないことを成し遂げる力を持っているんだともいえるわけです(もちろん危険を代償としてですが)。
事例検討で議論した緘黙の子も、実際にはとても人とのコミュニケーションを求めていることがわかる子でした。その子なりに豊かな感性で自分の世界を持っていて、ただそれを自分から強く押し出すこともなく、やさしく共有してくれる人とのつながりを大事にしています。そしてそれができる人との間に楽しい世界を作り上げているんですね。
激しい戦いが繰り広げられる世界の中で、そうではない世界を大切に人とつながれることを静かに願っている。そんなタイプの人がいなくなったら、人間社会は滅びの道を進むことでしょう。だから緘黙傾向の人がいることもみんなにとってとても大事。あとはその「個性」がほかの「個性」とぶつかり合って困難を生む事態をどうやって調整して、お互いの良さを生かした関係をつくれるかなんだと思います。手を変え品を変え、このブログではいつも同じことを言ってるだけですが(‘◇’)ゞ
※ 私が一方的に「心の師」と思っていた、自然人類学の世界的な権威でもあった故伊谷純一郎先生が大昔に自然人類学のゼミで言われていた話なんですが、ニホンザルなんかの群れでもどうも「性格」が群れの中の位置に関係していると思うというんですね。ただ「性格」をどう測定していいかわからないので、今はデータを採れないが、という話でした。つまり、すでにニホンザル(マカク類)のレベルでも個体差(性格)が群れの構造化に意味を持っているということを、伊谷先生は当時見抜かれていたということになります。ましてや人間は、ということですね。
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