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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2021.07.11

支援の足場としての「友達関係」

今日は「水越さんと語り合う会」をzoomで行いました。

水越さんは支援を必要とする方への生涯教育提供の場としてのみんなの大学校の学生委員長を務めながら、先日開催した公開講座「多様な『学び』で変わる支援 ~障がい当事者の可能性を広げる新たな試み~」 でインタビューに応じてくださった方です。高校中退以降、長い引きこもり生活を経て、いくつかの福祉サービスを活用しながら、今は「学び」ということを一つの軸に、新しい人生を歩みだされています。

そのインタビューはいろいろな方に大きな刺激を与え、事例研究会でそのインタビューを見ながらみんなで議論したときも、みなさんの熱心な議論が展開していました。

このまま一方的なインタビューで終わるのはもったいないと思い、定員付きで希望者を募集し、直接水越さんと語り合う場を設けたという経緯で、今日は15名の方の参加で予定の2時間をオーバーしての対話の場となりました。参加された皆さんご自身の経験や思いと水越さんの話がそれぞれにリンクする形で、参加者一人一人に新たな何かを生み出す場になったように感じました。

水越さんもそのことを感じられたようで、そうやってご自分の体験を語ることがそれを一生懸命聞いてくれる方たちに何かを提供できていると感じられることで、自分のこれまでの苦労に意味を感じられるようになる、ということを言われています。

 

そこでも少し話をしたのですが、支援ってなんだろうということを私は改めて考えました。

「障がい者」という社会的なカテゴリーを与えられた方たちと、「非障がい者」との関係はしばしばとても微妙になります。というのは障がい者は特別の配慮が必要な人ということで支援の対象となり、非障がい者には与えられないようななんらかの特別の資源が提供されることになります。

このため、両者の関係は「してあげる側」と「していただく側」という関係でイメージされやすくなります。そして支援をしている人の中には、この考え方が強烈になる人もあります。その場合何が起こるかというと、「自分がこれだけやってあげているんだから、感謝しなさい」と感謝の態度を強要するようになることもあります。

いや、もちろん何かをしてもらったときに感謝するのは障がい者に限らず誰にとっても当然のことでしょう。ただ、それがひどく問題になる例の一つは、「支援」する側が、自分の考え方に支援される人を無理やり押し込めようとする場合です。それは支援される側が本当に何を必要としているかではなく、支援する側の「自分は支援をしてあげている」という自己満足のためのものとなってしまうことがあり、そうなると、むしろ「有難迷惑」になったり、本人の主体性を無視し、その意思をくじいてしまったりすることもあります。

水越さんが面白い表現をされていたのですが、ある段階で自分の障がいを認める、いわゆる「障がい受容」をされたとき、とてもまじめな水越さんは「障がい者の優等生」になろうと頑張られたとのことでした。つまり、非障がい者の側が「障がい者はこうあるべきだ」「支援を受ける立場としてこういう風にふるまい、努力すべきだ」という期待が寄せられる、それに一生けんめい答えようとされたということだと思います。

当然そのような姿は自分自身にとって素直な在り方をはなれて、外から与えられた枠に無理に自分をあてはめていく、という部分を持っています。その限りでいえば「自分が自分でなくなる」危険性を常に持っているわけです。

実際に私が何度か経験したことでいうと、「支援される障がい者として、感謝の態度を示す」ことを強く求めるような態度の方には、「支援されるものとしての<正しい>振る舞い」を自分の側で決めてしまい、障がい者の方からそこを外れる反論を一切受け付けようとせず、「してもらっているのに、なんという偉そうで不遜な態度だ」と障がい者を激しく攻撃するようになる場合もあります。

つまり、「支援してあげる側」と「支援していただく側」という関係としてお互いを見ると、どうしてもそこに上下関係が作られてしまい、ひどい場合にはその枠の中で相手を支配しようとする関係に進んでしまう場合もあることになります。

 

実際ある面では両者の関係は非対称的なものですし、そもそも「支援」ということば自体がそういうニュアンスを含んでいます。ですから私自身も下手をするとそうなってしまう可能性は完全には否定できない中で、こういう関係に進んでしまうことをどうやったら無理なく避けることができるんだろうか、ということをいつも気にしていました。

こういう問題は、長年本気で福祉に取り組んでこられた方たちはとうに卒業されているようなことなんだろうと想像しているんですが、まあ私の場合まだそこまで自分自身が成長(?)できていないので、考えざるを得ないわけです。

そのことに今日、一つの答えが出たような気がしました。すごく簡単なことですが、それは「友達になればいい」ということなんです。

 

水越さんはこれまでみんなの大学校での私の授業にも参加してくれて、その場でほかの受講生も含めていろいろ議論をしたりします。もちろん「専門家」としては講義の中で私が持っている知識を「提供する」立場にあるわけですが、でも素直な私の感覚では、そういう素材を提供しながらいろいろ話し合う中で、私自身がとてもいろんなことを学んでいる感じが生まれるわけです。

先に水越さんにインタビューをさせていただいた時も、その思いがとてもありました。私がこれまで生きることのなかった世界を水越さんは生きてこられ、その世界で悩み考えてきたことをいろいろ教えてもらえる。そのことで、私自身がいろいろなことを考えさせられ、自分自身がそのことで豊かになる感覚があります。

筋ジスで寝たきりで、人工呼吸器と胃への直接の栄養注入で生活している岩村さんとの間でも、以前に書いたようにそことつながる感覚があるのですが、ほんとに素朴なやりとりでも、お互いの世界がつながる感覚が生まれて、それが私にとっても大変に「刺激的」なんです。岩村さんがどんな世界に生きているんだろう、とそういうことを想像するだけでも自分の世界が広がる思いです。

そのあたりの感覚が広がってくると、関係はもはや一方的なものではなく、お互いに与え与えられているような双方向的な感じになってきます。そこに「親しみ」が生まれてきます。この感じ、要するに「友達になる」という感覚に近いと思ったわけです。

 

もちろんこの感覚は「友達」というものが普通はもともとそういうものであるように、親しさの中にも少し距離が含まれています。たとえば親子のような関係のように、日々の生活を常に共にして、場合によってその生存自体を抱えたり常に支えていなければならない、といったところまでの密着状態ではありません。その意味では上に書いたようなことはややお気楽な立場の感覚なのかもしれません。

そのあたりについてはまた少しずつ考えていくべきことかなと思いますが、少なくとも「福祉」というこれも少し距離を持った支援者と被支援者の関係の中で「支援」の意味を考える上では、上のような感覚は大事なもののように思えます。

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