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はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

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2021.07.23

コンピューターの物語と人間の物語、そして「障がい特性」

以下の議論の目的は「「知的障がい者」という特性や「自閉傾向」など発達障がいの特性からくるその特性に基づく「物語」を、「定型」という特性による「物語」に一方的に従属させることがおかしい理由」を考えることになります(※)。

 

「感情」と「理性」の対立、「わかっちゃいるけどやめられない」現象など、類似の現象はさまざまな領域で昔から繰り返されてきた、常に古くて新しい問題かと思います。

その一部かとも思うのですが、将棋でAIが示す最善手候補と人間の差し手が一致しないことをどう考えたらいいかには前から興味を持っていました。

AIについては全く詳しくないのですが、現在AMEBAテレビの将棋中継で示されたり、youtubeの棋譜解説で提示されるような日本のコンピューターソフトの示す指し手の評価値については、基本的には悉皆的に可能な指し手のパターンを計算して、何らかの仕方で局面評価を行って判定をしているように見えます。

AMEBAテレビで見ると、計算される局面の数はある程度時間をかければ数百億手にもなっています。そして読み手数(局面の数)が増えると同時に、表示される評価値や最善手が揺れ動いて変化していくのも普通です。要するにたくさん計算すればするほど、より妥当な評価に近づく、という考えで作られているもののようです。

AI越えという評価もしばしば語られる、規格外の天才と呼ばれる藤井聡太さんは、あるときコンピューターが当初候補手の中に提示しなかった指し手を指したのが、やがてコンピューターが6億手まで読んでその指し手が最善手となったことがあって、AI越えの証拠として宣伝されたこともありましたが、それでも仮に藤井さんがコンピュータと同じ「計算」を行ったとしても「6億手」に過ぎないとも言えて、読み手数では全然勝負になっていません。

グーグルが開発したソフトの類似系列の場合は少し仕組みは異なるように理解したのですが、過去の膨大な棋譜を読ませてAIに学習させたり、コンピューター同士で対戦を繰り返させてその勝敗結果をもとに学習を進めてより強いソフトを作るというようなことも行われているようで、もしそうであればこの方が悉皆的というより少しスマートな感じもします。

とはいえ、日本で作られて使われている将棋ソフトでも、完全に全ての手を計算しているのでもなさそうです。例えばの話、あと一手で王が詰みが確定するような局面(詰めろ)が現れたときに、その状態を回避するのに無関係な手を計算することは無意味です。この時は悉皆ではなく、ある原理に基づいて読みの範囲を制約する方が合理的です。

実際、人間はコンピューターほどに可能性をすべて読むのが不可能でありながら、長いこと将棋ソフトがその人間に及ばなかったのは、この読み筋(または読むべき局面の範囲)の作り方が人間の方が効率的だったからと考えられています。

ということで、ソフトもある程度読み筋の範囲を限定する仕組みを導入することで、より効率的な計算が可能になると言う事になりますが、その制約の与え方にはソフト作成者の個性がかかわることになります。また各局面の評価の仕方についても同様でしょう。

その結果、さまざまなソフト間でも優劣が成立しますし、またソフトによって提示される最善手や評価値が異なることも普通という現象が起こります。その意味でAIは「唯一の正解」を提示しているわけではありません。

いずれにせよソフトの進化とコンピューターの計算能力の増大の結果、今では人間の最強の棋士もソフトに勝てないという時代になり、今やプロ棋士でソフトを使わずに指し手を研究する人はほぼいなくなってきているようです。

そういう状況の中で、今改めて「AIの読み方」と「人間の読み方」にはずれがあり、人間同士の対局では後者の方が意味がある、という見方がぼちぼち示されるようになってきて、「ソフトはこれを最善手とするが、人間的にはこれが正しいとは言えない」とか、ソフトの最善手とのズレを問題にされて「コンピューターが間違ってるんじゃないですか」と棋士が答えるような展開も出てきています。

さて、この「読み方」というのを表題では「物語」と表現してみました。どちらも「可能な全ての手を読む」のではなく、読む範囲に何らかの制約を与えるという仕組みが存在していて、その制約の与え方がそれぞれの思考に個性を与えています。

読み方に制約を与えることは、情報処理システムの問題としても合理的と言え、限られた資源(計算力や利用可能な情報など)の中でより妥当な判断を素早く行うために、その仕組みを生物が進化の過程で発達させてきたわけですし、人間の心理過程もそのような高度な情報処理の仕組みの一つとも言えます。

将棋の世界ではこの制約の与え方について、棋士間ですでにほぼ完全に共有されたものを「定跡」ということばで表現したり、あるいはかなり確度の高いものとして語られるものを「格言」と呼んだりしているようです。これらはいずれも過去の棋士たちの実践や研究の経験を歴史的に積み重ねて共有されてきたもので、その意味で棋士の共同体内部に共同主観的に蓄積・共有された「物語」とも言えます。

プロ棋士を目指して修行を積む者は、この「物語」をまずは学んでいかなければなりません。そしてその物語を共有しながら、さらにより優れた物語を作り出すことが求められています。

ソフトの方は、ソフト用の制約をプログラミングに組み込む段階で、ソフト作成者の人間的な「物語」が影響しているでしょうが、それでも人間的には無駄に思える手も含めて改めて膨大な数の局面を悉皆的に近く計算して最善手を探していきます。

このため、人間が歴史的に形成してきた「物語」から外れた読み手がその都度発見されるということも起こります。人間の「物語」は全ての局面を読みつくしているわけではなく、その制約の作り方はソフトよりはるかに強くて、それが人間の思考を方向付けるからです。その点でソフトの方が「自由」な判断がしやすくなります。

そこでプロ棋士がソフトが示す手筋について、「言われてみればなるほどというところもあるが、人間ではこれはまず思いつかない」と述べたりします。藤井さんの指し手が驚かれるのは、そのように人間ではだいたい「盲点」になるようなソフト推奨の手をしばしば指すからでもあります。

けれども藤井さんは決してソフトと同じ物語を生きているわけではありません。彼もわりと大きくなってから(といっても14歳で最年少プロになるよりある程度前の、小学校時代でしょう)ソフトも利用するようになったと言う事で、その際決してソフトの示した手を「定跡」のように暗記するわけではないようです。つまり、ソフトが示した読み筋を自分なりに咀嚼しなおして、理解できる範囲で使うという手法のようです。

ですから藤井さんの手は他の棋士に比べるとソフトの最善手との一致率が高いことが多いものの、かなり重要な局面でソフトの手と対立する場面も少なからずあります。しかも現実の対局では、その手がかなり重要な意味を持って勝利に結びつく場合もしばしばあるわけです。

そういうわけで、ソフトとズレた手を指すことで、一時的に評価値がかなりダウンすることもありますが、しばらく時間がたつと(計算量が増えたり指し手が進むと)評価値がぐっと再上昇するといったことも珍しくありません。

このズレが明瞭に表れるパターンの一つは、ソフトが示す最善手は一つで、そのほかの手を選択するとすべて局面を非常に悪化させるような場合です。つまり、一手も間違えることなくすべて一通りの決まった道を進むときにのみその手が最善手になり、あとはアウト、という、糸のような道をバランスを崩さずに進むような手筋が示された場合です。

限られた手法による計算能力ではコンピューターに全くかなわない人間は、ある程度読み筋に幅があり、選択肢がいくつもある状況を進んでいくことが当然で、たったひとつの道筋だけを進もうとするのは実践的にはあまりに危険でその選択は決して合理的とは言えません。人間の行動選択は「将来間違う可能性」も組み込んで行われます。

この点がコンピューターソフトの物語と人間の物語の性格の差が現れるところのひとつと考えられそうです。プロ棋士の表現を使えば「こんなの、危なくて選べないですよ」という話になります。あるいは「コンピュータは恐れというものを知りませんからね」と言われたりします。「危険性」に対する対処の仕組みがかなり異なるわけです。

だいたい以上のようなことから、とりあえず次のような結論を導き出せるように思います。

人間の物語は人間の情報処理の仕組みをベースに作られる。それは限られた情報処理能力をより破滅への危険性を回避しやすい方向で、かつより大きな成果が得られる方向で効率的に使うような「制約」の模索から生み出されたものである。それを人間は一人で作り上げるのではなく、他の人間との相互作用(対局)の積み重ねの中で、共同主観的な枠組みとして歴史的に形成してきている。

コンピュータソフトの物語はその豊富な情報処理能力をフルに活用することで、人間の制約では見出しがたい手筋を発見しやすい性格をベースに作られており、それは基本的に一つのコンピュータという「個体」内部の、歴史をあまり持たない(人間がかかわるのでそこにソフト開発の歴史は作用するとしても)その都度の発見によってその都度提示されるものです。

人間が人間の持っている情報処理法の特性をベースにしか物語を形成できない以上、人間にとってその都度最善な物語はコンピュータソフトの物語とは必ずしも一致しないのが当然です。人間はソフトが示す手順を見ることで、それを自分の物語に順次組み込んでいくことは可能ですが、そもそも物語の性格が異なるため、両者が同一になることは想定できません。

 

ここで物語の概念をさらに普通のものへと拡張して言えば、人間は自分の幸せを、価値観を含んで共同主観的に形成される「物語」の中で感じ取ります。それは人間という生き物の特性によって作られるものであり、さらに言えば個々人がそれぞれに持つ特性=個性によっても多様性が生まれます。

人間にとって、あるいはその個人にとって妥当な(その意味で主観的な)物語と、ソフトの計算で作られる「工学的」な(という意味で客観的な)物語とは単純には一致しません。そして人間の幸せに関係するのはあくまでも前者の物語なわけです。

この視点から考えた場合、「知的障がい者」という特性や「自閉傾向」という特性(それを仮にこの場の議論に沿った形で情報処理特性として理解することも全く誤りではないと思いますが)からその特性に基づく「物語」を、「定型」という特性による「物語」(この社会の中でのマスターナラティヴ)に単純に従属させることの過ちもわかりやすくならないでしょうか。

 

※ この文章は、異なる考え方を持ったもの同士の相互理解や関係調整の仕組みを考える「文化理解の方法論研究会(MC研)」のメーリングリストに投稿したものをベースにしています。

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