はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2021.07.29

響き合う心身と響き合いにくい心身(1)

人はなぜ他者の気持ちを理解できるのでしょうか?逆に言えばなぜ理解できないことがあるのでしょうか?

これは哲学的にもずっと大きな問題になってきたことでしょう。だって私の気持ちは私の気持ちで、他の人は直接には私の気持ちは見えないはず、と普通は思いますよね。もちろん表情でわかるじゃないかということもありますが、でも人は悲しいときにも笑顔をつくったり、うれしいときにもわざと喜びの表情を隠したりします。そんな風に考えると、「やっぱり人の気持ちなんて本当にはわかるわけないよなあ」ということになりそうです。

 

そういう問題が特に深刻に表れやすいのは、自閉系と定型系の間のコミュニケーションでです。たとえばアスペルガーの人に何か頼みごとをしたら、ものすごくしんどそうな顔をされることがある。定型の側はびっくりしてしまいます。そんなにひどいことを頼んで相手を傷つけてしまい、そのことをその表情でこちらに訴えかけている(あるいは「そんなひどいことを頼むなんてひどすぎる」と非難されている)のかと感じてしまうからです。でもなんでそんな頼み事でそこまで「非難」されなければならないのかが定型の側は全く分からないのですね。

相手に何かを働きかけて、ものすごく嫌な表情をされたと感じた場合、定型はそれを「相手からの強い非難」と感じる傾向が強いと思います。ですから、逆の立場になって相手から嫌なことを頼まれたときも、相手との関係をそこで悪くしないために、「相手に対して直接イヤな表情を向けないようにする」という振る舞い方をだんだん身に着けていきます。そしてそれが提携にとっては普通の、当たり前のことになってしまうので、相手がダイレクトにものすごく嫌な表情を見せたときには、自分を強く非難しているんだと当たり前のように感じ取るようになるのでしょう。

ところがそう感じ取って相手の人に「なんでそんなに怒るの?」と尋ねると、今度はアスペルガーの相手の人がびっくりしてしまう、ということがあります。非難するつもりなんてこれっぽっちもないのに、どうしてそう思われるのか、と大混乱するのですね。そうすると「自分が強く非難された」と思い込んでいる定型の側がまた混乱します。「だってそういう表情をしてたじゃない」というわけです。

いろいろな関連するケースを考える中で、これもまたディスコミュニケーションの典型例として理解できることがだんだんとわかってきました。つまりその「表情」が何を意味しているのかについての理解が全然お互いにずれているということで、そこでお互いの間に大きな齟齬が起こると考えられるのです。

もう少し話を進めましょう。「なんでそう怒るの?」と尋ねられてびっくりし、「そういう非難の表情をしてたじゃない」と言われてアスペルガーの人がきょとんとしてしまった後に出てくる説明の一つは「そんなことを頼まれて、果たして自分にできるのだろうか?」ということについて心配になり、その点で悩んでしまって困った顔になっていただけなのだということです。

もちろん同じ状態は定型でも起こり、場合によって困った表情になることもあるでしょう。けれどもその時、定型は「この困った表情は、相手には非難と受け止められる危険もある」ということを、ややこしい理屈抜きに直観的に感じ取って、相手に「誤解」を与えないように顔の向きを変えたり、困った表情をやわらげようとしたり、あるいは相手に「自分にできるかなあ」とことばで補ったりといったことをかなり自然にやることが多いでしょう。

そしてもしそういう「配慮」が間に合わなくて相手から「そんなに怒らなくてもいいじゃない、無理ならいいよ」と言われたりすれば、すぐになんで相手がそういう言い方をするのかを理解し、「ごめんごめん、ちょっとほんとに自分にできるか考えちゃって」などと「誤解」を解くために「説明」したりするでしょう。なんで相手がそういう質問をしてくるのかに戸惑うことは少ないはずです。

ここに見えてくる両者のずれは、「表情」というものを「相手から見た表情」から理解するか、「自分の素朴な感情の反応」として理解するかの違いということになります。定型は自分の表情が相手にどうみられるかを常にと言っていいほどに気にしていて、そこを調整します。ところがアスペルガー系の方はその時「自分の感情」の方に注意が集中しやすく、「相手から見た表情」は意識の外に置かれやすいのだと考えるとわかり易いです。

 

とはいえ、これがすべてのアスペルガーの方に当てはまるわけではないでしょうし、またすべての場合に当てはまるのでもありません。自閉系の方たちもある意味では定型以上に周囲の人たちの反応に気を使い続けています。ただ、感覚的にはその周囲の人の反応が理解しにくいことが多いために、客観的に観察を繰り返し、たとえば眉がこういう風に動いた時には相手はこういう態度になっている、体のこういう動きはこういう感情を意味しているらしい、といった「推測の知識」を一つ一つ積み上げて、そういう観察によって事態を乗り切ろうと努力されることが多いのですね。

感覚的にわからないから、頭で理解しようとするのは定型でも同じです。たとえば異文化の中に入って相手の振る舞いの意味がぜんぜんぴんと来ないような状態に陥った時、一生けんめい頭でそれを理解しようとします。「主観的」に感覚的にはわからなくても、「客観的」に頭で理解して乗り切るのです。たとえば「ここの人たちはこういう習慣を持っているんだ」といった理解です(※)。

ですから、特に知的な分析力がすごいアスペルガーの方は、そういう形で「定型の感情の仕組み」を頭で分析的に理解して、日常のコミュニケーションの中でもそういう力を使って定型との間のトラブルを最小限に抑える努力をされています。その結果、定型の側が相手の人のアスペルガー傾向に気づかずにやりとりすることもあります。もちろんこれは定型が感覚的に、直観的に感じ取ることを「緊張しながら多大な注意力を用いていちいち頭で分析する」という大変な作業を伴うので、疲労度は定型の比ではなくなります。

 

さて、この感情的な感覚的な理解がどうして成り立つのか、それが成り立つ状態を「響き合う心身」と仮に表現してみましょう。そうするとそれが成り立ちにくいには「響き合いにくい心身」ということになります。次回はそういう形で心身の響き合いの特徴ということをベースに、定型系と自閉系のディスコミュニケーションが生み出されていくベースとなる問題を考えてみたいと思います。

 

※ 構造主義的人類学者レヴィ=ストロースが重視するのは、そういう意味での「慣習」の意味をさらに抽象化した「客観的理解」だと考えられるでしょう。その文化の人たちが主観的にそれをどう意味づけて理解しているかは本当の問題ではなく、そういった意味付けを伴いながらふるまっている「行為の構造」こそが文化の客観的な本質なのだという考え方です。レヴィ=ストロースが批判したマルセル・モースの贈与論は、逆に「その人たちがその行為にどんな意味づけをしているのか」という主観的な観点から文化的な行動を説明したのですが、そういう説明の仕方の良いところは、「ああなるほど、そういう感じなんだね。確かに私たちも違う文脈では同じようなことを感じたりすることがある」といった形で、ある種の「共感的な理解」に結び付きやすいところです。そうするとお互いの間に相手の立場を共感的に理解しながらのコミュニケーションをとる可能性が見えてきます。これに対して構造主義的な分析で見出された文化の差は、「ドライに数学的に分析すればこういうものだ」という形で、第三者的な視点からその文化の性格が見えてきますので(たとえば贈与論の文脈では集団間での婚姻関係を「女性の交換の構造」という視点で分析したりしますが、これなども「女性を物のように扱っている」という感情的な反発が生まれそうな理解の仕方でしょう)、その理解が異なる文化を持った当事者たちの間の感情面を含んだ関係調整にダイレクトには使いづらいものになります。ちなみに質的な分類法として世界的にも有名なKJ法(川喜田二郎法)の面白さと実践的な有効性は、そういう客観的な構造の見出し方を当事者間の丁寧な対話の中で、主観的にも納得しやすい形で見出そうとすることにあると私は考えています。

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