はつけんラボ(研究所)

所長ブログ

  • 所長ブログでは、発達障がいをできるだけ日常の体験に近いところからあまり専門用語を使わないで改めて考え直す、というスタンスで、いろんな角度から考えてみたいと思います。「障がいという条件を抱えて周囲の人々と共に生きる」とはどういうことか、その視点から見て「支援」とは何なのかをじっくり考えてみたいと思います。

2021.08.01

二つのつながり方:ネットワークとヒエラルヒー

障がいと支援という問題を考えたとき、単純に言うと二つの視点があります。ひとつは「健常(定型)」を「正常な在り方」と考えて、それから外れた人を「障がい」と考え、障がいの人を如何にして正常に近づけていくか、ということを考える視点です。もうひとつは健常(定型)も障がいもそれぞれの特徴と考え、ただその世の中の中心を占めている多数派の特徴を健常(定型)とし、少数派の特徴を障がいと考え、それぞれ異なる特徴を持つ者同士でどうやって関係を調整していくか、ということを考える視点です。

人間というのはもともと一人一人違うので、それをどうやってまとめていくのか、お互いのズレをどう調整していくのかは昔からの大きな課題であり続けてきたいのですが、ちょっと教科書的に言えば、近代の社会というのは、そういう多様な人々の在り方を、なにかの統一した原理で説明し、それに基づいて知識や社会の秩序をつくろうとした時代でした。

たとえば法律の世界では「人は生まれながらにして平等で、すべての人が等しく人権を持っている」という考え方が基本になっていて、それで中世以前のような「生まれながらに違う」=「身分」という考え方を否定します。近代法の仕組みはそういう「一人一人が等しく持つ人権」をベースに、お互いが自由意思に基づく契約を行うことで成立するのだ、という理解の仕方をします。そして政治というものも、そういう一人一人を主権者と考え、その主権者が持つ政治的な権利を投票によって政治家に預ける代議制による民主制という仕組みで成り立たせようとします。

経済の世界では「利害を合理的に判断して、自分の利益を最大化しようとする」という「経済人」というものを想定した議論が中心となります。実際には人間はそんなに合理的には行動しませんし、そもそも合理的な判断を下すために必要な情報も十分には得られませんので、この考え方だけではうまくいかず、そこに心理学的な理解を含めて調整しようとしたりもしますが、基本は個人の利益に置かれます。

心理学の世界では、ピアジェの知能の心理学に典型的なように、どんな時代のどんな場所に育つ人であっても、人である限りはみんな共通する知の仕組みがある、ということが前提となって、そういう「普遍的な仕組み」がどのように子どもたちの中で順序だてて作られていくのかを研究しました。

………という話はいくらでも続けられますが、いずれも「単一の原理」から「多様な世界」を説明したり秩序付けたりしようとする思想があって、それが近代の大きな特徴になっています。

それで、皆さんも日々の生活の中でもうリアルに感じてきていると思いますが、そういう近代を特徴づける仕組みの全体が大きく揺れ動いて次を探しているのが現代の社会です。言い換えると「単一の原理」ですべてを秩序付けるのではなく、「多様性」を前提にしてそれをどう「つないでいく」のかが大きな課題になっている時代に完全に突入しているのだということです(※)。

ということは、当然のこととして、「障がい」という問題を考えるときにもそこが大きな問題になってきているわけです。そして「障がい」の問題を「困った人を助けてあげる」という「上から目線」の問題としてとらえるのではなく、「同じ人間として同じ権利を持っている人と共生する」という視点から「共生社会の実現」という理念でとらえる考え方に世界はほぼ完全に移行しています。

ただ、ここでちょっと注意が必要なのは、「同じ人間として」という考え方は二つの面があるということです。ひとつには「障がい者」を「健常(定型)者」から外れた人として見るのではなく、「人として同じ」というふうに考える点では近代的な理念をより徹底したという面があります。と同時に、そこで「多様性」が強調されてきています。この、多様性を認めるということは、近代が目指してきたような「単一の原理で多様なものを説明してしまう」という枠を超える可能性を持っているということです。

障がいの有無で当然「違い」はあって、それは決して「同じ」にはならないし、お互いのことを完全に分かり合うことは無理なんだけど、その違いは違いとしてお互いに認め合いながら、それぞれの生き方に「同じ人間として」価値を認め合って生きていく、そういう意味での「共生」が課題になってきていると言えるのだと思います。

そういう課題を私たちが抱えているのだとすれば、「違い」を持った人同士をどうやってつなげていくことができるのか、ということを考えていく必要があります。多様性を前提にしたつながり方の仕組み、秩序の作り方ってどういうものなのでしょうか?

それを考えるために、ここで人間の社会が持っている二つのつながり方についてまずは考えてみたいと思います。

文化とは何か、どこにあるのか:対立と共生の心理学」という拙著の中でも少し理論的には説明したのですが、人と人とがつながるとき、単純化するとネットワーク的なつながり方とヒエラルヒー(中央集権)型のつながり方があると思います。(※※)

図を見ていただければ直観的に理解できると思いますが、ネットワーク型というのは人がそれぞれ適当に周囲の人とつながって、繋がりがほかのつながりとつながって網の目状に広がっていくようなつながり方です。どこかに中心があるわけでもなく、またはっきりとした切れ目がどこかにあるわけでもなく、どこまで広がっているのかも見えません。見えるのは自分の周囲の世界だけです。その意味で中心は自分自身で、人の数だけ中心があるという形です。

これに対してヒエラルヒー型は自分の上位の人を核に横の人とつながって、その形が積み重なって一番上の人にたどり着きます。そうするとその一番上の人が全体を代表する形になって、すべての人がその人を中心にこの枠組みの中に組み込まれることになります。この形のつながりは中心が一つではっきりしていて境目も明確です。

人の世の中、このうちどちらかだけで成り立っているというのはまず考えにくいですが、そのどちらを強調するか、重視するかというところの違いはあるでしょう。たとえば近代の軍隊という組織は典型的にヒエラルヒー型で、上官の命令は絶対です。そうやってトップの命令が下まで貫かれるという形になる「斉一的」な組織になります。でもその中にいる一人一人を見れば、それぞれが友達関係を持っていて、その友達関係はネットワーク型ですよね。

家族はヒエラルヒー的な感じとネットワーク的な感じと、両方が混じっていると思います。そしてネットの社会は基本的には文字通りネットワーク型のつながりになっています。そこでは情報発信が中心になる人と、受信が中心になる人に分かれたりもしますし、情報発信する人の中で多くの人とつながりをもってそれなりの影響力を発揮する人がインフルーエンサーと呼ばれたりしています。これはヒエラルヒー型のつながりの中の「上司」のような「命令をする人」ではなくて、相手の興味関心に訴えてつながりをつくりますが、それで相手を支配するわけではなく、影響力を持つだけです。

そしてネット上にはいろんなインフルーエンサーがいて、人々は適当にいろんなインフルーエンサーを渡り歩きながら、自分なりにそれを利用しています。気に入ればつながり続けますし、気に入らなければすぐに去る。そういう繋がりは軍隊的な「斉一的」組織に対して、いろんな要素が多様な形で入り込む「多元的」なつながりになります。

こういうつながり方の中に人が入る場合、一人一人が自分の感覚でつながりを作っていく、という点が大事なポイントになります。ヒエラレルヒー型の場合は「上意下達」ということばもあるように、お互いをつなぐのは「上の意志」という単一のもので、中心は自分以外のところにあります。けれどもネットワーク型では「自分の感覚」が一番の基本なわけですね。それぞれの感覚は一人一人違うので、そもそもつながり方が多様になりますし、それぞれの人が自分を中心としてつながりをつくる(あるいはつながりに入る)わけです。

というわけですから、このネットワーク型のつながりの場合、AさんとBさんがつながる理由と、BさんとCさんがつながる理由は同じとは限らない。いや、むしろ違っていることの方が普通だと言えるでしょう。ひとりひとりが自分の中に多様な面を持っていて、BさんがAさんとつながるときとCさんとつながるときでは、その多様な面のどこでつながるかが違うわけですね。

だからそれら全体のつながりを単一の原理で理解することはそもそもできないし、その必要もないのだということになります。

この視点から障がいの問題を考えても同じことになります。「○○の障がいを持つ人は××である」といった単純な決めつけは意味がなくなります。確かにその人の中にはその人の多面性の一つとしてそういう面もあるけど、それはその人の一部でしかありません。その人がほかの人とつながるルートはもっとたくさんあるのが当然のことになります。

今は社会がヒエラルヒー型のつながりが優勢だった時代から、ネットワーク型のつながりが優勢な時代へと急速に移行してきているときで、後者のつながり方で社会を運営していくやりかたを模索している時期になりますが、これからのヒエラルヒー型のつながりがなくなってしまうことはないにしても、後者が優勢になる世界の中でのこれからの新しい生き方をみんなが模索していて、当然障がい者と健常(定型)者の間の関係もそこから見直していかなければなりません。

研究所で重視している「当事者視点」は、その時代の課題に応えるために大事なポイントの一つですし、そこから新しいつながり方を模索するための一つの工夫として、渡辺主席研究員と大内雅登研究員が話し合いながら作り上げてきている逆SSTという試みがあるのだと思います。

ちなみに、同じヒエラルヒー型のつながりでも、それを真横に見たときと、真上から見たときではちょっと見え方に違いが出てきます。もしかするとこういう視点の転換をすることで、ヒエラルヒー型も少し柔軟に見えるようになるのかも………

 

※ 私の学生時代には、思想とか理論、哲学の面で「ポスト近代」が盛んに言われていました。社会はこれから近代の枠組みを超えて、次の枠組みに突入していくのだという議論です。私もいろんな面でそう感じ、考えていましたが、ただ世の中的にはまだまだそのことが誰の目に見える形で表れているわけでもなく、その変化は少なくとも歴史的には数百年に一度起こる程度の大きな変化なので、その意味では「そうは思えるけど、ほんとにほんとかな」「自分の生きているうちにそんなことが起こるのだろうか」という迷いは少しは残りました。でも今の状況はほとんど誰の目にも生活実感の中でそのような変化が現実となっていることを感じられる状態でしょう。

※※ この二つのパターンを知識・思想の面で強調した人にドゥルーズ・ガタリという哲学者がいて、西欧近代の知の枠組みは中央集権型が主流だったと考えるようです。つまり、世界のすべてを統一させるような中心的な原理があって、そこからすべてが秩序付けられるような世界の理解のされ方です。それに対してむしろ世界はリゾーム型(ネットワーク型)として見られるもので、別にどこかに中心があるわけでもなく、それぞれが適当に周囲とつながってどこが始まりでも終わりでもない形で展開している。

中国の社会はこれでいうとヒエラルヒー型だと、中国の社会の実態をあまりご存知のない方は思われるでしょうし、たしかにそういう側面もあるわけですが、ただ実際にはものすごく強いネットワーク型の人間関係が社会全体を支配していると思います。ネット社会で中国がものすごく経済的に発展した理由の一つは、社会がネットワークする中で、それが中国という社会の仕組みにもともととても親和的であったということにあるでしょう。

ということは、ある意味当たり前のことですが、その二つのどちらか一つで社会が成り立っているとは考えられず、どんな社会でも、どんな人間関係もその両方の形がいろんな形で組み合わさって成立しているのだということですね。

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